こんにちは、Mです。

 

 

エホバの証人の出版物を自由に&心理学的に分析するコーナー。

 

本来なら、出版物の本文から答えとなる部分を探す脚注の質問に、

本文を見ないで自由に答えていきます。

 

 

今回は、

 

『聖書の教え』第1章「神に関する真理とは何ですか」前編。

1~10節までです。

 

 

お手元の黄色い本は、まずは閉じたまま(笑)、ご一緒にお考えください。

 

 

1、2 多くの場合、質問するとどんな良いことがありますか。

この問いは、新しい視点だなと思いました。
「質問」と「良いこと」を関連付けたことがなかったので。


質問をすれば、答えや答えに至るためのヒントを得られると思います。
答えをすぐにほしがる人もいればヒントだけもらって考えたい人もいるでしょう。
答えとヒント、どちらをもらうにしても、良いこと・・・というか、ありがたいことだとは思います。


私は、自分で答えに至る過程が大事だと思います。
それに、質問した相手が正しい答えを知っているとは限りません。
正しくないことなのに、「これが正解」と、偽りの答えを教えることもあるでしょう。
だから、もし質問に対して答えをもらえたとしてもそれが即、良いことだとは思いません。


関係性に着目すれば、質問できるような関係を、相手と構築できていることは「良いこと」と言えるかもしれませんけれども・・・。

 


正直に答えますと、「質問すると良いことがある」って理屈、なんかしっくりきません。

 

 

ちょっとうがった見方をしますと・・・

 


「質問をすると良いことがあるんですよ(だからどんどんするようにしてくださいね)」という理屈、
ひいては
「質問したら確実な答えを得られるんですよ(そう、エホバならね)」という理屈へと、誘導しようとしているのでは・・・?

・・・そんなふうに思うのは、勘ぐりすぎでしょうか。

 


あるいは、誘導しようとしているのは
「聖書についてわからないことは、自分で考えないで質問してくださいね(ただし、必ずエホバの証人に、ね)」
という理屈かもしれませんね・・・

 


うーむ。

しょっぱなから、どうも洗脳くさいぞ。と思ってしまいましたぞ。

 

 

さて、この1、2節の本文から答えを探しますと、

 

 

どの 道 を 進め ば よい か を 知り,避ける べき 危険 を 察知 し,好奇 心 を 満足 さ せる

 

 

ここが答えになるようです。

 

進む道に、正解なんてないと思う。

避けるべき危険かどうかも、自分で判断するものだと思う。

他者からもらえるもので満たされる好奇心なんてたかが知れてると思う。

 


さて、次いってみよー。

 

 

 

3 多くの人が、非常に重要な質問の答えを探す努力をやめてしまうのは、なぜですか。

 

えぇっ・・・そうなんですか?
非常に重要な質問、っていうのがそもそも何かわからないし、
というか人によっていろいろ違うだろうし、
「答えを探す努力をやめてしまう」って、どうしてわかるんでしょうか・・・。

 

・・・こんなふうに答えたら、へそ曲がりですかね。

私としては、きっとみんな、一生かけて、がんばってると思います。
自分なりの問いへの、答えを探すために。

 

正確な、確実な答えなどないけれど、それでも何かを追い求めていくものだと思います、人生って。

 

例えは悪いかもしれませんが、すべてに悲観している自殺寸前の人以外は、「非常に重要な質問の答えを探す努力をやめてしまう」なんてことは、ないんじゃないかなあ・・・と思います。

 

 

この、3番目の問いは、
人間には「非常に重要な質問」というのがあって、その「答え」というものが確実にある・・・と、誘導していますよね。

 

非常に重要な質問があるとしても、その内容など人それぞれだし、どんな質問に対しても正確で確実な答えなんてないと思います。

 


そんなにも重要な質問に対して、手っ取り早く正確で確実な答えをほしがる人にはなりたくないし、そのような答えをほしがる人は、心が一時的に弱まってしまっているのだと思います。
その弱さと向き合ってこそ、質問の答えを自分で探し、自分で答えようとしていく力が身につくのだと思います。

