羽州街道ウォーク24日目 碇ヶ関→弘前 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

22.9.20(火)
台風14号が通り過ぎた直後の中、盛岡の自宅を出て、弘前駅前のビジホにチェックイン。「青森県おでかけキャンペーン」の対象で、平日の宿泊費は割引になるようだ。

22.9.21(水)
羽州街道ウォーク続きのため、弘前駅 7:52 の電車で碇ヶ関へ。


↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

8:25 碇ヶ関駅からこの日のウォーク開始。
じきに跨線橋の手前で現国道から離れて旧街道を進んだが、線路に遮られて 8:55 引き返した。かなり迂回したあたりの地名は「唐牛」。「かろうじ」と読む地名だそうだ。唐(から)と牛(うし)で、かろうじてそう読めるかな。オヤジギャグですみません。
9:57 保育士二人と園児数人が歩道に出ていて、こんにちは。と、声をかけられた。

10:26 大鰐の温泉街に差しかかった頃、火災報知器の警報音声がスピーカで何度も流されていた。何だろうな。10:41 旧羽州街道54番目の宿場、大鰐宿の中心付近を通過し、10:44 大鰐温泉駅でトイレを借りた。

 

大鰐温泉駅前の足湯

 

駅前には温泉の足湯があり、そばにワニのキャラクター像があった。大鰐温泉だからワニか。大鰐町のゆるキャラかな? と思ったら、そうではないらしい。

旧街道はこの大鰐温泉駅で遮られている。駅構内を横切った後、剣ヶ鼻山を越えていたしい。川沿いの難所を避けて通っていたのかな? 駅構内といい、剣ヶ鼻山といい、旧街道のルートどおり歩くのは難しそうである。なるべく近い道を地図で選んで歩くことにした。
大鰐町の墓地の端からは、草ぼうぼうの道だったが、道の痕跡があったので進むことにした。途中に朽ちた小さな鳥居があったので、これは道だったと確信。どれくらい続くかなあ、と案じていたら、薄緑色のフェンスが見えた。あそこまで行けば、開けた場所に出るに違いない。11:20 草ぼうぼうは数十メートルで終わった。やれやれ。草ぼうぼうが短かくてよかった。数百メートルとかになると嫌になる。

リンゴ畑の中の道を下り、国道7号の下の地下道をくぐって、県道201号(おそらく国道7号の旧道)に出たあたりから、陽が射してきた。岩木山も見えてきたが、頂上付近はところどころ雲に覆われていた。
11:56 乳井街道との追分を通過。乳井は「ちちい」と読むのかと思ったら、「にゅうい」と読むそうだ。変わった名前だな。石の道標があった。

 

弘前市に入った。市章は卍。

 

12:05 弘前市の標識があった。弘前の市章は卍なんだね。
12:25 頃、平川に架かる御幸橋を渡った。川幅からみて、昔は徒渡りだったのかなと思ったら、元禄の頃には既に橋が架けられていたそうだ。そのすぐ先のあたりは、岩木山を正面に見ながら進む形になった。

12:40 堀越街道との追分を通過。江戸時代の初め頃は、この堀越街道が羽州街道本道だったそうだ。旧街道ウォークでは江戸時代末から明治にかけてのルートを歩くことが多い。書籍やネットで入手できる情報も、その頃のものが多い。ただ、時代によって街道のルートは変遷している。

13:34 廃屋の壁にウクライナ支援の絵が描かれていた。このあたりは、三百年前の開拓地らしい。

14:33 富山の桝形を通過。桝形を通ると、このあたりから旧宿場の中心に入るな。と感じる。14:48 堀越街道と合流。
15:25 弘前駅前のビジホに到着。この日のウォーク終了。この日は昼食のタイミングを逸し、昼食なしで歩き続けた。碇ヶ関駅から 42,108 歩,27.4km。