私はひきこもっていたころ、社会はとてもおそろしいところだと思っていました。
こわい。
でも社会に出なくてはいけない。
ふたつの思いに板挟みになって、ますます動けなくなってしまっていました。
ここで、疑問です。
社会って、何ぞや?
実をいうと、社会に出たい、出たいと言いながら、私は社会がどんなものなのかまったくわかっていなかったのです。
とにかく失敗は許されない。
上司の期待に添えなければすぐに切られてしまう。
そのくらい極端なイメージを持ってたんですね^^;
実際外に出て働いてみると、職場によってルールや重点などが違ったり、
同じ職場でもメンバーがひとり変わっただけでもガラッと雰囲気が違ったりする。
社会とは、いろんな考え方の人たちの、いろんな価値観が集まってできている。
それが実際社会に出て学んだことです。
ところが、それでも、必要以上に上司におびえてしまうところは、いつまでたっても変わることはありませんでした。
なぜ、いつまでたっても社会に対する怖さを払拭できなかったのか。
それは自分の育ってきた環境に対する私のとらえかたが問題でした。
私は幼いころから、親や祖母の「こうでなくてはいけない」「こうあるべき」という言葉をよく耳にしていました。
親がちょっとした失敗でも「情けない」と言って自分を責めるのを、毎日のように聞いていて、
私も大人の意に添わなければ、ことごとく自分を否定されることがありました。
今なら、とても厳しい家だったなぁと思いますが、
子どものころの私には、
それが私の生きる世界であり、すべてでした。
そのなかで、いつのまにか私は、親に批判されるような生き方をしてはいけないと思うようになっていたようです。
「これはこうでなくてはいけない」という固定観念が強く、白か黒かでしか世の中を見ることができなくなってしまっていました。
そんな、自分があるようでなかった私には、ありのままの自分で生きることそのものが不安でおそろしいものでしかなかったのです。
私のおそれていた社会とは、親でした。
社会に出てからは、上司が親のような存在になってしまっていたので、必要以上に怖かったんだと思います。
今となってみると、親も不器用なりに私を愛してくれていたんだとわかりますし、
かなり自分で自分を追い詰めてたところもあったな、と思います。
それに、親の「こうあるべき」もけっこういい加減なものです。
だから私も、もっといい加減でよかったんだなと思います。
私もまだまだ自分に厳しいところが抜けきれてないですが、自分にも世間にも厳しい批評家になってる人がまわりにもたくさんいました。
批評家になってしまうと、一日中自分のなかでテレビ討論会みたいなものが行われてしまいます。
でも子どもはそういう世界にはすんでいません。
子どもがいちばん最初に関わる社会である家族が、もっと笑顔と安心に包まれていてほしいですね。