 


で、その向き合い方の一選択肢として、聖書を学ぶ、というのはアリだと思います。
でも、「非常に重要な質問への答えが聖書(あるいはJWの出版物)にある」と誤誘導するのはルール違反だと思います。
誠実に生きようとしている人に、すごく失礼な方法です。

 


・・・なんかちょっと腹が立ってきた。

 

クールダウンのためにガリガリ君食べました。

 

 

ついでに、本文3節を読んでみましょう。

 

「多くの人が、非常に重要な質問の答えを探す努力をやめてしまうのは、なぜですか。」

この質問に対しては、

 

質問 の 答え は 聖書 に ない

 
と考えたり、

答え は 難しすぎる


と思ったり

 

質問 する と きまり の 悪い 思い を する の で は ない か,と 心配


したり

 

 

そういう 質問 は 宗教 の 指導 者 や 教師 に 任せ て おく の が 一番,と いう 見方


をする人もいるから

 

 

・・・という答えになりそうです。

 

やっぱり、自由に考えるための何かが妨げられている気がする。

 

 

次行ってみよー。

 

 

 

4、5 わたしたちの人生に関係した重要な問いには、どんなものがありますか。その答えを探すべきなのはなぜですか。

人生に関係した重要な問いとは、「自分はどう生きようか」とか、そういう類のものでしょうか。

 

で、「その答えを探すべき」・・・うーん、私的にはちょっと違うかもしれません。

 

答えは生きながら自然に探していると思います。
というか、生きることが答え。って感じ。

 


おお、我ながら良いこと言った。

 


ていうか、
「答えを探すべき」って、マスト扱いしちゃうんですね。
それってどうなんでしょう。

 

やっぱり、誤誘導入っていると思いますよ。
「こうしなければいけない」という洗脳タイプの誤誘導といってしまっても、過言ではないと思います。

 


本文を通さずに、質問文だけ見て考えていくと、やっぱ、意外と見えてくるものがあるかも。

 

まだ始めたばかりですけど、とりあえずここまでの段階ですでに、やってみて良かったと感じます。

 

 

さて、4,5節の本文を読んでみますと、

「わたしたちの人生に関係した重要な問いには、どんなものがありますか」という問いについては

 

『生きる 目的 は 何 か。今 ある 命 が すべて な の か。神 は 実際 に どの よう な 方 な の か』

 

が、期待される答えであり、

 

「その答えを探すべきなのはなぜですか。」という問いについては

 

ほか の 人 たち が どんな 意見 を 述べる と し て も,答え は 必ず あり,必ず 見つける こと が でき ます。

聖書 の 中 に ある の です。

こことか、

 

もっと うれしい こと に,その 答え を 知れ ば 希望 と 喜び が 得 られ ます。今 の 生活 も 満足 の ゆく もの に なり ます。

 

ここが、期待されている答えだと思います。

 

 

私の考える「人生への問いと答え」と順序が逆でした。

答えを知って希望や喜び、生活への満足が訪れるのか・・・

 

答え知っちゃったら、つまんなくないですか。

 

希望や喜び、満足を求めながら、自分で考えながら生きていくことそのものが、答えにつながる道のりです。私にとっては。

 

 

それはどうでもいいけど、

「(答えは)聖書の中にある」なんて言い切っちゃって大丈夫なんですか。

聖書は、神様の直筆じゃないですよ。

神様大好きっ子たちの創作だと私は思ってます。

 

JWの出版物は、あおるねぇ・・・乗せるねぇ・・・

答えがほしくてたまらない、人生に行き詰ってる人にはこれ以上ない救いに感じられるかもしれませんね。

そんな、心神喪失状態の人の心をさらうようなことで、いいんでしょうか。

 

