三国街道を歩く 13日目 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

23.5.27(土)
この日歩く予定ルートは変則的で、ほぼ計画通り変則的に歩いた。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で


7:40 長岡駅前のビジホからウォーク開始。前日と違ってこの日は終日晴れの予報。天気の心配はなさそう。8:00 長岡空爆中心点の標識で右の方に入ってみたら、旧街道歩きでよく見かける明治天皇行幸碑があった。

 

山本五十六記念館前

 

8:07 山本五十六記念館前を通過。山本五十六は長岡出身なんだね。そのすぐ先で県道498号に出てしばらく北上した後、8:40 JR信越線の北長岡駅前に立ち寄り、トイレを借りた。駅前には「城岡停車場記念碑」があった。北長岡に改名する前は城岡駅という名だったようだ。

 

福島江

 

栖吉(すよし)川の橋を渡った先のルートは、geocities にあった三国街道の記事からルートを推定し、福島江という17世紀半ばに開削された水路沿いに歩いた。9:15 県道498号を横切った。福島江にかかる県道の橋は下々条橋とい名で、「下々条」は「しもげじょう」と読むそうだ。そのあたりから西へ向かい、信濃川の堤防下に出た。

予報どおり晴れて気温も少しあがってきたが、持ってきたペットのお茶は1/3ほど。堤防下の道だと望み薄だが、飲み物の自販機がないか。と考えながら歩いていたら、自販機を見つけた。ああよかった。と、自販機の方に歩き始めようとしたその時、右から走って来た自動車と接触しそうになった。
こういう一瞬の心の隙が生じた時に油断が生まれ、事故が起きやすいのだろう。改めて自戒。

9:30 残っていたペット1/3のお茶を飲み干し、自販機でペットのお茶と缶飲料を買った。缶飲料はその場で飲み、新たなペット茶は携行。


9:42 黒津の春日神社では、氏子さん達が旗や垂れ幕を掲げる作業をしていた。お祭りでもあるのかな。

黒津の集落を抜けて北陸自動車道の下を通り、天神町付近で信濃川堤防に上った先に、天神水防倉庫があった。かつてはこのあたりから対岸の川袋へ「天神の渡し」という渡し船があったそうだ。渡船場跡の標柱等はなく、正確な位置は判らない。資料によってはもう少し下流側かもしれない。

 

今は渡し船はないから、ここを渡るには近くの橋へ迂回するしかない。一番近い橋は北陸自動車道の橋だが、高速道路なので一般歩行者は通れない。歩道のある一番近い橋は、5kmほど上流にある、国道352号の蔵王橋となる。
旧街道歩きでは昔の渡船場跡を渡れないため、近くの道路や橋に迂回したことが何度もある。今まで徒歩で迂回路を歩いてきたのだが、ここ天神の渡しを蔵王橋で迂回すると、迂回路は 10km を越える。
事前に調べた結果、迂回路の一部は路線バスを利用することにした。ただ、歩いた区間が途切れて不連続になってしまうのは癪なので、迂回路の前に既に歩いた地点から歩きを再開するルートに決めた。

そんな訳で、ここでいったん引き返す。長岡のビジホから 14,670歩,10.4km。迂回路を東に進み、県道498号沿いの高見バス停へ向かった。旧街道歩きで旧街道から外れた道を歩くのはこれまでにも何度かあった。そこで意外に思わぬ発見をすることもしばしば。「花は盛りに月は隈なきをのみ見るものかは」である。
バス停の位置確認後、近くのコンビニでトイレを借りた後に軽食。食べ終わった後、高見バス停へ戻り、10:50 発の長岡行きに乗った。堤防から 3,713歩,2.6km。

4km ほど先の城岡橋バス停で下車。「城岡」は「じょうおか」と読むそうだ。北長岡駅前にあった「城岡停車場記念碑」も「じょうおか・・」だろうな。「下々条」の読みは「しもげじょう」だったし、長岡市の地名は名がおかしい・・ 脱力系ですみません。「長岡市の会社は名がおかしい。」,「長岡市の人は名がおかしい。」というオヤジギャクから連想したものです。長岡市の皆さんすみません。

城岡橋バス停から迂回ルート歩きを再開。歩いたルートが途切れて不連続になるのは癪なので、いったん逆方向に歩き、2時間半ほど前に歩いたルートと重なる栖吉川の橋へ立ち寄った。我ながら変なところにこだわるもんだな。
Uターンして国道352号を西へ進み、信濃川の蔵王橋を渡った。河川敷の球場ではリトルリーグの試合が開催されているようだった。渡ったあたりの地名は「渡場町」なので、ここにも渡し船があったのかもしれないな。天神の渡し場跡とは5kmほど離れているし。

