こんにちは、Mです。


エホバの証人の出版物を自由に&心理学的に分析するコーナーへようこそ。

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「自由に&心理学的にJW出版物を読む」スタート ~試論と内容説明~


本来なら、出版物の本文から答えとなる部分を探す脚注の質問に、本文を見ないで自由に答えていきます。


今回は、
『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」中編。
11節~17節までです。


前編はこちら
【自由に&心理学的にJWの出版物を読む】『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」前編


中編はこちら
【自由に&心理学的にJWの出版物を読む】『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」中編

 

 

 

  真実に 近づくことを おそれるな。

 

 

 

18 自分は決して神に近づくことはできない、と感じる人がいるのはなぜですか。しかし聖書は何を教えていますか。

 

前者に関しては、自身のなさ、自己卑下感のためだと思います。

 

ただ、神に近づこうって思っちゃうのは、ちょっと痛い子な感じがするので思わなくてもいいんじゃないですかね。

 

自分は神に救われないとか、神は自分のこと見てくれないと思い込んでるという意味なら、もうちょっと自信もとうか、って言いますね。ていうかそういうふうに言ってる時点で、察してちゃんな感じもしますけれども。

 

聖書が教えている点については、推測で言うなら、「そんなことないよ、救うよ」「そんなことないよ、見てるよ」って書いてくれてると思いますね。

 


「自分は決して神に近づくことはできない、と感じる人がいるのはなぜですか。しかし聖書は何を教えていますか。」への答えを本文から探してみますと・・・

 

近づくことはできないと感じる人がいることについては、

神 は 人間 から あまり に かけ離れ て いる の で 近づく こと は 絶対 に でき ない,自分 は その よう な 崇高 な 神 から 見る と 全く つまら ない 存在 だ,と 思う の です。

聖書は何を教えていますか、については

聖書 の 教え は その 正 反対 です。エホバ に つい て,「実際 の ところ 神 は,わたしたち ひとりひとり から 遠く 離れ て おら れる わけ で は あり ませ ん」と 書い て ある の です。(使徒 17:27)聖書 に は「神 に 近づき なさい。そうすれば,神 は あなた方 に 近づい て ください ます」と いう 言葉 も あり ます。―ヤコブ 4:8。

 

ここは、珍しく(笑)いいんじゃないでしょうか。
そこまでおかしいことは言ってない気がする。


ただ、使徒行伝17章27節の前後を読むと、ここはパウロがアテネ市民に向けて言った話なんですけれども、アテネ市民が偶像崇拝をしていたので、それを改めさせたくてパウロとしては

「偶像を作ってそばに置くことで神を身近に感じようとしなくてもすでに神はそばにいるんだよ」

と伝えたかったんだと読み取ることが出来ると思うんですね。

 

なので、JWの黄色い本本文にあるように、

「畏敬 の 念 を 抱か せる エホバ の 特質 に つい て 読む と,少し 不安 を 感じる 人 も い ます。神 は 人間 から あまり に かけ離れ て いる の で 近づく こと は 絶対 に でき ない,自分 は その よう な 崇高 な 神 から 見る と 全く つまら ない 存在 だ,と 思う 」

このように思う人に、この使徒行伝の聖句を当てはめるのは適切かどうか・・・というと、必ずしもそうは言えない気がします。

 

使徒行伝では、神を身近に感じたいと思ってるであろう人に対して神は近くにいるよって言ってくれてる。すでに信仰心を持っている人に対しての言葉です。
神は近くにいない!と思っている人に対して、信仰心を持っている人対象の聖句から「神は近くにいるよ」という点のみを抜粋して納得してくれるかどうか、といったところです。

 

ヤコブの「神に近づきなさい」の聖句も、これ、前後を読むと「不貞のやから」に対してのメッセージなんですよね。

そんなとこから引用されちゃうと、ちょっとだけもやっとします。

 

聖書ではまったく別の人に向けているメッセージなのに、言葉だけをクローズアップして都合のよいケースに適用しようとしているように感じられるためか、私は「なんか違う」感があります。

 


では次行ってみましょう。

 

 

 

19(イ)神に近づくために、まず何ができますか。そうするなら、どんな益がありますか。

 

神に近づくためには、祈る、とかですかね・・・

 

