おくのほそ道ウォーク 刀根/麻生口→木之本 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』によると、敦賀,疋田から木之本への街道は、倉坂峠を越えて柳ヶ瀬に出るルートが旧道で、新道野峠を越えて塩津に出るルートが新道とのこと。新道が開かれたのは慶長年間で、おくのほそ道の頃には既に開通していたことになる。金森氏の著書には芭蕉・曾良がどちらを通ったかは断定できず、著書の地図にも両ルートが記載されている。
JR北陸本線も、明治に開通した当初は柳ヶ瀬を通るルートで、戦後の複線化・電化の際に塩津を通るルートに変更された。どちらのルートも見どころがありそうなのと、複雑な地形で交通の難所となっている区間の道はおもしろいので、どちらも歩こうと決め、まず先に倉坂峠へ。

21.10.08(金)
天気予報ではこの日の福井市の最高気温は30℃とのこと。異常だね。この日は山道の峠を越えるので、敦賀駅前のビジホを出た後、駅前のコンビニで、昼食用におにぎりを購入。敦賀駅 7:45発の敦賀市コミュニティバス愛発(あらち)線で刀根へ。

 

↓この日と翌日歩いたルートと写真→大きい地図で
 

 

8:18 刀根バス停からウォーク開始。県道140号を東へ。旧国鉄北陸本線の旧線跡や現在の北陸自動車道と並行している。敦賀周辺は地形が複雑で、6日前に歩いた木ノ芽峠の他、この柳ヶ瀬峠も交通の難所である。

8:43 長さ1352mの柳ヶ瀬トンネル入口に到着。北陸本線の旧柳ヶ瀬トンネルを車道に転用したものだが、単線トンネルなのでトンネル内で車はすれ違うことができない。信号による交互通行となっている。以前、車で通ったことはあるが、狭くて歩道もなく、大型車・軽車両・歩行者通行禁止である。旧道はこのトンネルの上の方を通っていたらしいが、既に廃道となっているらしい。少し南に玄蕃尾(げんばお)城という城跡があり、その南の倉坂峠を越えて近江に出られるらしい。

 

 

柳ヶ瀬トンネル入口

 

柳ヶ瀬トンネル入口の左に玄蕃尾城への標識があり、その道を進んだら、太陽が真正面に見えてかなり眩しかった。9:22 車道終点の駐車場に到着。私が歩いて着くのとほぼ同時に、練馬ナンバーの車が着き、60代くらいの夫妻が降りてきた。玄蕃尾城へ行くのかな。
車道終点から山道を上り始めたらすぐに倉坂峠に着いた。道標には「久々坂峠」と書かれていた。倉坂峠,久々坂峠,刀根越え など、名前はいろいろあるらしい。
この峠は日本海と太平洋の分水嶺、中央分水嶺になっている。思えば2017年6月16日、鳴子温泉から赤倉温泉まで歩いた時、堺田で本州中央分水嶺を越えて、おくのほそ道の日本海側区間に入ってから4年以上経つ。あれから何日歩いて太平洋側に戻ったのかな。また、ここは越前と近江の境でもある。19年5月3日に鼠ヶ関を越えて出羽から越後に入ったから、越後から越前まで、越の国、高志国を縦断したことになる。北陸道を縦断して東山道に戻ったことにもなる。
峠の北の柳ヶ瀬山にある玄蕃尾城址(標高468m)へ。羽柴秀吉と柴田勝家の賤ヶ岳の戦いで、柴田側の本陣が置かれた城だそうだ。
10:15 玄蕃尾城址から峠に戻った。刀根バス停から 4.5km,8,246歩。


峠ではちょうど3人連れが北西方向、駐車場の方から上って来た。そのうち男女2人は玄蕃尾城址のほうへ上って行ったが、男性1人は峠に残った。話しをしたら、おくのほそ道を歩いているという。おくのほそ道ウォークで、同好の士に会ったのは初めてだな。30分以上話し込んだ。10:50 倉坂峠から南東側、近江に入り山道を下った。
11:38 国道365号の旧道に出て、柳ヶ瀬の集落を通過。北國街道の旧柳ヶ瀬宿である。ここから先しばらくは、旧国鉄北陸本線の旧線跡や現在の北陸自動車道と並行している。
13:30 廃校跡があり、持参したおにぎりを食べ始めた。倉坂峠から 8.6km,16,259歩。食べ始めた直後、倉坂峠で話しをした人に追いつかれた。峠での話しの続きをし、個人的な話しもしたがここでは個人情報は伏せておこう。