関係ないですが、

いま、

「心神喪失状態」って書いて、「神も失われている状態なのか・・・」と思ってしまいました。

神経って言葉も、「神」が入ってるんですね。

 

 

次行ってみよー。

 

 

 

 

6 神が人間の苦しみを気遣っているはずはない、と考える人が多いのはなぜですか。

ほんとにそんなふうに考える人、多いんですか? ソースは?
って言ったら、あおり過ぎですかね^^;

 


「神わるくない。人間わるい」の構図に無理やり持ってこうとしている気がするんですよね・・・
「神もわるくないかもしれないけど、人間だってそんなわるくないよ?」と私は言いたいです。

 

なぜ「神スゲー人間ダセー」の方向へ持ってこうとするのでしょうか。

 

そんなこと言ってない、とJWのみなさんはおっしゃるかもしれませんが、
「神が人間の苦しみを気遣っているはずはない、と考える人が多いのはなぜですか。」
この一文を読んで、「こう考える人のほうがおかしいんだな」と思わない人がいるでしょうか。

 

JWの方々には、「発言として言ってなくても、言外に表現していることがいっぱいある」ってことに、気づいてほしいです。
気づいてるのに気づいてないフリしてるんだったら、本気で軽蔑します。

 


さて、6の答えに戻ります。

 

例えば、ひどい災害に遭ったり親しい人を失ったりして悲哀のショック状態にある人は、「この世に神なんていない」「神は私を見捨てた」と考えることもあるでしょう。
自分の力ではどうにもならないことが起きたときに、人がよく感じる「神の存在の否定」です。
「全能であろうとしても不可能である」という現実を受け入れる段階です。
その過程を経て、「みんな、全能な人などいない」「自分だけがつらいのではない」と考えられるようになるわけです。
すると、「ほかの人もつらい思いをしているんだから少しずつ元気になろう」と立ち直っていきます。
悲哀や喪失からの立ち直りの心理的プロセスです。

 

でも「神は人間の苦しみを気遣っていない」と考えるでしょうか。
ここ、なんか創作入ってませんか。
そんな、壮大な、かつ具体的な八つ当たりをする人って、いるでしょうか。
中二病入ってれば、あるいはそういうこともあるかもしれません。
うん・・・なんか、JWの教理もどこか中二病の創作っぽいところありますものね・・・。

 

 

心理学の立場から見たら、「神への不満」は喪失感を受け入れていく過程の自然な流れです。
「神なんていない」も、「神は私を見捨てた」も、いずれも喪失感の受容のプロセスです。
「神が人間の苦しみを気遣っているはずはない、と考える人」も、たぶんそんなふうに考える機会なんて、自分ではどうにもならないことが起きたときくらいでしょう。
ですから、喪失感受容のプロセスであると考えられます。

 


僭越ながら・・・もし、悲劇的なことが起きてもいないのに「神が人間の苦しみを気遣っているはずはない」と考えている人がいるとしたら、早めに病院に行ってください。
一人でイライラしているよりずいぶん楽になります。

 

さて、6節の本文を読んで、

「神が人間の苦しみを気遣っているはずはない、と考える人が多いのはなぜですか。」この問いへの答えを考えますと、

 

世界 を 見回す と,戦争 や 憎しみ,悲惨 な こと が あふれ て い ます。個々 の 人 に つい て 見 て も,病気 に なり,苦しみ,愛する 家族 を 死 に よっ て 奪わ れ ます。
ですから,『もし 神 が 人間 の こと や 様々 な 問題  を 気 に かけ て おら れる なら,その よう な こと が 起き ない よう に し て くれる はず で は ない か』と,多く の 人 は 言い ます。

 

ここになると思います。

 

神様も大変ですね。いろんなとばっちり受け止めなきゃで。

 

でも私も当事者になったら、神様に八つ当たりしちゃうかもしれません。ごめんなさい。

 


次行ってみよー。

 

 

 

