こんにちは、Mです。
エホバの証人の出版物を自由に&心理学的に分析するコーナーへようこそ。
当コーナーの説明はこちら
→「自由に&心理学的にJW出版物を読む」スタート ~試論と内容説明~
本来なら、出版物の本文から答えとなる部分を探す脚注の質問に、本文を見ないで自由に答えていきます。
今回は、
『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」中編。
11節~17節までです。
前編はこちら
→【自由に&心理学的にJWの出版物を読む】『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」前編
11(イ)神は、公正に反する事柄について、どう感じておられますか。
神じゃないからわからないですよ・・・
せめて、
「公正に反する事柄について神がどう感じておられるかを、聖書から読み解けることがありますか」
くらいにしてほしい・・・
答え方にしても、「聖書に○○という記述があるので、神様は公正に反する事柄に対して○○と感じておられる可能性がある」くらいの柔軟性を持たせてほしい・・・
なんとなく、神様の立場が軽んじられてる気がします。
出版物を通せば神様のことがなんでもわかるみたいな、雰囲気作りされてるような。
「私たちはわかっているんですよ」という組織や信者の上から目線を感じる・・・
この、「私たちはわかっているんですよ」この感覚に共感できる人が、信者になるんだろうなぁと感じます。
聖書は、神様の直筆じゃなく、組織のいうところの「不完全な人間たち」の創作でしかないのに。
神様は、そういう人たちのことはどう感じておられますか。って聞いてみたいです。
もちろん、組織や信者の人たちに訊くんじゃなくて、神様本人にね!
「ある事柄に関して、どう感じているか」・・・この質問、その人以外の人が答えていいものじゃないと、私は思います。
聖書を一緒に読んで、読者自身が感じ取れることを大事にしていけばいいんじゃないかなぁ・・・
「聖書にこう書いてあるから、神様はこう感じているんだよ!」っていうのは乱暴な気がする・・・
神様の気持ちは神様にしかわからないし、聖書にはこう書いてあるんだよ、っていうふうにしか、答えられない。
なので、私はこの質問には「神様の気持ちは神様にしかわからないと思う」と答えておきたいです。
もし、私の持っている神様イメージで答えてよいとするなら、公正は重んじてほしいと思うので、公正に反する事柄はあまり好まないのではないか、と思います。
では、JW出版物の本文から「神は、公正に反する事柄について、どう感じておられますか」への答えを探してみましょう。
神 は「公正 を 愛さ れる 方」で ある,と 聖書 は 教え て い ます。(詩編 37:28)ですから,正しい こと に も 間違っ た こと に も 注意 を 払わ れ ます。公正 に 反する 事柄 を すべて 憎ま れ ます。
ここですね。
・・・ってちょっと待った!!!
「神は公正を愛される方」←ここが、聖書に書いてあることですよね。
「公正を愛する」ということと、「正しいことにも間違ったことにも注意を払う」こと、「公正に反する事柄をすべて憎む」こと・・・これらはイコールでつないでしまっていいのでしょうか。
「公正を愛すること」と、「公正に反することをすべて憎むこと」は同義ではないと思います。少なくとも私は。
アブねぇアブねぇ。
「神は公正を愛します」とだけ書いてあるのと、
「神は公正に反することをすべて憎みます」と書いてあるのとでは、
印象違いませんか。
しかも親近性効果(新しく学習したことのほうが記憶に残りやすい)を狙ってか、「憎む」が最後に書いてある・・・これ、ほんと狙ったんだとしたらあくどい気がする・・・
些細に見えて結構大きいことな気がします。
すこ~~しずつ、聖書の実際の記述から表現を変えて、組織の都合のよい記述にしている可能性があります・・・。
JWの出版物・・・みなさん、ちゃんと、自分で考えて読んでいってくださいね。改めて、申し上げます。
ちょこちょこと、小型の地雷が置いてあると思いますよ。
地雷っていうより、毒ガスかな。
信じる神が公正に反することを憎むのなら、信者のみなさんは公正な出版物を発表していってほしいものです。
100パーセント公正な表現などないけれど、出来る限り公正な表現を心がけていくべきだと思います。
「公正を愛すること」と、「公正に反することをすべて憎むこと」を同義にするのは相っっっ当、公正じゃないと思うのですがいかがでしょう。
ほんと、些細な点かもしれませんが、じわじわ効いてきますよ。こういう洗脳は。
うまくできてるなぁ・・・
さて、気を取り直して次行ってみましょう。
11(ロ)神はあなたの苦しみについてどう感じておられますか。
ここも・・・(イ)の質問と同じく、神にしかわかんないですよ、とまず思います。
もし、ここで、
