こんにちは、Mです。
エホバの証人の出版物を自由に&心理学的に分析するコーナーへようこそ。
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本来なら、出版物の本文から答えとなる部分を探す脚注の質問に、本文を見ないで自由に答えていきます。
今回は、
『聖書は実際に何を教えていますか』
第2章「聖書―神からの書物」その2。
1節~3節までです。
JW公式サイトで本文をご覧になりたい方はこちら↓
『聖書は実際に何を教えていますか』第2章「聖書―神からの書物」(jw.org)
Photo Credit: Alan Light Flickr via Compfight cc
それでは、脚注の最初の質問から、自由に考えていきます。
1,2 聖書はどんな点で、興奮を誘う、神からの贈り物であると言えますか。
まず、この質問を読んで、
聖書は、「興奮を誘う、神の贈り物」だと刷り込みたいというJWの意思はわかりました。
「聖書は興奮を誘うし神様からの贈り物でもあるんですよ」
と自分の考え(所属する組織の考え)を言うのは自由だと思うのですが、
「どんな点で・・・と言えますか」
って書いちゃったら、
「興奮を誘うとも神様からの贈り物だとも思えません」
とは答えづらいですよね・・・。
従順な性格の人なら、
「聖書を読んで興奮しなきゃおかしいんだな」
とか
「神様からの贈り物だと思って読まなきゃな」
と、聖書を読むための準備がすでにJWから刷り込まれた姿勢になってしまうでしょう。
なんとか、がんばって、私なりに
聖書が「どんな点で興奮を誘うか」を考えてみると・・・
・・・って、「興奮を誘う」って表現もどうかと思いますけどね。
聖書は「エキサイティングな」書物、っていう英語だったんだと想像できます。
「知的好奇心を刺激する」とか
「読んでいてわくわくする」といった訳のほうが良かったのでは・・・
エホバの証人に関連して
「興奮を誘う」という表現だと、
どうも抑圧された興奮、性的な興奮のほうを想像してしまい・・・
「いや、興奮を誘っちゃダメな書物でしょ」
と思ってしまいます・・・
すみません、本題からズレました、
「聖書はどんな点で興奮を誘うか」
・・・うーん
・・・うーーん
・・・ダメです、出てきません・・・
皆さん、どうですか。
いきなり
「聖書は興奮を誘う本なんですよ。どんな点が興奮を誘うんだと思いますか」
って訊かれたら
どう答えますか。
えっ、うーーーん、わかんない・・・
ってなりません?
むしろ、本文にはどう書いてあるんだろうと興味がわいてきました。
JWがどういう見解と「聖書は興奮させる書物」と結び付けているんだろうと興味津々です。
そういう意味では、JWの出版物は興奮を誘いますね^^;
後半の質問、
「聖書はどんな点で・・・神からの贈り物であると言えますか」
そうですね・・・
神について書いてある本だから・・・
といったところでしょうか。
こちらも、神からの贈り物であるとする根拠をどう表現しているのか気になります。
大して自由な答えが出来ていませんが、
というかそれだけ、「JWの本文を前提としての質問」になっていることがよくわかる質問でしたが、
『聖書は実際に何を教えていますか』本文を読んでJW組織の期待する答えを探してみましょう。
親しい友達から特別な贈り物をもらった時のことを覚えていますか。
興奮しただけでなく、温かい気持ちになったのではないでしょうか。
実際、贈り物は贈ってくれた人について、あることを伝えます。
それは、あなたとの友情を大切にしているというメッセージです。
あなたも、心のこもった贈り物をくれた友達に感謝の気持ちを伝えたに違いありません。
2 聖書は神からの贈り物であり、そのことに深く感謝するのはふさわしいことです。
この類例のない書物は、ほかのどこにも決して見いだせない情報を提供してくれます。
例えば、星の輝く天の創造、地球と最初の男女の創造に関することがあります。
聖書には、生活上の問題や不安に対処するのに役立つ、信頼できる原則が収められています。
また、神がどのようにご自分の目的を果たし、地上の状態を良くされるかについての説明もあります。
聖書は何と興奮を誘う贈り物なのでしょう。
質問「聖書はどんな点で、興奮を誘う、神からの贈り物であると言えますか」への答えは、
・・・
・・・・・・
・・・・・・・・・・・・えっ、答え、あります?