7 (イ)宗教の教師たちがどんなことを唱えたので、多くの人たちは、神は冷たい方だと思うようになりましたか。

想像になりますが・・・
「バチが当たるよ!」的な話だろうと思いました。「試練をお与えになった」とかね。

神様が冷たいことをする人(?)だというふうに、教えている宗教指導者たちがいる、ということでしょう。

 


その実際は存じませんが、その宗教ごとに親和性のある神様の性格づくりになっていると思うので、一概に「神様のこと冷たい人だって思わせるようなことしないでよね!」とは言い切れないなぁと思います。

 

 

ていうか。石を投げたら、責任持ったほうがいいですよ。
壁に当たって跳ね返ってくるかもしれないし、誰かが投げ返してくるかもしれない。

 

宗教関係者は、別の宗教を批判しないほうがいいと思います。

教理は違っても、根本的には「人を救いたい」という理念で継続している団体同士なのですよね。

 

相容れない感覚とかがあっても、例えば、
「ま、オタクの教理のこことここは頭おかしいんじゃねーのと不思議だけど、例えばさぁ、なんで十字架に祈ってんの?イエス様の最期を象徴するものを拝むとか敬虔なフリして実はサディストなんじゃね?と思いますけど、でも、お互い、人を救いたいですよね~^^」
「ですね~。ウチもオタクの教理のこことここはマジ意味わかんねーし、例えば、リアルに楽園とか言っちゃって頭に花咲いてる?とも思いますけど、でも、本当、ひとりでも多くの人救えたらいいですね~^^」

・・・でいいじゃないですか。

 

 

・・・全然良くないか。
語尾の笑顔 ^^ が喧嘩売ってるようにしか見えないな。
うん、お互いに意見せずに、「人救いたいですね~」「ね~お互いがんばりましょうね~」でいいか。

 

どういうふうにするにせよ、仮にも人を救おうとしてる人たちなんだから、まずはあなたたち同士が仲良くして救い合ってくださいよ、と思います。


と、おこがましくも全宗教関係者さんに忠告めいた発言をしてしまった・・・どっかから石が投げ返されたらどうしよう。怖いよー。

 

えーと。宗教関係者さんに石は投げてません。スポンジボール程度のものは投げました。痛くなく受け止めていただけると思います。投げ返すときもスポンジボールにしていただけるようにお願いします。

 


・・・めっちゃチキンな言いっぷりに少し自分が情けなくなりつつも、次行ってみよー。

 

あ、違うわ、7節の本文を読んで答えないと。どれだけチキンなんでしょう、自分。

 

「(イ)宗教の教師たちがどんなことを唱えたので、多くの人たちは、神は冷たい方だと思うようになりましたか。」この問いへの答えは、

 

悲惨 な こと が 起こる と,それ は 神 の ご意志 だ,と 言う の です。

 

ここになると思うのですが、

さすがにそれは・・・

方々に喧嘩売ってる・・・

 

「あ、ウチとは違う宗教の指導者さんですか。

オタク、悲惨なことが起こると、神のご意志だって言ってますね^^

でもお互いがんばって人を救いましょう^^」

 

怖い・・・

 

 

次、次っ(汗

 

 

 

7 (ロ)聖書は、わたしたちが試練を受けることについて、実際にはどんなことを教えていますか。

「試練」で聖書検索かけてみました。
日本聖書協会


あれ。口語訳だと1個しか出てこない。
(※新共同訳で検索したのちに口語訳ボタンを押すと2個以上出てきました。ここでは検索時に出てきた1個のみ紹介します)

 

 

1:使徒行伝/ 20章 19節
すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。 

 

ゆ、ユダヤ人の陰謀?!

 

穏やかでないなぁ。

 

ここから読み取れることは、試練にあっているときでも神につかえてきた(だからあなたも試練がつらくても神につかえなさい)ってことですかね。

 

・・・「ユダヤ人の陰謀」が頭から離れない・・・

隣人を愛せよ、じゃないの?

