岸政彦さんの「断片的なものの社会学」を読んだ。

心地よい本だった。

 

 

 

多様性について論じる時、何の多様性なのかということをはっきりさせたほうがいいと思う。

宗教の多様性か、生物多様性か、性の多様性、それとも広く人の価値観の多様性なのか。 

 

「(人の考え方について)多様な価値観を認めましょう」と軽々しく言ってくる人がきらい。

そういう人は、例えば、周りの友達と足並みを揃えるために結婚したがる考えとか、会社での昇進が人生の全てだという考えに対しても、「その人がしたいのだからいいと思う」と言う。

 

確かに、社会的な価値判断から完全に独立した信念・主義を持っている人なんていないと思う。

けれども、この社会の多数が信仰している考え、「多数」という以外に何も根拠のない社会の基準に依存する生き方には疑問を感じる。

それは他者への暴力にもなる。

「私たちが持っているそうした『幸せ』のイメージは時として、いろいろな形で、それが得られない人々への暴力になる。例えば、それを信じたせいで、そこから道が外れてしまった時には、もう対処できないほど手遅れになっていることがある。」

一般化された幸せを手に入れたい人々。普通であることを当たり前だと思うことの罪。 

 

全ての人の価値観を認めて受け入れることは私にとっては難しい。

特に、親や会社、意味のない社会的要求に従い奴隷のように生きる人々を「受け入れた」瞬間に、私も共犯者となると思う。

だから「受け入れる」なんでできない。

私は言い続けたい、「違うと思うよ。」それか、自分の行動で指し示すしかない。

 

 

冒頭に述べた類の人間ほど、自分の信念が薄い。

輪郭がない。