「何言ってるんですか、聖書に書いてあるんだから神は○○って感じておられるんですよ」という反論が浮かんだ方は、JWの考え方に侵食されているかもしれませんよ。
聖書は神が書いたものではないですし神から直接何かを見聞きして執筆した人は(私的に見れば今のところは)いません。
(聖書には、神の声を聴いたとか火を見たとかありますが、いずれも創作や心理的な作用だと思っています)
例えて言えば・・・
*******
B男くんはA男くんにすごく憧れていて、A男くんが好きそうな本や音楽、ファッション等を真似している。
みんながA男くんに倣えば良い世の中になるのになぁと思って、B男くんはいろんな人に、「A男くんは従順で控えめな人が好きだよ」「A男くんはもうすぐみんなにとってすごく良いことをしてくれるよ」などと、A男くんについてふれまわっている。
たいていの話は、わりと常識的でいい話に聞こえるから、なるほどなぁと思う人も少なからずいた。
しかし、B男くんはA男くんと直接会ったり話したりしたことはない。A男くんは住む世界の違う人(例えばトップアイドルとかハリウッドセレブ)だから。
*******
・・・という話に、置き換えようと思えば置き換えられるかもしれません。
で、JWをこの例えの中で表現するなら「かなりイッちゃってるB男くん」ということになります。
「A男くんは従順でない人はみんな嫌いだから従順にならなきゃダメだよ」「A男くんがみんなにいいことをしてくれるのは来年だよ。そうしたら僕らに歯向かう人はみんな死んじゃうんだよ」・・・そんなふうに、話を大げさにしたり曲解したりして吹聴するB男くん。
もしA男くんが実在したら、名誉棄損か何かで訴えられかねません。
・・・一応補足しておきますと、信仰心が人々にとって良いものを生み出すことも十分にあると思いますので、聖書執筆者さんたちのことを否定はしませんし素晴らしいものを遺してくれたと尊敬はしています。
寄り道してしまいましたが、
「神はあなたの苦しみについてどう感じておられますか」という質問に答えるなら、
「私の持つ神様イメージでは、苦しい状態にいる私の気持ちはわかってくれてると思います」と答えるかなぁ・・・うーん、あまりフィットしてない気もしますが。
「聖書から読み解けること」という縛りの上で答えるなら、
「聖書に『神は人間の苦しみについて○○と感じておられます』という記述があるならば、○○と感じてくれている可能性があると思います」と答えます。
ていうか、
「神はあなたの苦しみについてどう感じておられますか」という質問って、
「苦しみがある」ということが前提になっていますよね。
なーんか、しっくり来ないなと感じていたんですけど、モヤモヤの原因はこれか。
「苦しみ」って、かなり強い表現だと思うんですね。
病気とか災害とか劣悪な環境下にいるとか、そういうことでなければ「苦しみ」という表現に値することって日常生活でそこまでないような気がします。
わざわざ「苦しみ」に該当することを捻出して、それを神様がどう感じているかとかどうしてくれるとかいう方向にもっていくのって、これもやはり洗脳的な誘導が入っているように感じられるのですが、いかがでしょう。
質問だけ読んで答えようとすると、どうも不自然なものがあります。
出版物を読みながらこの質問に答えていたときにはまったく気づきませんでしたが・・・これこそが、洗脳の一種なのだと思います。
では、JW出版物の本文から「神はあなたの苦しみについてどう感じておられますか」への答えを探してみましょう。
世界 中 で 生じ て いる 苦しみ を 見 て,今 も 辛く 感じ て おら れ ます。人々 が 苦しむ の を 見 て 辛く 感じ られる の です。
ここだと思います。
ところで、この11節を読んで気づいた点があります。
聖書 に は,昔 この 世界 に 悪 が 満ち た 時,神 は「その 心 に 痛み を 覚え られ た」と 記さ れ て い ます。(創世記 6:5,6)神 は 変わっ て おら れ ませ ん。(マラキ 3:6)世界 中 で 生じ て いる 苦しみ を 見 て,今 も 辛く 感じ て おら れ ます。人々 が 苦しむ の を 見 て 辛く 感じ られる の です。「神 は あなた方 を 顧み て くださる」と 聖書 は 記し て い ます。―ペテロ 第 一 5:7。
3つの参照聖句がありますね。
この3つを土台にして、「(神は)世界中で生じている苦しみを見て、今も辛く感じておられます。人々が苦しむのを見て辛く感じられるのです」という文章にしています。
この3聖句だけ見て「神が今の私の苦しみ(があるとするなら)を辛く感じている」と言い切るのはちょっと難しいように思います。
3つの聖句を口語訳で見てみましょう。
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、(創世記6章5,6節)
主なるわたしは変ることがない。それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。(マラキ3章6節)