こんなあおるようなこと書くから、方々の異教徒と戦争しちゃうんじゃないの?

まったくもう。

 


続いて、新共同訳でも「試練」検索。

 

うわ、めっちゃ出た。15個?!

 

全部検証するのは別の記事にさせていただき、とりあえず興味深かった箇所をば。


1:ルカによる福音書/ 08章 13節
石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。 

 

やー、私はズバリ「石地のもの」ですね(汗

 

神様からの試練だってわかってればがんばるかもしれないけど、そうじゃないかもしれないと思えばがんばらなくない? って思っちゃうのは信仰心がないってことなんでしょうか。

 

どんなつらいことも「神様からの試練」って思っちゃう思考も、逆に神様がシビアな人という印象を与えるし、
「神様からの試練だってわからないけど耐えなきゃいけないの!」っていうのもすごいマゾヒスティックな感じがするし、
矛盾というか・・・どっちもヤダ・・・というのが正直なところです。

 

試練なんてできれば会いたくないし、乗り越えるべきものと思えばがんばって乗り越えるし。

 

そういう正直な感覚、私は忘れたくないなぁ、と思っている自分に気づきました。←これが一番うれしかったです。

 

 


1:コリントの信徒への手紙一/ 10章 13節
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。


これは、ちょっと危険な思想じゃないかなぁ。と思います。
心理学的には。

 

試練に耐えても、逃れる道を見つけても、それを自分の自信にしちゃいけないんですね。
神様のおかげだって思わなきゃならない。

 

自信がない人はもっと自信がなくなるし(「自分」を信じる、という意味では)、宗教への信仰心というか執着心、依存心はさらに高まるでしょう。

 

 

1:ヨハネの黙示録/ 03章 10節
あなたは忍耐についてのわたしの言葉を守った。それゆえ、地上に住む人々を試すため全世界に来ようとしている試練の時に、わたしもあなたを守ろう。 

 

ここからは、ハルマゲドン?も試練のひとつだということが読み取れました。
で、そのとき神様は守ってくれるらしいということも。

でも、見捨てられちゃう人もいるってことで、それはどうなんだろう。と思います。

 

「地上に住む人々を試すために」っていうのもサラッと書いてある。
なんか・・・うーん・・・人間って信用されてないのかな?神様に。って思っちゃいました。ここだけ読むとね。

 

 

新共同訳には口語訳にはない第二正典、旧約聖書続編も掲載されていますが・・・

 

 

1:ユディト記/ 08章 25節
そして、これらすべてにまして神なる主に感謝いたしましょう。主は、わたしたちの先祖になさったように、今わたしたちに試練を与えておられるのです。 
2:ユディト記/ 08章 26節
主がアブラハムに対してどんな仕打ちをなさったか、イサクにどのような試練を与えられたか、また、シリア・メソポタミアでヤコブが母方の伯父ラバンの羊を牧していたとき、どういうことが起きたかを思い起こしてください。 
3:ユディト記/ 08章 27節
主は彼らの心を試すために火のような試練を与えられましたが、わたしたちの場合も同じで、決して報復ということではなく、主に近づこうとする者を教え諭すために鞭打たれるのです。」 


あれ、神様が試練与えるんですね。先祖にもわたしたちにも。

 

「主は彼らの心を試すために火のような試練を与えられました」とありますが、

・・・ちょっとひどくない? と思ってしまいました。

そんなしんどい試練で心を試すって・・・

 

なんか、メンタル病んだ彼女みたいなイメージです。
「私のこと好きならこの火の中に飛び込んで!」みたいな。
・・・くわばらくわばら。触らぬ神にたたりなし、って思っちゃいます。


「主に近づこうとする者を教え諭すために鞭打たれるのです。」っていうのもなかなか残酷・・・。
なんで教え諭すために鞭なの。
どんなサディストの神だよ。
ああ、カトリックで十字架に祈るのは、神のサディスティックな面とのつながりなのか。

・・・ヘンなところに納得してしまいました。

 