がんばって考えれば、
「この類例のない書物は、ほかのどこにも決して見いだせない情報を提供してくれ」るという点、
あとは、
友達が特別な贈り物をくれたときには興奮するから、聖書も神からの贈り物だと思えば興奮しますね、
というあたりでしょうか・・・。
「神からの贈り物である」という点に、聖書からの引用がないのが最大のネックだと思います。
友達からの贈り物になぞらえようとしていますが
聖書が神からの贈り物だということを聖書に根拠を見出していない点で
なぞらえるのに失敗している感があります。
この1、2節は、司会者さんの力量が問われるでしょうね、
いかに、神からの贈り物だと信じてもらうか。
聖書にそう書いてなくても、聖書は神からの贈り物であることを刷り込むか。
「この類例のない書物は、ほかのどこにも決して見いだせない情報を提供してくれます」というくだりにも、巧妙さを感じます。
「類例のない」と形容することが出来るのはなぜなのか。
まだこの時点ではまったくわかりません。
もちろんこの後に、類例のなさをあげていってくれるのだと思いますが、
前提から、話を盛っておくのがうまいなーと感じました。
また、
天や地球、人類の創造、
生活上の問題や不安に対処するのに役立つ原則、
神の目的、
などについて
「ほかのどこにも決して見いだせない情報」という記述がありますが、
これも、どうなんでしょう。
別の書物等にもたくさんいろんな理論があるものばかりです。
「ほかのどこにも決して見いだせない情報」ではないと思います。
見方を変えれば、
「他の書物では書かれていない特殊な情報、限定的な情報」としては書かれていると思いますが。
もう1点、気になるのはここ。
「あなたも、心のこもった贈り物をくれた友達に感謝の気持ちを伝えたに違いありません」
ここでは
友達=神様というたとえになっていますから、
「贈り物をくれた神に感謝の気持ちを伝えるに違いない」
というプチ洗脳が入っています。
ちょっと、切なくなりました。
そこまで感謝を強要したいか・・・
感謝の気持ちが自然にわいてくるとは信じられないのか・・・
神のことを一番信じていないのは、
エホバの証人たちかもしれないと思ってしまいました。
神のことを一番信じていない、というよりは、
神と人間との関係性を一番信じていない、というほうがより適切かもしれませんね。
聖書に描かれているような、
あるいは
神性や神を信じたいと思う人にとって本来備わっている、
神と人間との関係性。
自然とありがたみがわいてくるような関係性。
そういうの、
結構たくさんの人が持ってるし、
何も促したり強制したりしなくても
自然と感謝したりするもんだって
エホバの証人が信じてあげないんじゃ
神様もなんだかなぁって思っちゃいませんかね。
強要されて、言われたり思われたりする感謝って、
感謝じゃないですよね・・・
義務。
義務から生まれた感謝で、
「パラダイスプリーズ!」って催促されてる神様、ちょっとかわいそう。
では、次の節に行ってみましょう。
3 聖書が用意されたことから、エホバについてどんなことが分かりますか。そのために温かい気持ちになるのはなぜですか。
かなり限定的な質問ですね・・・
『聖書の教え』の本文からそのまま引っ張ってこなければ、答えられない質問であるように感じます。
がんばって自由に考えてみても・・・
前半の、
「聖書が用意されたことから、エホバについてどんなことが分かりますか」
・・・すみません、自由な答えが出てきません・・・
聖書が用意されたこととエホバについて分かることが結びつかない・・・
強引に行くなら、
エホバ、というか神を信じる人たち(聖書執筆者)が熱心だったんだなぁということでしょうか。
後半、「そのために温かい気持ちになるのはなぜですか」
・・・あぁ、また感情の強要ですか。
どんな気持ちになるかは読者の自由です。