何度も何度も「神に近づくには神を知る必要があるんですよ! 神を知るには聖書を学ぶ必要があるんですよ!」と言われてきたためか、なんとなくオリジナルな発想がしづらいというのが正直なところです。

 

 

「そうするなら、どんな益がありますか」かぁ。あんまりメリットとして考えたくないですけどね。誰かと仲良くなるのに、おおっぴらにメリットを考えるのって利己的な感じがする・・・。

 

ビジネス臭がするのがいやなのかな。
「○○をすればこんないいことがあるんですよ」的な。営業によくある感じの。

 

 

一応、本文から期待される答えを見ておきましょう。

 

神に近づくために、まず何ができますか。については

いま 行なっ て いる よう に,神 に つい て 学ぶ こと を 続け て ください。

ここだと思いますが、

ここも「神について学べば神に近づくことが出来る」という聖書からの出典はないんですね。

 

ぁゃιぃ。

 

どんな益がありますか。については

聖書 は,エホバ と イエス に つい て 学ぶ こと は「永遠 の 命」に つながる,と 教え て い ます。

ここだと思います。

 

 

・・・残念ながら、また絶妙なすり替えが行われているのに気づきました。

 

新世界訳聖書のヨハネ17章3節には、

彼ら が,唯一 まこと の 神 で ある あなた と,あなた が お遣わし に なっ た イエス ・ キリスト に つい て の 知識 を 取り入れる こと,これ が 永遠 の 命 を 意味 し て い ます

 

とありますが、
「知識を取り入れること」? ってなんかひっかかりました。
死ぬ間際のイエス・キリストが、こんな言い方するかな? と思いました。

 

他の聖書を調べると口語訳と新共同訳いずれも「知ること」になっています。

 

英語(WEB)も、
「this is eternal life, that they should know you, the only true God, and him whom you sent, Jesus Christ.」
このとおり、「know」です。

 

knowには「学ぶ」「知識を取り入れる」という意味はありません。
「know」の意味(weblio)

 

新世界訳聖書の改訂版では「知識を取り入れること」が「知ること」に直されているそうです。

 

これらを総合すると、

では,どう すれ ば 神 に 近づく こと が できる でしょ う か。まず,いま 行なっ て いる よう に,神 に つい て 学ぶ こと を 続け て ください。
 

こちらに関する聖書的根拠はありません。

 

また、

 

そう です,聖書 は,エホバ と イエス に つい て 学ぶ こと は「永遠 の 命」に つながる,と 教え て い ます。

 

「そうです」なんて強調して書いておられますが、そうじゃありません。
神とイエスについて「知る」ことです。

 

17章3節を私なりに素直に読んだところ、「神が、唯一の神であり、イエスはその神に遣わされた」ということを知る、という意味だと思いました。

 

続くヨハネ17章7節を見ても、

いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たものであることを知りました。 

とあります。

 

「神とイエスの関係性について、知ること」が、永遠の命である。というふうに私は読み取りました。

 

いずれも私の調べた内容ですので、鵜呑みにはしないでいただきたいですが、神について「学ぶ」ことが永遠の命につながるとはどうしても読み取れませんでした。
誤誘導です。洗脳だと思います。
こういうのは本当、やめてほしいですね。

 


JWの出版物で、なんか変だな、なんかあやしいな、と感じるところは、なんか洗脳っぽいのがある。と思って間違いなさそう。そんなふうに思えてきています。

 


次行ってみましょう。

 

 

 

19(ロ)神の特質の中で、あなたが特に引かれるのは何ですか。

 

JWの本文では神の特質が列挙されているのだと思いますが、一応読まないで答えますと・・・

ていうか、「神の特質」ってなんか神様に対して失礼な気がする。

 

私は、この、心の中にある、「なんだかわかんないけど、神様的な存在をどこか信じている感覚」を大事にしたい気がします。その思いに「神の特質」は関係ないです。たぶん。

 

アイドルにキャーキャー言ってる感じに似てる気がします。

イケメンだから好き、歌がうまいから好き、そういう感覚で神様について考えるのってちょっとヒくかも。

 

「神のどこが好き?!」
「愛があるところ!」
「キャーーー!いいよね!!!」
「公正なところ!」
「キャーーー!わかるぅ!!!」
もう、勝手にやっててください。

 