「聖書は、わたしたちが試練を受けることについて、実際にはどんなことを教えていますか」の質問については、以上のようなことを私は教わりました・・・。なんかすみません。


「やっぱり、JWの出版物を通して学ばないとダメね」と言われてしまいそう(汗

でも聖書だけ見て学ぶの、すっごい楽しいですよ。

 

本文7節から「(ロ)聖書は、わたしたちが試練を受けることについて、実際にはどんなことを教えていますか。」の問いに答えますと、

 

「試練 に 遭う とき,だれ も,『わたし は 神 から 試練 を 受け て いる』と 言っ て は なり ませ ん。悪い 事柄 で 神 が 試練 に 遭う と いう こと は ありえ ませ ん し,その よう に し て ご自身 が だれ か に 試練 を 与える こと も ない から です」

 

このヤコブ1章13節になると思いますが、

第二正典(旧約聖書続編)ではバッチリ、「神が試練を与えている」と書かれています。

 

その矛盾をネチネチとつつく気はないのですが、

聖書の記述をうのみにしないほうが良いだろうなという教訓は得ました。

 

試練を、神が与えようがそうでなかろうが、

人間の解釈でしかないので。

神も本当に、とんだとばっちりです。

 

宗教に深くかかわる人たちのほうが、神様に失礼なことしてる気がします。

神様のせいだって言ったり、そうじゃないって言ったり。

 

どっちが本当だか、神様しかわかんないじゃん。もうやめてあげなよ。勝手なこと言うの。

神様、お疲れ様です。

 

 

・・・次行ってみよー。

 

 

 

8、9 (イ)悪の存在をとどめないことと、悪が存在するように仕向けることの違いを、どのように説明できますか。

いじめっ子がいじめてるのを見てみぬふりするクラスメート(悪の存在をとどめないこと)と、いじめっ子になるように育てる母親(悪が存在するように仕向けること)・・・って説明でどうでしょう。

 

いじめっ子を育てる母親のほうがあくどさとしてはひどいけど、
いじめを見てみぬふりするのもねぇ・・・共犯だよ、という見方もあるでしょう。

 

うーむ、どっちもなかなか痛い人たちだな・・・。

 

いずれにせよ、どっちの人にもお近づきにはなりたくないです。

 

 

これ、本文ではたぶん前者(悪の存在をとどめないこと)のことを責めないようなニュアンスになってるんでしょうけど、

悪の存在をとどめないことって、結構、悪だよ。
わかっててそのままにしておくのって、気持ち悪いし。

 

8,9節本文、見てみましょう。

 

息子 は 親 の 言う こと を 聞か なく なり,家 を 出る こと に し まし た。父親 は 息子 を 止め ませ ん。息子 は 悪い 生き方 を 続け,面倒 な 問題 を 起こし ます。では 父親 は 息子 が 問題 を 起こす よう に 仕向け た の でしょ う か。そう で は あり ませ ん。

 

いや、そうだと思うよ?!

そりゃ、「悪いことしろよ、お前」とそそのかしてはないけど、

ちゃんとしつけてないじゃん。

迷惑だからちゃんとしつけてから自立させてください、お父さん。

いじめを見て見ぬフリする小学生より良くないよ。

 

こんな形で正当化されて、神様もあんまり気分良くないと思うよ。

ほんと神様が気の毒になってきた。

 

 

 

8、9 (ロ)人間が誤った道を進んでも、それを神がとどめないことで神を非難するのは、なぜ正当なことではありませんか。

 

えぇ?!
別に・・・誤った道に進んでも進まなくても、神がとどめないことで神を非難してもしなくても、それはその人の自由・・・なのでは・・・?