神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。(ペテロ第一5章7節)
うーん、これらを総合すれば「神様って人々が苦しむのは嫌いそうだな」と思えないことはないですが、だったら聖書にズバリと、「神はあなたが苦しんでいるのを見てつらく思っています」という記述があれば良いわけで、そのような記述がないのに「神はあなたが苦しんでいるのを見てつらく思っています、このことは聖書からわかります」というのは乱暴な気がします。
創世記とマラキとペテロ第一の各執筆者さんもびっくりしてるかもしれませんよ。
パウロが「え、俺の文章、創世記と結びつけられてんの? 超意外ー!」みたいな。
創世記6章5,6節についてもう少し踏み込んでおきたいです。
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、(創世記6章5,6節)
なぜこんな中途半端なところで切り取られているんだろうと不思議に思いました。
7節を見てみると、
「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
ちょっと待って。
神様、大半の人間には共感してないじゃん。
滅ぼそうとしてるんじゃん。
心を痛めたのは、人間の苦しみをおもんぱかって、っていうより、「俺ってば変なもん造っちまったー」っていう後悔で、なんじゃないの?
自分でつくっといてデキが悪かったから全部つぶしちゃうとか、幼稚園児の粘土細工かよって。
人間が軽視されているのは、創世記を書いた人の意図もあるかもしれませんね。
実際、創世記によれば、神様はこの後ノア家族だけ遺して滅ぼしちゃうわけですが・・・なんか・・・なんか・・・ひどい。と思ってしまいます。
7節まで読んでも「悪いことがあると神様も心を痛めるんですね、神様も感情があるんですね」とだけ感じる人は少ないのではないかなと思いました。
6節にも「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め」とあるから「あれ? 人間を造ったことを悔いて心痛めてるの? 人が苦しい思いをしてるからじゃなくて?」と気づいておかしいなと思う人はいると思うのですが・・・。
で、おかしいと気づいた人も、たぶんエホバの証人に質問すれば「ノアみたいになれば神に救ってもらえるんですよ」というロジックが待っているのかもしれないと思いますが、
いや、滅ぼされちゃった人の中にも、そこまでわるくない人もいた可能性だってあるし、ここで「そうかノアみたいになれば大丈夫なのか、良かった」と感じる人には私はなれないし、そう感じる人とはあんまり友だちになりたくないなあと思ってしまいます。
明らかに、自己中心的だからです。その他の可能性や選択肢を想像するよりも自分が助かることを考える人と仲良くしても、共感し合えることはないでしょうしたぶんこちらのメリットはほとんどないと思います。
バリバリの選民思想を感じますね、旧約聖書は。
今回の3聖句だけ見ても、創世記ではノアファミリーだけ助かり、マラキでも「ヤコブの子らは」という但し書き付きで「滅ぼさない」とあります。
「ノアたち家族」の中に入れば、「ヤコブの子ら」になれば、助かる。滅ぼされない。
自分は、「ノアたち家族に選ばれなかった人」ではないし、「ヤコブの子らではないために滅ぼされてしまう人」ではない。
・・・そういうふうにして、自己愛を高めていたのでしょう。民族的・時代的な影響もあると思います。
そう考えると・・・楽園後の世界は、そういう人たちだけが残るかもしれないわけですよね。
創世記6章を読んで、ノアみたいになればいいんだって思う人だけが。
マラキを読んで、「ヤコブの子ら」と同じふうになればいいんだって思う人だけが。
なかなかに、壮絶な殺伐とした世界観になりそう・・・と思うのは私だけでしょうか。
選民思想傾向のある人って、気の合う人だけでグループ分けされてもしばらくすればまた選民的な(自分だけが選ばれたい・自分が一番優れていると思い込みたいという思考が土台にあるので)行動をしはじめるでしょうから、心理学的な関心がわきます。楽園ウォッチしたいです。
すっかり長くなっちゃいました。
3つの聖句を参照してわかったことについて申し上げたいことをまとめますと、
まったく違う箇所に書いてある聖句を切り貼りするという行為は、意図がなければできません。
その切り貼りした人の意図に無理やりつなげている可能性を考える必要があると思います。
・・・という点です。
今後も注意深くチェックしていきたいと思います。
次、行ってみましょう。
12、13 (イ)わたしたちに愛をはじめとする良い特質があるのはなぜですか。愛を働かせればこの世界についてどんな見方をするようになりますか。
この質問は、出版物から答えることが前提になりすぎてますね・・・自由な発想ができない。
無理やり答えてみますと・・・
