おくのほそ道ウォーク 越後から越中に入った | M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

M3Variant : 定年退職と同時にコロナ禍に

APL(急性前骨髄球性白血病)再発後、造血幹細胞自家移植を受け、社会復帰しました。
APLで通常のM3型(多顆粒型)ではなく、APL全体の2%ほどしかない M3Variant(M3V型:微小顆粒型)のため、この名にしてます。
主なテーマは、白血病,旅行,日々の出来事 の3つです。

19.11.04(月)
↓この日歩いたルートと写真リンク

8:45 ビジホからウォーク開始。西へ向かった。1kmほど歩いた頃、反射テープとペンライトをホテルに置き忘れたことに気づいた。取りに戻ろうかとも思ったが、そのまま進んだ。
9:20 姫川の橋を渡った。糸魚川静岡構造線の川である。プレート境界を越えることにもなる。ここまでは1600万年前にできたもので、ここから先は4億年以上前だそうだ。
糸魚川静岡構造線の定説も、半世紀でずいぶん変わったなあ。かつては大地溝帯と訳されていて、地溝の西側の断層と解釈されていた。その後、プレートテクトニクス説が支持を得てくると、プレート境界線と解釈され、帯ではなく線という説もあったらしいが、今ではまた帯になった。


10:15 青海駅付近を通過。まもなく天下の険、親不知・子不知を越える。通称北アルプスこと、飛騨山脈が日本海に落ちる地点で、車でも何度か通ったことがある。トンネル,落石除けの中は道幅が狭く、歩道もなく、カーブと勾配の連続である。一桁国道8号線で交通量が多く、トラックやトレーラも頻繁に通る。車でも3回ほど通ったことがあり、どんな道か知っているので、覚悟の上でのウォーク。躓いて転倒したところにトラックが来たりしたら、私の人生は終わりになる。最上川沿いの国道47号にも似たような狭い危険区間があるが、カーブと勾配はここほどではなかったように思う。歩いて通るのはかなり危険で、十分注意しなければならない。反射テープとペンライトを用意してきたのに、ホテルに置き忘れたのが悔やまれる。
10:50頃、子不知トンネルを通過。歩道のない、カーブと勾配の連続するトンネルである。11:00頃、子不知高架橋を通過。この橋は比較的新しく、歩道があった。山側に旧道があり、歩けそうだったが、出入り口が塞がれているのでやめておいた。11:30頃、駒返トンネルを通過。このトンネルは比較的新しく、歩道があったので安心して通れた。海側を旧道が通っているが、出入り口が塞がれていて通れない。駒返トンネルを出た後、歌という集落へ。歌から親不知駅の先までは割となだらかで、旧道を通れるので安心だった。11:45 親不知駅付近を通過。12:00 外波という集落を通過。12:20 高速のインター入口前を通過。この少し先から再び、覚悟の道に入る。

12:50 親不知観光ホテルの入口前で、栂海(つがみ)新道と交差。日本海の波打ち際から標高2,418mの朝日岳まで全長約27kmの登山道だそうだ。北アルプスの稜線をたどるルートで、戦後に有志の手で、私費で拓かれた山道とのこと。所要時間目安は上りで約18時間。途中、無人の山小屋にも泊まる健脚向けコースだそうだ。私にゃ到底無理だな。
親不知観光ホテルから先が最大の難所で、現在の国道8号は天嶮トンネル。少し海寄りの旧道は「親不知コミュニティロード」という遊歩道になっている。そのまた海寄りには旧北陸本線の旧トンネルが「親不知レンガトンネル」として、歩ける。面白そうなので、両方歩くことにした。
親不知観光ホテルの脇から東側遊歩道の階段を下り、旧親不知トンネル東側入口へ。東側遊歩道からは波打ち際まで下りられるそうなので下りてみた。下りたところは栂海新道の起点でもあるらしい。東西両側の海岸を見た。明治に道が切り開かれる前、旅行者はこの波打ち際を命がけで通っていたというが、ほんとかなあ。とても通行可能とは思えない。階段を上り、旧親不知トンネル東側入口へ戻った。トンネルを西へ。

旧北陸本線 親不知トンネル西側にて

 

トンネルを出て、西側遊歩道の階段を上り、コミュニティロードへ出た。明治に切り開かれた旧道である。旧親不知トンネルの他、このコミュニティロードも歩きたかったので、コミュニティロードを往復。いったん東へ戻り、親不知観光ホテル前で折り返し。
コミュニティロードが終わり、13:55 国道8号天嶮トンネルの西側入口に出た。そのまま国道8号に入ったが、また、歩道のないカーブと勾配の連続、覚悟の区間。14:20 落石除けの区間がやっと終わった。天下の険、親不知をやっと越えた。危険な道を通ったので、体力だけでなく精神的にも疲れたなあ。私以外にもおくのほそ道を歩いた人は多いし、これからこの区間を歩く人も多いだろう。この区間は危険覚悟で臨むしかないです。
14:30 市振の関到着。14:50 市振駅に立ち寄り、トイレを借りた。曾良日記に「市振立 虹立 玉木村 市振ゟ十四五丁有」とある。このあたりは電気も60Hzだそうで実質的に富山県のような所だが、家に停めてある車を見るとほとんどが長岡ナンバーで、行政区画としては新潟県である。
15:00 県境の境橋を渡った。羽越国境から続いた長い長い越後路が終わり、越中に入った。曾良日記は「中後ノ堺 川有 渡テ越中ノ方 堺村ト云 加賀ノ番所有 出手形入ノ由」で、ここの境は芭蕉の頃から変わっていないらしい。「加賀番所有」ということは、越中も加賀前田藩の領地だったんだ。「出手形入由」とは、出国の際に手形が要る。という意味で、ここの関所で発行してもらった手形を使ったのは、大聖寺で加賀から越前へ出た時だそうだ。

今年5月3日に鼠ヶ関で出羽から越後に入り、18日で越後を縦断した。思ったより早かったが、芭蕉と曾良は移動日12日で縦断したようだ。やはりすごいね。私の1.5倍のペースで歩いている。
 

越中に入った直後に一里塚があった。国道8号を西へ進み、16:00 越中宮崎駅着。ここでウォーク終了。この日のウォークはメータでは 35.15km,43537歩。実際には32kmほどだろう。次の下り列車は16:38 で、時間があるので海岸に出てみた。海岸から東を見ると、北陸自動車道の海上高架橋や、国道8号の落石除け、高架橋が見えた。空には上弦の月が見えた。

「一つ家に 遊女もねたり 萩と月」 芭蕉が市振で詠んだ句ということになっているが、この遊女の話は芭蕉の虚構との説が有力らしい。芭蕉と曾良が市振に泊まったのは旧暦7月12日とのこと。旧暦の「日」は月の運行に合わせているから、月齢11~12くらいの月を見たのだろう。上弦と満月の中間くらいの月ということになる。

えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインの気動車で糸魚川に戻った。テレビでは妙高が初冠雪とのニュース。もうじき冬だから、今年のほそ道ウォークは今日でおしまいだな。ここ越中宮崎から先は来年、定年退職後になるだろう。社会人最後のほそ道ウォークは、ここ越中宮崎で終えた。