 

そこに正当性とか絡むのでしょうか。

 

しいて言えば、
誤った道に進むことや進んだことによる結果については、その人の自由というより責任も伴うってことですね。
良識にもとづく判断は必要かもしれないよねっていう。

 


そもそも
「人間が誤った道を進んでも、それを神がとどめないことで神を非難する」・・・っていうシチュエーションが浮かびません。

 

・・・ああ、また壮大系のシチュエーションが必要なのかな。

 

人間が戦争を始めても、それを神がとどめないからって「なんで神様、戦争止めてくんなかったの!」って非難するのは正当ではない・・・って感じ?

 

ならば、正当かそうでないかと言ったら、正当でないとは思います。
が、どうも質問の方向性が、極端というか・・・。

そこで神様出すのはちょっと不公平っていうか。神様、とんだとばっちりっていうか。

 

いちいち、神様を引き合いに出してきてるのはJWの出版物じゃないですか。
・・・まぁ仕方ないですけど。JW的に聖書を学ぶ上では神様を引き合いに出さないことには始まりませんもんね。
それにしてもとばっちりな気が・・・。

 


なんだか、そう考えると、
「自分は神とともに世界の存亡にかかわっているんだ」という壮大な思想を抱きがちになりますね。JWの信者は。

 

これって、心理学的に良いかわるいかで言ったら、あんまり良いこととは言えないような気がします。

 

誇大妄想的だし、もともと自己愛的な人がこの思想にハマったらかなり危険だと思います。
人を人とも思わないような言動をするようになることもあると思いますし、そうしたらどんどん社会性が失われていくでしょう。

 

なんか、「家族」とか「社会」をぽーーーんと飛び越えて、「世界」「神」に行っちゃうんですね、宗教って。
そうすることで、現実的な傷つきから逃れられるのかもしれませんけれども。

 

 

あと、ひとつ大きな疑問と心配。

「人間が誤った道を進んでも、それを神がとどめないことで神を非難するのは、なぜ正当なことではありませんか。」

 

これって、非常に重大な心理的誘導が入っていると思います。

 

「神がすることを非難してはならない」

という誘導です。

 


聖書を学ぶための第1章めから、神について心理的に刷り込んじゃっていいんでしょうか。

神について非難や批判を禁じられた状態で、神に対して冷静で客観的な考えができるのでしょうか。

 


うーむ。
わるいけど、私はしていきますよ。非難も批判も。必要があれば。

たぶん、そのほうが神様も「フェア」だと思ってくれると思います。

 

「誰が書いたともわからない文章にがんじがらめになった状態で神を信じようとする人」を神が愛するだろうか?と言いたいですね。

 

「あなたのことが好きなの! あなたの友だちって人からあなたのこと聞いたから! あなたの友だちが、いっつもあなたのこと話すの! それで、どうやらあなたのことわるく言わずに有無を言わさず好きにならなきゃいけないみたいなの! だからどうか愛して!」

・・・こんなふうにせまられたら、それがたとえどんなイケメンや美女でも、ヒくでしょ。普通。
新手のストーカーかっていう。
でも、JWの信仰の仕方ってほぼ↑この状態だと思いますよ。神様もヒいてるかもよ。

 


惑わされず、一緒に自由に考えていきましょう!

 

 

一応、8,9節本文参照しておきましょうね。

「(ロ)人間が誤った道を進んでも、それを神がとどめないことで神を非難するのは、なぜ正当なことではありませんか。」こちらへの答えは、

 

いずれ に し て も,人間 の ぶつかる 困難 な 状況 に つい て 神 の 側 に 責任 は ない の です。むしろ 神 は,唯一 の 解決 策 と なる 希望 を 差し伸べ て おら れ ます。

 

ここかなぁ・・・

なんか、どこが期待される答えなのかわからなくなってきました。

 

あ、それか、ここかなぁ・・・

 

神 は 人間 が 悪い 生き方 を 続ける こと に し て も,それ を 止め ませ ん でし た。しかし,だから と いっ て,問題 が 起こる よう に 仕向け た の は 神 で ある,と は 言え ませ ん。ですから,人間 が 抱える 面倒 な 問題 すべて を 神 の せい に する の は 正当 な こと で は あり ませ ん。

 

「正当じゃないって俺が言ってんだろ!だから正当じゃないんだよ!」

って理屈ですね。飲んだくれDV親父かよって。

 


では、次行ってみよー。

 

 

 

10 神が悪の影響すべてを取り除き、元の状態にされると確信できるのはなぜですか。

ここで確信させちゃうんですか?!