蔵王橋を渡った後、信濃川左岸の堤防を北上。途中で堤防から下りて河川敷の道へ。途中で北陸自動車道の橋の下を通り、橋桁の下に作業用の通路があるのが見えた。あそこを通れたら迂回距離は短かくて済むんだが、そうはいかない。

12:40 天神の渡し跡、左岸と思われるあたりに着いた。城岡橋バス停から 9,696歩,6.5km。対岸を望むと、右岸堤防上にあった天神水防倉庫と思われる建物が見えた。右岸と同じく、渡船場に関する案内板や標柱はなし。
ここから西へ向かい、川袋の集落へ。13:00 前、堤防を越えたところに川袋バス停があった。ここには長岡駅,城岡橋バス停からの路線バスルートがある。当初、迂回ルートはここ川袋バス停まで路線バスに乗ろうかとも考えたが、歩いた区間が途切れてしまうのを避けるため、城岡橋から歩いた。

 

樺澤商店

 

川袋バス停の向いには樺澤商店がある。geocities にあった三国街道の記事には、ここでのエピソードが書かれている。
『樺澤商店前で地図を広げて渡場跡をさぐっていると、店からかくしゃくとしたおじいさんが出てきて話しかけてきた。(中略)「三国街道の渡し船はここまできていたのだ」といって県道の傍を流れる定川戸川(じょうかわとがわ)を指差した。昔の流域はここまであった(中略)「ここに渡し場の石垣が埋まっている。それを知っているのはもう私だけになった。」「渡し場はここだけでなくて、すこし先の石碑があるところにもあったという人がいるが、ここは間違いない。私以外にそういうことを知っている人はいなくなった。」』

堤防の内側にある用水路が、その「定川戸川」なのか? かつてはここまで信濃川の水が来ていたのか。「かくしゃくとしたおじいさん」が言ったという「渡し場の石垣」がどこかは判らなかった。そういう地点には標柱や解説板を建てて欲しいものだ。
樺澤商店の「かくしゃくとしたおじいさん」のご先祖様は、天神の渡しの旅人を相手に商いをしていたのかも。

川袋の集落で少し道を迷った後、来迎寺の先から西へ。13:30 三国街道の標柱があった。標柱によると、このあたりは蔦都という地区らしい。何と読むのかな。いずれにせよ、この道は旧三国街道で間違いないようだ。
その先に蔦都の案内板があった。「蔦都」の読みは「つたいち」と判明。蔦都坊という人物が開拓したことに因む地名だそうだ。蔦都の先、用水路手前の信号で右折して北上。このあたりは区画整理されているので、旧道のルートではないだろう。

県道22号に合流する手前に開田記念碑があり、裏に昭和29年竣工と刻まれていた。戦後の開田か。意外に新しいんだな。信濃川沿いの湿地か沼地を埋め立てたのかも。だとすると、旧三国街道も湿地か沼地を避けたルートだったのかも。

県道22号に合流して黒川を渡った所の標識に寺泊の名が書かれていた。旧三国街道を歩き始めてから、寺泊の名を標識で見たのは初めてとなる。終点寺泊が近づいて来た。そのすぐ先で右折。県道も右折。
 

旧黒川に架かる橘橋の手前で、西隣の旧道の橋を渡った所に三国街道の標柱があり、ここから与板城下とのこと。県道403号に出た交叉点で右へ。与板の町中に入った。

 

中川清兵衛の幟

 

14:17 与板仲町バス停の真ん前に、中川清兵衛記念碑があった。「日本のビールの生みの親」と書かれていた。そういえば新潟県限定のサッポロビール「風味爽快ニシテ」の缶にも、そのようなことが書かれていたな。「風味爽快ニシテ」は、新潟県内で今まで何度か飲んだことがある。後で「風味爽快ニシテ」の缶を見たら、日本人で初めてドイツでビール醸造を学んだ人物だそうだ。ここの出身なんだね。

 

「風味爽快ニシテ」の解説


三国街道の旧宿場、与板宿の中心と思われる枡形まで行った後、与板仲町バス停へ引き返した。ここでこの日の街道歩き終了。天神の渡し跡左岸と思われる所から、9,888歩,6.7km。


14:36 のバスで長岡へ戻った。このバス路線は、おくのほそ道ウォークで寺泊と長岡との往復に乗った記憶がある。調べたら、19年9月25日に寺泊からの帰り、翌26日に寺泊への行きに乗っている。4年ぶりだね。

前日の街道歩きでは後半雨に祟られたが、この日は終日好天で少し日焼けした。長岡駅前のビジホに戻り、夜は風味爽快ニシテを飲んだ。