おくのほそ道ウォーク 色浜→敦賀 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

曾良は敦賀に着いた日、いったん宿を決めた後、夜8時頃に舟で敦賀半島にある色浜へ行き、本隆寺に泊まったそうだ。何でそんなことをしたのかな。金森敦子著『芭蕉「おくのほそ道」の旅』では、たまたま舟があった。と書いている。
翌日は舟で常宮神社まで戻り、そこから徒歩で西福寺に立ち寄った後、敦賀に戻ったそうだ。曾良だけでなく、芭蕉と等栽(洞哉)も色浜(おくのほそ道では「種の浜」)へ行っている。西行がそこで詠んだ和歌が名高いので、わざわざ舟で海を渡って色浜へ行ったらしい。
曾良の歩いた方向に合わせ、敦賀→色浜ではなく、色浜→敦賀の方向に歩くことにした。

21.10.04(月)
敦賀半島の東海岸へ行くバスは、敦賀市コミュニティバスの2号常宮線で、1日3往復しかなく、朝の便は敦賀駅前発 6:58と早い。どのようなスケジュールにするか一思案。車で色浜へ行って駐車しておき、そこから敦賀まで歩いた後、夕方のバスで車を取りに行くことも考えたが、結局、6:58 のバスに決めた。

 

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で

 

ビジホでの朝食を早めに取り、6:58 のバスに乗った。途中でバスの車窓から、敦賀新港に見覚えのある船が見えた。敦賀⇔苫小牧フェリーに違いない。途中で新潟と秋田に寄港する便は、週1便月曜 9:30 出港。1週間前、あれに乗って敦賀まで来たんだな。

「色ヶ浜」バス停の1つ先「西浦学校前」で下車。7:30 ウォーク開始。7:42 本隆寺に着いた。曾良は敦賀から色浜まで舟で来て、この寺に泊ったそうだ。
色浜から県道141号を南下。曾良は色浜から常宮まで舟で行ったそうだ。険しい海岸線や山道を避け、海上を舟で行かざるを得なかったのだろう。現在は県道141号で行ける。若狭湾の沿岸には原子力発電所が多数ある。原発の見返りにこの県道を整備したのだろう。途中、トンネルを新設している工事現場があった。また、途中で原発関連の車やバスを何台か見かけた。色浜から3kmほど先には、日本原子力発電敦賀発電所がある。これまで歩いて来たほそ道の区間では、柏崎刈羽原発のすぐ脇を通った。


ここから4kmほど西、敦賀半島の西海岸先端近くには、あの高速増殖炉「もんじゅ」がある。高速増殖炉では燃料を増殖させるために、高速中性子を減速させない金属ナトリウムを熱で融かして冷却材に使用しているそうだ。
金属ナトリウムを水に浸ける実験を、目の前で見たことがある。ゴマ粒ほどの大きさの金属ナトリウムが水と反応し、発熱でジュージューと音をたてて水蒸気を発生させていた。水素ガスも発生させているだろうな。あんな物質を大量に冷却材として連続使用したら、爆発事故が起きないはずはない。高速増殖炉の実用化が、ほとんどの国で行き詰まったのは無理からぬ話である。
高速増殖炉は実用化の見込み無しとされ、フランスなど他国でも開発を中止しているのに、日本だけは開発を継続している。核弾頭に使えるプルトニウムを造るのがもんじゅの真の目的だ。という説も聞いたことがある。そのように疑われても無理からぬことだね。経産省や関連企業,立地自治体の利権のため、核燃料リサイクルという体裁のいい名の事業はやめられないんだろうな。
私しゃ、原発反対でも推進でもありません。そういうものだろうな。と言ってるだけです。個々の職員は善良な人であっても、組織が人を変えてしまう。こうやって日本の財政破綻が進行していくんだなあ。

9:25 常宮神社に到着し見学。「つねみや」か「とこみや」かと思っていたが、「じょうぐう」と読むそうだ。常宮神社では、白髪の女性が一眼カメラで写真を撮っていた。
常宮からは曾良が舟ではなく、歩いた区間になる。9:41 苫小牧行フェリーが見えた。1週間前に秋田から乗って来たので、形は見覚えがある。折り返しの出港は 9:30 だから間違いない。ただ、遠くて船の名前までは見えないから、私の乗った「らいらっく」かどうかはわからない。週1往復の新潟・秋田寄港便は来月11月から、敦賀⇔新潟間が当分運休とのこと。当分運休の場合、そのまま廃止というのはよくあるパターン。ここもそうなるかな。今月で終わりになるんなら、今のうちに乗ろうかな。ただ秋田着が早朝5:00と早過ぎる。ただ、新潟⇔秋田⇔苫小牧は運航継続だし、敦賀⇔苫小牧ノンストップ直行便は今までどおり、毎日1往復のまま継続だそうだから、北行きが全くなくなる訳ではない。
苫小牧行フェリーが見えたあたりで、半島中央部を東西に横断する県道33号に合流。このあたりがおくのほそ道の最西端である。最東端は石巻・日和山で、2016年5月02日に行った。それから5年以上経つ。
半島付け根の気比の松原の手前から西へ折れて内陸に入り、11:10 西福寺に着いた。その後、気比の松原の中を通って敦賀の市街地へ。
芭蕉は敦賀で泊まる宿を決めていて、先行した曾良が、芭蕉の宿賃を前払いしたことが曾良日記に記されているという。曾良の宿は大和屋,芭蕉の宿は出雲屋で、隣だったそうだ。宿泊日は4日の差。
12:36 その出雲屋跡に着いた。出雲屋跡案内板は小さく、植え込みにあり、見落としそうだった。隣には大和屋もあったはずだが、案内板は見つからなかった。
12:50 敦賀鉄道資料館を見学。かつての敦賀港駅の建物だそうだ。開業当初の名は金ヶ崎駅で、敦賀港駅と改称された後、シベリア経由で欧州へ向かうルートの1つとして栄えたそうだ。鉄道資料館には、常宮神社で写真を撮っていた白髪の女性がいた。話しはしなかったがお互いに会釈をした。

13:55 赤煉瓦そばの店で昼食。ウォーク開始から 20.2km,31,958歩。

 

金ヶ崎宮の先から望む赤煉瓦倉庫

 

14:15 昼食後ウォーク再開。赤煉瓦倉庫内のジオラマ館を見学。金ヶ崎宮,金剛寺鐘塚を見た後、16:05 ビジホに到着。昼食後は、4.2km,7,495歩。