まだ第1章なのに?!

 

いや、無理です。

この流れは危険です。

 

こんな、誰が書いたかわからない出版物のしょっぱな、第1章で、神が「悪の影響すべてを取り除き、元の状態にされる」なんていうものすごいことを確信させられちゃって、いいんでしょうか。

 

危険、危険。

 

一応、10節本文を参照しましょう。もうあんまり参照したくなくなってきたけど。

 

神 は 聖 なる 方 です。(イザヤ 6:3)と いう こと は,神 は 清く て 純粋 な 方 で ある と いう 意味 です。

神 に は 悪 の かけら も あり ませ ん。ですから 神 は 全面 的 に 信頼 できる 方 です。

人間 に つい て は,そう は 言え ませ ん。人間 は 堕落 し て しまう こと が ある から です。

たとえ,権威 の ある 人 が 至って 正直 で あっ た と し て も,たいてい は,悪い 人 たち が 行なっ た 有害 な こと を 取り除い て 元 の 状態 に する だけ の 力 は あり ませ ん。

しかし 神 は 全能 者,つまり どんな こと で も 行なえる 方 です。悪 が 人間 に 及ぼし て き た 影響 すべて を 取り除い て 元 の 状態 に する 力 と,その よう に する 意志 を お持ち です。

神 は 将来 に 行動 を 起こし,その 際 に 悪 を 永久 に 終わらせ ます。―詩編 37:9‐11。

 

うーん。

聖書に書いてあるから。と言いたいんでしょうけど、

引用してあるイザヤ6章3節と詩編37編9節~11節はそれぞれ以下のとおりです。

 

互に呼びかわして言った。「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の主、その栄光は全地に満つ」。 

 

「なんて聖なる存在のお方だなぁ×3」とセラピムが賛美しているんですね。

天使が「聖なる人だ」と賛美しているのを見て、

「神には悪のかけらもなく、全面的に信頼できる」と思えるかどうかです。

「聖なる」という形容から、「全面的に信頼できる」を引っ張ってきていいのか・・・?と私は疑問です。

 

 

詩編のほうは、

 

怒りをやめ、憤りを捨てよ。心を悩ますな、これはただ悪を行うに至るのみだ。 

悪を行う者は断ち滅ぼされ、主を待ち望む者は国を継ぐからである。 

悪しき者はただしばらくで、うせ去る。あなたは彼の所をつぶさに尋ねても彼はいない。 

しかし柔和な者は国を継ぎ、豊かな繁栄をたのしむことができる。

 

このあたりですね。前後の関連から、該当節より長めに引きました。

 

ここで、JW出版物の本文に関連するのって、

「悪を行う者は断ち滅ぼされ、」

ここでしょうか。

 

この、詩編だけを読んで、

 

「しかし 神 は 全能 者,つまり どんな こと で も 行なえる 方 です。悪 が 人間 に 及ぼし て き た 影響 すべて を 取り除い て 元 の 状態 に する 力 と,その よう に する 意志 を お持ち です。

神 は 将来 に 行動 を 起こし,その 際 に 悪 を 永久 に 終わらせ ます。」

 

ここまで考えるには、ちょっと難しいかも。

聖書の読み込みが必要なのでしょうか。

 

それにしても、どうにも気になるのは、

かなり言い切り口調で話を進めている点です。

 

「・・・というふうに聖書には書かれています」と、

誠実に書いてほしいなぁと思ってしまいます。

 

 

*****

 

ここで、第1章の前半終了です。

後半をお楽しみに~。
 

 

 

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