 

とはいえ、私も、イエスについては結構ミーハーです。
実在したっぽい人だからつい。聖書内にいいセリフがいっぱいありますのでね。イエスが実際言った言葉かどうかはわかりませんが、影響受けます。

 


一応、本文に書いてある神の特質を確認しておきます。


すでに 見 た よう に,「神 は 愛」です。(ヨハネ 第 一 4:16)エホバ は ほか に も,すばらしい 魅力 的 な 特質 を たくさん お持ち です。例えば,エホバ は「憐れみ と 慈しみ に 富み,怒る こと に 遅く,愛 ある 親切 と 真実 と に 満ちる 神」で ある,と 記さ れ て い ます。(出エジプト 記 34:6)神 は「善良 で,進ん で 許し て くださる」方 です。(詩編 86:5)辛抱強い 方 です。(ペテロ 第 二 3:9)忠節 な 方 です。(啓示 15:4)

 

はい。

 

次行ってみましょう。

 

 

 

20-22(イ)神を見ることができないことは、神に近づく妨げとなりますか、説明してください。

 

なるかならないかで言えば、ならないと思います。

でも近づくとか近づけないとかいうよりは、「神は心の中にいる」というイメージです。

 

「見えないからわからない」「見えないから信じられない」という気持ちはわかります。

 

 

このことについて考えているときに、「分離不安」という用語が思い浮かびました。

 

心理学では、分離不安というのがあります。子どもが、お母さんから離れてしまうと不安になるメカニズムです。

 

見えないと、触れられないと不安、という気持ちは、対象を心の中に取り入れられてないからです。
対象を心の中に取り入れて、対象が居なくても安心を得るには、対象との基本的信頼感が育っていればわりかし簡単です。
愛されているという実感を得られていると、基本的信頼感は育ちやすいです。

 

古今東西、奇蹟というのは、神からの愛されてる感、基本的信頼感を得させるために効果があったと思います。

 

祈りの内容を聞いてもらえたというのもエホバの証人さんからよく聞きますが、これも神からの愛されてる感、神との基本的信頼感の育成につながっているのでしょう。

 

 

寄り道しましたが、本文から期待される答えを見つけておきます。

エホバ に つい て 学べ ば 学ぶ ほど,エホバ は あなた に とっ て 現実 的 な 存在 と なり,あなた は いっそう エホバ を 愛し,エホバ を 身近 に 感じる よう に なり ます。

 

・・・ゴリ押し感を抱くのは私だけでしょうか。

 

「エホバについて学びなさい」というメッセージが繰り返されています。
さっきのヨハネ17章3節では、「エホバとイエスについて学ぶこと」が永遠の命と明記されていたのに、ここではさらりとイエスは除外されてます。
なんだかなー。
私がイエスなら、激おこだよ。ざけんなだよ。「ちょっとぉ、話聞いてた?!」って思うよ。

 


次行ってみましょう。

 

 

 

20-22(ロ)中には、悪気はないものの、どんなことをしようとする人が現れるかもしれませんか。しかし、あなたはどうすべきですか。


すんごい具体的な質問ですね。

具体的っていうか、ピンポイント過ぎっていうか。

もう、黄色い本の本文以外からは答え見つからないよね的な。

 

なりふり構わない感じが、勇気あるなと思います。

これ、この質問文だけ見たら、どんだけ答えの範囲を狭めたいの? って思いますもん。

 

 

(イ)の質問の「神が目に見えない存在だから」という内容を受けてだと思うので、神が目に見えないことに便乗して悪いことする輩がいるけどそれはどんな人? というニュアンスで答えると、
「○○って神様は言ってますよ」といったふうな、自分の言葉なのにあたかも神様が発した言葉のように言う人とかですかね。

 

・・・うっわ、特大ブーメランじゃん。

どこから投げられどこに戻っていったブーメランかは、あえて申し上げませんが。

 

 

あなたはどうすべきか。という質問には、当然、そういう人に騙されないように気をつけるべきだと思います。
今、実践してます。はい。

 

 

