奥州街道仙台以北ウォーク 野辺地→小湊 | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

21.6.24(木)
前回歩いた時の記事に、次はいつ歩こうか。梅雨入りして好天は少ないだろうし、梅雨明け後は暑いだろう。秋まで待つかな。と書いた。この日午前、採血検査結果を聞きに病院に行って帰宅した後、天気予報を見て翌日と翌々日に歩こうと決めた。

21.6.25(金)
盛岡始発の新幹線で八戸へ。青い森鉄道に乗り換えて野辺地へ。旧奥州街道の三戸から野辺地までの区間は、青い森鉄道から離れた所を通っていたが、野辺地から先、青森までは青い森鉄道沿いなので、わりと計画を立て易い。

↓この日歩いたルートと写真→大きい地図で


9:00 野辺地駅からウォーク開始。9:25 仙台以北32番目,盛岡以北11番目の旧宿場、野辺地宿を通過。
ボールペンを持って来なかったことに気づいていたので、コンビニで購入。

 


北前船


野辺地八幡宮に立ち寄った後、港へ。常夜燈と、復元した北前船があった。

「銅の道」という解説板があった。尾去沢鉱山の銅を野辺地港から船積みしていたそうだ。鉱山の位置から見て、八戸港のほうが近いのだが、何で野辺地港なのかな? 八戸港で船積みすると八戸藩を経由するから、南部藩内を通るだけで済む野辺地にしたのか、それとも太平洋側の航路を避けたかったのか。


10:15 野辺地戦争墓所に立ち寄った。戊辰戦争中、野辺地の戦いで幕府側の南部藩と戦った新政府側の津軽藩が建てた墓所だそうだ。埋葬されているのは津軽藩側の戦死者だけのようだ。


10:35 海岸線に出た。2009-10年に日本橋→白河,14-15年に白河→仙台,昨年20年に仙台から北へ。と奥州街道を歩いてきた。日本橋を発って、初めて海岸沿いの道になった。
10:48 仙台以北33番目,盛岡以北12番目の旧宿場、馬門宿を通過。

11:02 国道沿いに藩境塚入口の道標があった。国道から海岸方向へ降りて、塚を見学。下草刈りの作業中だった。今年5月10日に北上市相去で旧南部藩領に入り、13日かけて旧南部領を出ることになった。


ちょうど藩境塚があるあたりに、国道4号線の700kmポストがあった。日本最長の国道、4号線。東京日本橋の日本国国道元標からここまで700キロ。

12:00 昼食。野辺地駅から16,544歩,10.6km。ホタテとシメジのパスタを食した。

12:30 昼食後ウォーク再開。陸奥湾沿いのこのあたり、ホタテの看板をよく見かける。ホタテの貝殻が捨てられて塚のように積まれたところが何か所もあった。貝殻2枚にホタテの命が1つあったんだな。

清水川駅の先で旧道を進んだら、通行止の案内板があった。橋の撤去工事中のようだった。すぐ脇に国道の橋があるので、架け替えではなく撤去だろうな。帰宅後ストリートビューを見たら、工事前の通行可能な橋が写っていた。川を渡れないので、ここでいったん引き返し。

14:40頃、国道の小湊バイパスが青い森鉄道を越えるところで旧道に入り、踏切を探したが、無さそうなので引き返した。後で調べたら、青函連絡航路の第二ルート計画、小湊港駅へ向かう線路跡だったらしい。

小湊の町中に入った頃から電車の時刻が気になってきた。次の下り青森方面行きは15:30だが、これを逃すと次は17:25で、2時間近く待つ羽目になる。このあたりから速歩で歩いた。仙台以北34番目,盛岡以北13番目の旧宿場、小湊宿の中心付近を過ぎ、15:22 小湊駅到着。この日のウォーク終了。昼食後は18,686歩,12.7km。

駅には先ほどの青函連絡航路の第二ルート計画の展示があった。国策に振り回されたとも書かれていた。国の愚策に翻弄されるのはいつの時代も同じだね。
15:30の電車に間に合い、2時間待ちにならずに済んだ。下り電車で青森に行き、駅前のビジホにチェックイン。