24.10.01(火)
前日と同じ本荘行きの路線バスに乗った。前日は 1km ほど離れた長崎屋前で乗ったが、この日はホテルから 400m ほどの川反入口バス停から乗車。
この日歩いたルートと写真など
8:30 岩城郵便局前バス停から、この日の街道歩きを開始。JR道川駅と国立秋田病院の間を通った後、勝手川の前後でやや海岸から離れたルートを通った。旧街道のようにも見える。国道7号の旧道かな。
途中、ヒガンバナが咲いていた。かつては秋の彼岸の花だったが、年々開花が遅くなっているように感じる。北東北でこの時期かあ。温暖化だね。
薪の無人販売
9:29 薪の無人販売があった。野菜の無人販売はよく見かけるが、薪の無人販売は初めて見たな。
その先も国道7号とその旧道を通ったが、「東北の街道」の記述「この間の街道筋は不明」が続くようだ。
らいらっく号
9:34 日本海の海上に客船が見えた。南行きで、帰宅後に写真を拡大したら船体後方に「らいらっく」と書かれているようだ。調べたら新日本海フェリーの苫小牧→敦賀直行便らしい。
10:38 戊辰戦争の長浜古戦場跡という標識があったので立ち寄った。後半100mほどは草ぼうぼうで、ヌスットハギがズボンや靴に付着した他、靴の中に細かい種子が多数入ってきた。
古戦場跡から国道旧道に戻った後、靴の中が痒いので本敬寺という寺に立ち寄り、ヌスットハギ(ひっつきむし)を除去し、靴を脱いで細かい種子を外に出した。本敬寺の先には戊辰戦争松山藩士の墓もあった。
11:44 踏切を越えようとしたら「第二酒田街道踏切」と書かれていた。羽州浜街道には「酒田街道」という別名もあるようだ。
正午過ぎ、左折すべきところを2つ続けて通り過ぎた。2回ともすぐに気付いて引き返した。1回目と2回目との間で踏切を越えたとき転轍機が見え、信号場かなと思って帰宅後に調べたら、桂根駅の北側の端らしかった。桂根駅は元々信号場だったのを駅に昇格させたとのこと。羽越線には女鹿,折渡など、信号場から昇格した駅が他にもある。3駅とも朝夕だけで日中は停車なし。
境川の先で羽越線と国道7号を越えて旧道へ。そのあたりからは旧街道の雰囲気となった。12:29 滝之下御本陣跡という石碑があった。藩境の警備にあたっていたらしい。
庭に五重の塔
12:42 民家の庭に五重塔のミニアチュアがあった。
丘陵を越えて坂を下り、新屋の町に入ったら、三十六歌仙が描かれた板が何枚もあった。絵馬のような五角形の板だった。何だろうと思ったら、秋田建都400年記念で2004年に作った。というような解説があった。
13:30 雄物川放水路に出た。治水のため1938(昭和13)年に開通した放水路とのこと。元の旧街道ルートは通れないから、すぐ下流の橋へ迂回。
渡った先に「日本海より1.8k」と書かれたカッパの絵の標識があった。秋田県内の河川には、カッパの絵の標識が多くある。ただ、描かれているカッパの絵は、羽州街道や鹿角街道歩きで見た絵と異なっていた。
13:40 その先にパスタの店があったので、昼食を取ることにした。歩き始めから 19.3km,29,497歩。自家製生パスタの店だそうで、ガラス張りの麺打ちスペースががあった。
14:20 昼食後、街道歩き再開。すぐに秋田運河の西側の道へ。この運河の正式名称は旧雄物川で、放水路開削前は本流だったそうだ。秋田運河こと旧雄物川の橋を渡った。この橋は市内を流れる旭川との合流地点のすぐ下流にある。かつては渡船があったらしい。
合流地点
橋を渡った後の地名は川尻。いかにも地形を表す地名だね。地形や自然環境に因む地名は、起きやすい自然災害を伝承する。と聞いたことがある。このあたりも洪水が多かったんだろう。利益誘導が狙いのチャラチャラした地名はよくないね。
出入役所跡,薪炭置場,馬市のせり場跡,旧馬口労町などの標柱、明治天皇御駐輦址の記念碑があった。だんだん城下に近くなってきたな。神社に「長崎宏子選手五輪入賞記念」と書かれた標柱があった。もう40年も前の競泳選手だが、このあたりの出身らしい。
追分の旧松倉家
馬口労町を過ぎ、15:20 羽州街道との追分に到着。羽州浜街道はここまで。昼食後は 4.0km。追分を後にし、途中でコンビニに寄ってこの晩のビールとつまみを購入。15:45 この日の街道歩きを終え、ホテルに着いた。追分から 1.3km,昼食後は 7,870歩。
盛岡に帰宅できる時刻だが、秋田で一泊することにした。