三国街道を歩く 最終14日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

23.5.28(日)
今年3月から歩き始めた旧三国街道も、いよいよこの日で歩き終える。長岡駅前 8:00 の寺泊行き路線バスに乗った。8:00 のこのバスは4年前の9月26日、おくのほそ道ウォークで寺泊へ行く時にも乗っている。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

8:40 「風味爽快ニシテ」中川清兵衛の記念碑の前、与板仲町バス停からこの日の街道歩き開始。

 

下与板

 

9:00 下与板の案内板があった。越後交通長岡線の与板駅が近くにあったとの記述。ここで県道と交叉する道が線路跡らしい。

 

本與板

 

9:10 本與板の案内板があった。直江兼続の妻、お船の生誕地とのこと。兼続は直江家に婿入りしたんだね。直江兼続を題材にした大河ドラマ「天地人」、2009年放送とのこと。もう14年も前か。兼続がしばしば奇想天外な策を出すのが印象に残っている。すぐ西に本与板城跡があるが、建武年間(1334)に新田義顕一族が居住したのが始まりの古い山城だそうだ。
9:15 三国街道の標柱で県道274号から右に分れ、県道22号の西の道を北上。おそらく県道22号の旧道だろう。

9:46 道端に田植機があり、苗のトレーも並べられていて、植える作業の直前に見えたが、周囲にだれもいなかった。忘れ物でも取りに家に戻ったのかな?
10:17 正面に弥彦山が見えた先で右折。用水路沿いに歩いて県道22号を越えた後、信濃川の堤防へ上った。堤防上を北上したら、対岸に信濃川大河津資料館が見えた。おくのほそ道ウォークの帰りに、車で立ち寄って見学したのは4年前だった。

10:50 大河津可動堰へ。信濃川の治水のため、日本海までの距離が近いこの地点を掘削して開かれた分水路の途中に設置された可動堰である。分水路は1世紀も前に開削されたので、旧三国街道のルートはかなり離れているだろう。明治時代の地図を見たらルートが判るかも。堰の上を歩いて右岸・東側へ向かった。

可動堰を渡ったあたりは燕市分水地区。戦後まもなく、地蔵堂町,島上町,国上村が合併して分水町となったそうだ。分水路に面しているから分水という名前か。周囲の車は新潟ナンバーになった。渡る前は長岡ナンバーだった。

旧地蔵堂宿に差しかかり、11:17 宿場の名の由来となった地蔵堂「願王閣」前を通過。現在の堂は 1837(天保8)年に建て替えられたものだそうだ。

 

 

良寛ゆかりの地で、良寛の絵が描かれた美術・骨董屋の看板があった。店の名は大正洞だが、「堂」でなく「洞」の字なのは何か意味があるのかな。

トイレを借りようとJR分水駅へ行ったら、上りの吉田行電車に遅れが出ているとの放送が入った。駅隣にある公園のトイレで用を足した。

11:52 分水中学校の先で右折したら、石造りの堂が2つあり、右の堂に千手観音が納められていた。摩耗していたが、台座に「天保×辰年」と刻まれていた。後でネット検索したら、天保で辰年なのは天保3(1832)年だけのようだ。だとすると×は「壬」か。

12:06 三国街道の旧宿場、関中島宿を通過。大蓮寺という寺の前に、良寛がこの寺宛てにしたためた手紙の解説が書かれていた。12:15 国上村道路元標があり、隣の道標には「みぎ いやひこ」と刻まれていた。

12:32 「いやひこ」こと弥彦から来る県道2号との合流地点に、道標が多数あった。明治に造られた後、ここに移設されたものだという。「ひだりてらとまり」,「ひだりいやひこ」など。

その先で放水路の渡部橋を渡ったが、歩道のない鉄橋で、欄干に沿うように歩いた。橋の上からは信濃川大河津放水路の切通しが見えた。切通しの両側はそれなりの山だが、1世紀も前にここを開削したんだね。橋の両側はどちらも渡部という地名らしい。分水路建設前の名残だね。

 

寺泊港4KM

 

橋を渡った先に「寺泊港4KM」の標識があった。ゴールまであと4km。
三国街道の旧宿場、渡部宿に差しかかったあたりで、若いカップルが路面を見ていた。私に気づくと会釈をしてきたので、こちらも会釈。カップルの見ていた路面には血痕が付いていた。犬か猫が轢かれた跡かな?

旧渡部宿を過ぎた先で、燕市から再び長岡市に入った。分水路が市境ではないのも、これまた建設前の名残だろうな。その先で雨がパラパラ降り始めた。ただ、前々回・一昨日夕方の雨よりは弱く、雨宿りなどはせずにそのまま歩いたら、15分ほどで雨は止んだ。

雨の中、県道2号から分かれて左の道へ。途中で峠を越えた。険しい峠ではないが、放水路のあたりもかつてはこれくらいの標高があったんだろうな。まあ、20世紀初頭だから、それくらいの土木技術は既にあっただろう。

 

北国街道(左)に合流。右が三国街道。

 

13:24 北国街道に合流。県道402号の旧道だろう。おくのほそ道ウォークで4年前の2019年9月25日に弥彦から寺泊まで歩いた時のルートでもある。旧中山道高崎宿から旧三国街道を歩き始めて14日目、約48里と言われる三国街道を踏破した。

おくのほそ道の曾良日記には「ノヅミト云浜へ出テ 十四五丁 寺泊方ヘ来テ左ノ谷間ヲ通テ 国上へ行道有 荒井ト云塩浜ヨリ壱リ計有 寺泊ノ方ヨリハ ワタべト云所ヘ出テ行也 寺泊ノ後也 壱リ有」と記されている。角川ソフィア文庫「新版 おくのほそ道」によると、荒井は誤記で荒谷が正しいそうだ。これらの地名は現在の地図にも記載されている。
そのような道があると言っているだけで、芭蕉と曾良が歩いた道ではないのだが、なんで曾良はわざわざこんなことを書いたのかな。おくのほそ道出発から3か月以上経過し、江戸に出る三国街道との追分を通り、そろそろ江戸へ帰りたくなったのかな。

 

三国街道踏破祝い

 

13:45 旧三国街道踏破を祝い、一人でささやかな乾杯。おくのほそ道で弥彦から寺泊まで歩いた後に昼食を取ったのもこの店だった。与板から 32,484歩,22.4km。
昼食後、周辺を少し歩いた後、15:17 の路線バスに乗り、長岡駅前のビジホに戻った。