13:55 ウォーク再開。件の男性と同行。私のおくのほそ道ウォークは今日で101日か102日目だと言ったら、その男性は60日ちょっとでここまで来たという。1日に30~40km を目安にしているとのこと。ええっ。ほんと? 私より5歳年上の66歳だそうだが、芭蕉や曾良とほぼ同じペースで歩いている。私は1日20~30km を目安にしている。30km を超えるとかなり疲れるし、40km 超ではくたくたで、翌日に響く。やはり健脚の人はいるもんだね。
14:40頃、旧木之本宿に入ったら、牛馬市の碑があり、山内一豊の逸話の説明板があった。秀吉の家来だった山内一豊が、気に入ったいい馬を見つけたが高くて買えそうがなく、妻の千代に相談したら、千代が実家から持参した大金を出してくれ、その馬を買えた。という、あの有名な逸話である。一豊がその馬を見つけたのがここだとのこと。
そのすぐ先、旧木之本宿の中心部で健脚の男性と別れ、14:55 木ノ本駅着。この日のウォーク終了。昼食後は 3.7km,5,961歩,ちなみに町名は「木之本」であるのに対し、駅名は「木ノ本」で、表記が異なっている。15:25 の電車に乗り、2駅先の近江塩津で乗り換え。敦賀発着の新快速はほとんど湖西線経由なんだな。時刻表によると米原・長浜方面への列車は、朝夕は敦賀発着もあるが、日中は近江塩津発着が多く、ここで乗り換えとなる。
新快速が敦賀まで乗り入れるようになったのは、琵琶湖一周直流化の賜物。ただし架線設備を見ると、長い碍子など、交流電化の頃の痕跡が残っている。敦賀のビジホに戻った。

21.10.09(土)
前日に続きこの日も本州中央分水嶺越えとなるが、おおむね国道8号沿いで山道の区間はなさそうだ。ただ、峠越えには違いないので、昼食を取れる場所があるかどうか定かではない。念のため昼食用にコンビニでおにぎりを購入してから、前日と同じバスに乗った。バスで移動中、タオルを忘れて持って来なかったことに気づいた。ありゃりゃ。これは大失敗。
8:12 新麻生口バス停からウォーク開始。麻生口の集落にベンチがあり、その下に、獣の頭蓋骨があった。頭蓋骨の横には骨盤か肋骨が。何だこりゃ? 麻生口の集落を過ぎ、国道8号を南下。

9:10 塩津峠 民芸茶 孫兵衛峠の自販機で飲み物を買って飲んだ。金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』によると、ここの経営者の西村氏が「おくのほそ道」素龍本の清書本を所有しているとのこと。芭蕉が素龍に清書させたもので、「おくのほそ道」出版原稿になったものらしい。ネットで検索したら、この素龍本を見せてもらった体験記もあった。

私は「おくのほそ道」の研究者ではないし、草書体の文章を読める訳でもないので、わざわざ原本を見せてくれ。などと頼むのは気が引ける。
中央分水嶺上にある新道野峠を越えて、近江に入った。峠の北、越前側は無風状態だったが、峠を越えたあたりからそよ風が吹いてきた。これはありがたい。
近江塩津駅の手前で旧街道ルートを見落としたが、それほどずれていなかったので、駅でトイレを借りた後、そのまま南下したらまた間違えた。なんだかミスが続くな。自戒したうえ、今度は引き返して旧街道ルートを歩いた。
11:35 道の駅・あじかまの里で、持参したおにぎりを食べた。新麻生口から 13.2km,20,147歩。

12:10 昼食後、ウォーク再開。琵琶湖畔の塩津浜に出た後、12:44 山道へ。案内板によると「湖の辺の道」という名だそうだ。峠を2つ越える遊歩道である。山道を上り、13:18 峠に着いたら、倒れた地蔵があった。
いったん峠を下りて湖岸の道を進んだら、何やら交通事故があったらしい。自動車とサイクリング用自転車の事故のようだった。この日は緊急事態宣言解除後2回目の土曜日のためか、バイクや自転車が多かった。
14:05 山梨子という集落に入る道の入口に、バス釣り車の進入禁止という看板があった。琵琶湖では外来魚「バス」による漁業被害が深刻と聞いている。地元の人には大迷惑だろうな。でも、歩行者は入っていいんだよね?
山梨子の集落のはずれから坂を上り、旧賤ヶ岳トンネルの入口に着いた。「湖の辺の道」の2つめの峠道の入口はこのトンネルの右にあったが、標識は目立たず見落としそうだった。

 

竹生島

 

山道を上り、峠に着いたら東に木之本の町並みが、西に竹生島が見えた。
峠道を下りて行ったら、大音配水池という配水場の敷地内に入ってしまった。道を間違えたのかな? 配水場の敷地内の道を下ったら、ゲートが閉まっていた。あれまあ。通れないじゃないか。どうしよう。と思ったら、施錠はされていなかった。カンヌキをずらしてゲートを開けられ、外に出られた。もちろん出た後はゲートを閉め、カンヌキを元に戻しておいた。
16:08 木ノ本駅に到着。次の電車は16:25だが、近江塩津で接続がなく、その次の16:54でも敦賀着は同じとなる。と、のんびり構えていたら、「遅れていた下り電車が来ます。」とのアナウンス。ホームに入ったら、15:25の電車が45遅れでやってきた。長浜駅で線路トラブルがあったとのこと。
遅れた影響で逆に早く着かないかな。と思ったが、敦賀着は結局同じ時刻だった。