そんな親知らずを抜いた日。 | 萌美のブログだよ。

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親知らずを抜いた日。
夜、抜歯したところがじんわり痛いなぁと思いながら、うとうとしていたら、緊急地震速報が鳴りました。
関東も久しぶりにかなり揺れましたね。

すぐに、3.11を思い出しました。

私はあの日、通っていた芸能学校に面接用の紙を提出をするため、恵比寿の学校にいました
その日は同期の誕生日で、渋谷でお祝いをしようという話になっていました。

いろいろ終わって、予定まで時間があるなーなんて、同期の子達と話してました
そんな時、突然の地震。
足元がグラグラと揺れて、
かなり大きくて、すぐに、屋内は危険なのでは!?となりました
講師の方々の誘導で、近くの公園にすぐに避難しました

風もないのに、木が揺れていて、地面も揺れていました
ものすごい光景でした
しかも揺れはずっと続いているような感じがしました
当時、私はワンセグのついている携帯を持っていて、避難してから暫くして、情報を得るためにテレビを付けました。
ニュースを見ると、濁流が家や街を押し流してました
一瞬、意味がわかりませんでした
津波が来たんだと、ニュースを見て、わかりました
宮城で地震があって、津波が各地に押し寄せていると。

その2日前、3月9日、私は学校の卒業式でした。
その時も式の最中に地震がありました
震源地は、宮城県。
あ、最近よく揺れてるな、とその時は思っていました
そのあと、都庁の最上階で卒業パーティーがあって、
友達と、「朝の地震が今起きたら、怖いね」なんて、話をしていました。
それが、前震だったと、あとで知ります。


電車が完全に止まってしまい、山手線も動かず、私は渋谷まで歩き、とりあえず、待ち合わせていた友達と合流しました
(その途中、サイゼリヤに避難したりしてました)
電車はどの路線も止まっていて、渋谷の居酒屋で朝まですごそうかな、と向かうことにしました
が、バイトの人出勤できず、12時閉店。
一緒にいた子が、青学生だったため、青学に避難させてもらうことになりました
その間にも、銀行のATMの建物の中で休む人、バスターミナルで休む人、バスを待つ人を見かけました
渋谷は、帰宅難民が溢れて、本当にカオスでした
体育館で、段ボールと、アルミの保温シート、乾パンを貰って、横になりながら、朝を待ちました
寝ても寒いし、余震が続くし、体育館はミシミシと揺れる
ほとんど眠れず、朝を迎えました
体育館にホワイトボードが用意されて、運行が始まった路線が書かれていても
当時私は田舎に住んでいたので、最寄りに帰れる電車は運行再開していなくて、帰れない状況でした
結局夜まで待っても最寄りの路線は復旧せず、
なんとか地元に近い駅まで乗り継いで、そこまで兄に迎えに来てもらい、帰りました
帰り道に吉野家で牛丼を食べて、久しぶりにちゃんとご飯を食べられたーと思ったのを覚えてます

なんとか家に帰ってからは毎日、余震があったり、緊急地震速報があったりで、本当に気が休まりませんでした
その後計画停電も始まり、電気が一切使えない、電車が途中で運休する、などいろんな経験をしました

東日本大震災は、東京でも震度5強を観測したほどの大きな地震でしたね
地元は、瓦屋根はボロボロに崩れ落ちたり、石の塀なんかはどこも倒れて砕けたりして、震源地ではないけれど、かなり悲惨な状況でした
私の部屋は本棚が倒れ、中の物が飛び出して、ぐっちゃぐちゃでした。
スーパー、コンビニも食べ物が暫く売っていなくて、探しまわったりもしました

その年は事務所に所属したり
今お世話になってる職場に勤務し始めたり
いろんなことが始まる年でもあったので、よく覚えています
いろんなことが大変でした
コロナ禍も大変だけど、あの時も本当に大変だった。


今回の地震は関東地方はそれほど揺れませんでしたが、福島はその震災のとき以来の震度6
ニュースを見て、揺れの大きさに恐怖を感じました
あれに遭遇したら、私はどうするんだろうと。
備えることしか出来ないけど、いつまた大きな地震が来るかわからないから、年には年をで、備えておかないとな、と改めて思いました


そんな感じの備忘録。