愛をはじめとする良い特質があるのは、愛があるとみんな平和に暮らせるから。
愛を働かせればこの世界についてどんな見方をするようになるかは・・・
・・・
・・・なんか、不思議な質問ですね。「愛を働かせる」という文がすでに私にはあまりしっくり来ないですし。
「愛」って、「働かせる」もの? なんか違くない? って思っちゃって。
JWの文章って、英語を日本語に訳しているためなのか、どうもおかしなニュアンスになってる箇所がある気がします。
あと、「この世界についてどんな見方をするようになるか」というのもなかなかもってまわった言い方感があります。「世界をどう見るようになりますか」じゃダメだったんかな。
別に、重箱の隅をつつこうというわけではないんです。
こういう言い回しにも何か意味があるのかも。と思いまして。
閑話休題、
「愛を働かせればこの世界についてどんな見方をするようになるか」への答えは・・・
うーん、愛情豊かにいられればもっと人にも自然にも優しくなれるよねとかそういう感じでしょうか。
JW的には、どんな答えを期待しているのか、「わたしたちに愛をはじめとする良い特質があるのはなぜですか。愛を働かせればこの世界についてどんな見方をするようになりますか。」への答えを本文から探してみましょう。
良い特質を持っている理由は、「人は神の像につくられた」という創世記1章26節から
人間 に 良い 特質 が ある の は,神 が 良い 特質 を 持っ て おら れる から です。
ここですね。
個人的には、「神の像につくられた」の「神」が英語では複数形になっていることについて詳しく調べていきたいです。いずれまた。
JW本文では、新世界訳でも「わたしたちの像に,わたしたちと似た様に人を造り」と複数形で書かれているのに、「人は神の像につくられた」って言っちゃうのはズルい気がしないでもありません。
JWの黄色い本の筆者さんもどうせなら26節じゃなく27節から引用すればよかったのに。
そうすれば「神は人をご自分の像に創造してゆき、神の像にこれを創造された」(新世界訳)ってあるから、こんなそんじょそこらの初心者に「複数形なのでは?」なんて突っ込まれなくても済んだだろうに。
ところで新世界訳の「神は人をご自分の像に創造してゆき、神の像にこれを創造された。男性と女性にこれを創造された」って文章ちょっとおかしくないですか。大事なことだから2回言いました的な?
気になったので口語訳を見てみると、
「神は自分のかたちに人を創造された。すなわち、神のかたちに創造し、男と女とに創造された。 」
ああ、これならまぁわかる。
一応新共同訳も見ておくと、
「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 」
あれ? ・・・これもひでーな。
じゃあ英語がわかりづらいんでしょう、きっと・・・
「And God created man in his own image, in the image of God created he him; male and female created he them.」(ASV)
「God created man in his own image. In God's image he created him; male and female he created them.」(WEB)
ASVはhe him he themって・・・倒置なのか何なのか、よくわからないので保留^^;
WEBは、がんばって訳すと、「神は自身のイメージに合わせて人間をつくった。神のかたちに人を、すなわち男性と女性をつくったのである」って感じでしょうか。
最初のin his own image と次のin God's imageはわざわざ二度も書いてあるってことは両方とも「神のかたちに」って意味じゃないと思うんですよね。
ニュアンスが違うと思う。
私の拙訳ではほとんどニュアンスの違いを表現できませんでしたが。すみません。
にしても、created がしつこく何度もありますね。
筆者が強調したかったってことなのかなぁ。
筆者ってモーセでしたか、今は、モーセが書いたというのは伝承であって異なる時代の合成文書だという仮説が保守的なキリスト教会と学者以外には支持されているようですが(wikipedia「モーセ五書」)、律法ってくらいだから神権を強調してユダヤ教信者に決めごとを守らせようとする意図が強かったかもしれませんね。
以上のことも踏まえて、
教えの本の12節に気になる箇所が。
しかし,神 が 苦しみ を 見 て 辛く 感じ られる,と なぜ 断言 できる の でしょ う か。そう 言える 根拠 は ほか に も あり ます。
ここを読むと、
JW的には、「神が苦しみを見て辛く感じられる」ということをかなり強調したいのかもしれない・・・という推測もできます。
神が苦しみを見て辛く感じる・・・このことを真実とすることによってJWが得るメリットは?