では、本文から見てみましょう。

聖書 を 学ぶ に つれ,悪気 は ない もの の,この よう な 研究 を 是非 と も やめ させ よう と する 人 たち が 現われる か も しれ ませ ん。別 の 宗教 に 替わっ て は 困る と 思う 人 も いる でしょ う。しかし,最も 価値 の ある 友情 を はぐくむ こと を,だれ に も 妨げ られ ない よう に し て ください。

あ、違った。神様が目に見えないこと、関係なかった(笑)
これは失礼しました。

 

いやぁ、ここも・・・神様の名を借りて、わっるいことしてるなーと思ってしまいますね。

 

「だれにも妨げられないようにしてください」って、すでにエホバの証人の活動をやめないように刷り込んでます。

罪悪感をあおりつつ。非常にカルト的です。

 

ここを読んだ人が、エホバの証人の研究をやめようとしたときに罪悪感が出てくるのは当然です。

 

 

今、エホバの証人の研究をやめようとしている方へ。
その罪悪感は、カルト的な洗脳によるものだと思われますから、どうか自分が悪いと思わないでください。

 

 

それにしても、世界規模で見てもまあまあでっかい宗教団体になってるのに、「だれにも妨げられないようにしてください」って・・・ちっちぇえな。って思います。
「いつでもやめてかまいません」くらいの器がほしいです。

 


では次に行ってみましょう。

 

 

 

23、24 (イ)自分が学んでいる事柄について質問するのをやめるべきでないのはなぜですか。

 

本文内に「べき」が多くなってきていますね。
洗脳に本気出してきてるぞ! 気をつけて!

 

ほんと、もっと器でかくいてほしいですけどね。

「いつでもやめて結構です」「質問がないときにはなさらなくて結構です」くらい、言っとこうよ。表向きだけでも。

 

 

私なりに、「自分が学んでいる事柄について質問するのをやめるべきでないのはなぜですか。」の問いにがんばって答えますと・・・
学びが滞るからとか、深く学ぶことが出来なくなるから、というあたりでしょうか。

 

JWの聖書の勉強でなく、学び全般に関して言えることです。
でもその質問は、別に人にする必要はなくて、自分の中で自問自答したりひとりで本やネットに向けて質問して答えを得ることも十分可能だと思います。

 

 

本文から答えを探しておきますと。

神 は あなた に 答え を 見つけ て ほしい と 思っ て おら れ ます。聖書 で は,神 に つい て 熱心 に 学ん だ 人 たち が ほめ られ て い ます。その 人 たち は 聖書 を 注意深く 調べ,自分 たち の 学ん で いる 事柄 が 真理 か どう か を 確認 し た の です。

ここの、使徒行伝17章11節では、質問するのが良いというか、聖書で確認することが大事だと言っているんですね。

 

「聖書では、神について熱心に学んだ人たちがほめられています」とありますが、そりゃあ伝道者からすれば従順に学ぶ人のほうが好ましいと感じるでしょうからね。

 

使徒行伝17章11節、口語訳を見ると、「ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた」とあります。

 

「素直」かー。なんかほめられてる感じがしません(すみませんへそ曲がりで)

素直っていうか、従順ですよね。

 

でも、ある程度疑いの心を持って、「そのとおりかどうかを知ろうとして日々聖書を調べていた」っていうのはすごい好感もてます。

 

いいねいいね、こういうの。

JWの冊子を離れて、どんどん聖書調べてくださいね。

すっごいいっぱい、わかることがありますよ。

 

 

しかし、JWもうまいとこついてくるなーと思います。

人から認められたい人、人恋しい人は、こういった「ほめてもらえるよ!」的なアプローチに弱いですからね。
ほめてもらいたい人の集まりって、みんなが「ほめてほめて私をほめて!」っていう構ってちゃんだからいろいろ大変だと思いますけどね。

 


では次行ってみましょう。

 

 

 

23、24 (ロ)次の章ではどんな点について考えますか。

 

この質問があるということは、最後に次の章の紹介が書いてあるということですね。

次の章も引き続き勉強させる意図が込められていると思います。

ここで終わりにしたら申し訳ないなーと思わせる効果があります。

 

「次の章では○○について考えますよ、楽しみですね!」

と司会者さんに言われたことを思い出します。

今、私も楽しみです。いろんな意味で。



以上、『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」後編でした。

 

2章もお楽しみに~!

 

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