「この世は、いま多くの人が苦しんでいる」と思わせられる。
「神には、感情がある」と思わせられる。
もしかすると、最大のメリットは「確実にハルマゲドンが来ますよ」ってことを信じ込ませやすくなるってことかなと思いました。
苦しみを見て辛く感じる神様が、この世に苦しむ人が増えて憂えば憂うほど、ハルマゲドンが来やすくなる・・・だから、早く信じましょう。エホバの証人になりましょう。・・・というロジックを設定しているのかもしれません。
あとは、前節であんだけ「神は苦しみを見て辛く感じる」って言ってるのに「なぜ断言できるのでしょうか」って疑問形で書いてあるのがちょっと面白かったです。
単に「前の節の聖句じゃ根拠として弱いかな」という不安があるのかもしれません。
もしそうであるなら、聖書、ひいては書物の読み方や調べ方を根本から間違っていると思います。
自分が言いたいことの根拠を、探すために読んでいるようなものです。
そのような読み方は聖書に敬意を抱いていません。敬意どころかばかにしてます。悲しいことだと思います。
次に行ってみましょう。
12、13 (ロ)世界の問題について神が実際に手を打たれると確信できるのは、なぜですか。
手を打たれる! なんか怖い!
・・・JW独特の言い回し、気になるどころかだんだんツボに入ってきました^^;
いろんな意味で、じわじわ来るわ~。
この質問でも、過度な誘導が入っているように思います。
「確信できるのはなぜですか」
という表現を使うことで、「確信しなきゃ」という暗示にかかる人もいるでしょう。
「確信できるのはなぜですか」やそれに似た言い回し、JWの出版物では結構な確率で見かける気がします。
このような言い回しが出てきたときは、組織が読者に確信させたい事柄である可能性が高いです。
より注意深く読んでいく必要があるでしょう。
「世界の問題について神が実際に手を打たれると確信できるのは、なぜですか。」という問いには、
聖書に書いてあったとしても、神様が言ったことではないので確信なんてできませんし、こんな言い回しで聞かれたらなおさら確信するのなんて怖くてできませんよ・・・というのが正直なところです。
では、「世界の問題について神が実際に手を打たれると確信できるのは、なぜですか。」への答えを本文から探してみましょう。
あなた は 愛 の 気持ち から,世界 に 見 られる 苦しみ や,公正 に 反する 事柄 を 終わらせ たい と 思い ます か。自分 に その 力 が あれ ば,実際 に そう さ れる でしょ う か。もちろん,そう さ れる でしょ う。神 が 苦しみ と,公正 に 反する 事柄 を 終わらせる の は,同じ よう に 確か な こと です。
あぶなっかしいなと感じました。
「自分にその力があれば、実際にそうされるでしょうか。もちろん、そうされるでしょう」という箇所には、一見、正義感のある人が共感するのかもしれませんが、よく考えるとすごく自己愛的です。誇大妄想的だとも思います。
また、苦しみや公正に反する事柄って、一概に悪者を決められないと思います。
神様なら最も確実に、誰もが傷つかないで苦しみを終わらすことが出来るのかどうかもあやしいと私は思います。
あと、13節には次のような文があります。
例えば あなた は,罪 の ない 人 が 苦しむ の を 見れ ば 心 が 痛む の で は ない でしょ う か。公正 に 反する そう し た 状態 が 人間 に とっ て 気がかり で ある なら,神 に とっ て は もっと 気がかり で ある はず です。
ここは、先の創世記6章5-7節から引っ張り出した「神は心を痛める」を念頭に置いての話だと思いますが、
主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。 主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。
こうして創世記6章5-7節を見ると、ノアファミリー以外の人全部滅ぼしちゃってます。
ノアの家族以外の人がすべておかしくなってたとはさすがに考えづらいので、神は、人に罪があろうがなかろうが、人が苦しんでいようがいまいが、とりあえずいっせいに人を滅ぼしちゃった前科がある、と見なすこともできると思います。
それは、公正と言えるのでしょうか。
私は、公正じゃないと思います。
それを踏まえると、神様は、今現在、罪のない人が苦しむのを見て気がかりになったら、「あーやっぱ失敗だった、つらいわー」と言ってお気に入りの一家族だけ残して滅ぼしちゃうかもしれないです。
それは、公正と言えるのでしょうか。
やはり、公正じゃないと思います。
聖書の中に出てくる神様に文句たれる気はないのですが、なんだか聖書筆者やJWのせいで神様のメンツつぶれまくってると思うの、私だけでしょうか。
みんなの心の中にいる、良識と正義の象徴的な存在としての神様でいたほうが、ずっと神様は清く正しい存在であると思えてきます。
神様を信じようとする人たちによって神様が穢されていく。なんだか矛盾しているし虚しさを感じます。
結局、文字通り「神輿」でしかないのかと思えてしまいますね。
さて、次行ってみましょう。
14 神のお名前は何と言いますか。わたしたちがそのお名前を使うべきなのはなぜですか。
私の調べたところによるなら、
聖書に載っている神の名前は、神聖4字であらわされる、今では発音できない語。
とりあえずアルファベットに置き換えるなら「YHWH」。
もちろん、そうでない可能性もあります。
神様の名前は誰にもわからない、というのが本当のところだと思います。
アブラハムには「私はあってあるもの」と言ったらしいので(アブラハムの幻覚や幻聴でないとするなら)それが本来の名前である可能性もあります。
「わたしたちがそのお名前を使うべきなのはなぜですか」という問いには、「使うべき」とは思いません。と答えたいです。
例えば私の父の名前が「太郎」だったからといって、私が父のことを「太郎」と呼ばなければ尊敬していることにならないとか父が軽んじられているとかいうことにはならないと思います。
確かに、名前には多くの意味が込められていることが多いです。
けれども、個人的には、別に呼び名なんてどうでもいいと思います。自分の中で、相手に対する気持ちがはっきりしているなら。
エホバと呼びたいならそう呼べばいいし、なんか違うなと思うなら自分の呼びたいように呼べばいいと思います。
「僕のこと信じるなら名前ちゃんと呼んでね」なんて言うようなちっさいこと言うなんて神様らしくないと感じます。
呼び名にこだわりすぎるのは、「組織には何か別の思惑がある」と思われてもしかたないのではないでしょうか。
小説や映画で大人気になったハリー・ポッターでは、非常に恐ろしい人物であるヴォルデモートの名前を発音してはいけないという設定がありました。誰もが畏怖しているその名前をハリーがやすやすと発音したことによってヴォルデモートの恐ろしさが軽減しました。名前を呼ぶということは、相手を大切にする意味だけでなく、相手と自分が対等になる意味、同じ次元に引き下ろしてくる意味もあると思います。
そういう意味では、名前を呼ぶのは神への畏怖心を薄れさせ神の地位を失墜させることにもなるかもしれません。
それが良いとかわるいとか判断出来ることではないですし判断しようとも思いませんが、「名前を呼ぶから大事にしている」「名前を呼ぶから親しみを感じている」という理屈で「エホバと呼びなさい」というのは通らないと思います。
「わたしたちがそのお名前を使うべきなのはなぜですか」、この問いも誘導を含んでいますね。
「○○すべきなのはなぜか」という言い回しは、「○○しなきゃダメですよ」の意味を多分に含んでいます。
組織が「エホバの証人」なんていうキャッチフレーズを作ってしまったから、「エホバ」と呼ばざるを得ない状況に陥っている可能性もあります。
「神の証人」にしとけばよかったのに・・・。
神の名前については、これまでに別の記事で書いてきたのでもしご興味があればそちらもご覧ください。
では、「神のお名前は何と言いますか。わたしたちがそのお名前を使うべきなのはなぜですか。」への答えを本文から探してみましょう。
神のお名前は何と言いますか。については
詩編 83 編 18 節 に は,「その 名 を エホバ と いう あなた が,ただ あなた だけ が 全地 を 治める 至高 者 で ある」と 記さ れ て い ます。
ここが期待される答えで、
わたしたちがそのお名前を使うべきなのはなぜですか。については
事実 を 言え ば,神 の お名前 は 古代 の 聖書 写本 に 何千 回 も 出 て き ます。ですから,エホバ は あなた が その 名前 を 知り,使う こと を 望ん で おら れ ます。
ここが期待される答えだと思います。
後者に関しては、またしても「ですから」の使い方が間違っていると思われます。
古代の聖書写本に何千回も出てきているからといって、神が「その名前を知り、使うことを望んでおられる」なんていうのは曲解だと感じます。
次、行ってみましょう。
15 エホバという名前にはどんな意味がありますか。
神聖4字の「YHWH」それぞれの文字に意味があるなら、またこの4字のまとまりに意味があるなら、
ぜひ知りたいと思いますが、言語学の研究を待つ必要があるようです。
エホバという名前自体には、意味はないんじゃないのかなぁと思います。
「エホバという名前にはどんな意味がありますか」・・・この質問自体、ちょっと意味がわからないです。
「エホバという名前にはどんな意味がありますか」への答えを本文から探してみましょう。
その 名前 エホバ に は,神 は ご自分 の 述べ た 約束 を すべて 果たす こと が でき,考え て おら れる どんな 目的 を も 遂行 できる と いう 意味 が あり ます。
ここだと思いますが・・・
「神聖4字に、このような意味がある」ということなのでしょうか。
気になるのは、聖書からひとつも聖句が引用されてない点です。
聖句にないのであれば、「約束をすべて果たすことができ、どんな目的をも遂行できるという意味」は、ここのJWの筆者にはどんな経緯でわかったのでしょう。
残念ながら、このJWの記述ははいそうですかと受け取ることが出来ません。
もし、「神は、『約束をすべて果たすことができ、どんな目的をも遂行できる』存在である」と言いたかった・・・ということであれば、エホバという名前は関係ないです。
なんでわざわざ「エホバ」にこだわるんだろう。
次行ってみましょう。
16,17 次の称号から、エホバについて何を学べますか。(イ)「全能者」、(ロ)「とこしえの王」、(ハ)「創造者」。
イメージで行くなら、
「全能者」・・・何でもできる人
「とこしえの王」・・・永遠の支配者
「創造者」・・・すべてを造った人
だと感じます。
いずれも聖書の筆者による神への称号なので、権威づけがインフレ起こしてるなぁとは思います。
あんまりすんごい形容詞つけちゃうと、嘘くさくなりますよね。
神様も、「もう恥ずかしいからそんな偉そうな形容するのやめてー///」って顔赤らめてるかもしれません。
あ、なんか神様かわいい。
さて、「次の称号から、エホバについて何を学べますか。(イ)「全能者」、(ロ)「とこしえの王」、(ハ)「創造者」。」への答えを本文から探してみましょう。
「全能者」・・・
エホバ は 最も 強力 な 方 です。その 力 に 並ぶ 者 は い ませ ん。最高 の 力 を 持っ て おら れ ます。
「とこしえの王」・・・
エホバ が 別 の 意味 で も 独特 な 方 で ある こと が 分かり ます。これ まで 常 に 存在 し て き た の は エホバ だけ な の です。
「創造者」・・・
・ただ ひとり 創造 者 と 呼ば れ て いる
・天 に いる 目 に 見え ない 霊 の 被 造物 から,夜空 に ちりばめ られ た 星,木 に 実る 果物,海 や 川 を 泳ぐ 魚 に 至る まで,あなた が 思い浮かべる こと の できる どんな もの も,エホバ が 創造 者 で あら れる から こそ 存在 し て いる の です。
はい。こういう感じです。
さて、次の18節に行ってみたいところなのですが。
アメブロの文字数制限にひっかかりました(笑)
18節以降を後編として、後日アップします。
いつも長文にお付き合いくださり、ありがとうございます。
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