温かい気持ちになることを前提に、その理由を問うのは洗脳です。
自由に考えるどころじゃない、洗脳的な文章だという意見しか出てきません。
温かいどころじゃない、冷めまくりました。残念。
しかし、ここまで自由に考えられないのも癪なので、
百歩譲って、
『聖書の教え』2章3節に引用されている聖句を読んでから
また自由に考えてみたいと思います。
その聖句を読んで、
「聖書が用意されたことから、エホバについてどんなことが分かりますか。そのために温かい気持ちになるのはなぜですか」について、私なりに考えられればと思います。
では、
『聖書は実際に何を教えていますか』本文を読んでJW組織の期待する答えを探してみましょう。
聖書は温かい気持ちにさせてくれる贈り物でもあります。
贈ってくださったエホバ神について、あるメッセージを伝えているからです。
このような書物を用意してくださったことから、神はご自身についてよく知ってほしいと願っておられることが分かります。
実際、聖書は、あなたがエホバに近づく助けになります。
マジですか・・・
聖句がひとつも引用されてない・・・
自由に考える機会は失われました。
なんだか、ちょっと悲しいです。
悲しいというか・・・複雑な気持ちです。
がんばって、ひとつでもいいから聖句引用しておいてほしい。
「後からたくさん紹介するんですよ」
って言われたって、そうは問屋が卸しませんよ。
ここで「エホバについてどんなことがわかるか」を無理やり答えさせられて、
「温かい気持ち」になることまで強要されて、
・・・順序が違います。
きちんと、聖書を全部読み終えた後で、
エホバについてどんなことがわかるか、
温かい気持ちになるかを
確認すべきでしょう。(個人的には確認する必要もないと思いますが)
まず、エホバについてどんなことがわかるかを刷り込んでおいて、
そして温かい気持ちになることを強要しておいて、
「じゃあ詳しく学んでいきましょうね」って、
絶対、それ順序違うから。
ま、そのあたりのことはいったん置いておいて。
聖句が引用されていないということは、
「聖書が用意されたことから、エホバについてどんなことが分かりますか」
「そのために温かい気持ちになるのはなぜですか」
いずれの質問に対しても、
JWの出版物執筆者の答えを、自分の答えとして述べることになりますね。
そんなの、洗脳以外の何ものでもありません。
もうひとつおかしな点があります。
この3節には、原因と結果に関連性がない文章がふたつもあるのです。
まずは、ひとつめ。
「聖書は温かい気持ちにさせてくれる贈り物でもあります。
贈ってくださったエホバ神について、あるメッセージを伝えているからです。」
〇〇だから△△であるという語順に直すと、
「贈ってくれたエホバ神についてあるメッセージを伝えている」
から、
「聖書は温かい気持ちにさせてくれる贈り物だ」
となります。
特定の人物についてあるメッセージを伝えているものが贈られることによって温かい気持ちになる場合・・・というのは
その特定の人物のことをものすごく好きとか大ファンだとかいうケースだと思います。
例えば、
アイドルのファンブック(ファンが編集したもの)、
人気アニメの二次創作(そのアニメを好きな人たちが編集したもの)
などが、
それにあたるのではないかと思います。
つまり、
神について相当のファンである、相当の好意を示している場合に限り、
聖書は温かい気持ちになる贈り物
になるのです。
そうすると、エホバの証人の人たちがよく研究に誘う際の
「聖書について学んでみませんか」
という文句は、嘘になります。
「神様のことを大好きになる必要がありますが、私たちの出版物を通して聖書を読みませんか」
というのが事実です。
なので、
「贈ってくれたエホバ神についてあるメッセージを伝えている」
から、
「聖書は温かい気持ちにさせてくれる贈り物だ」
という記述は、洗脳的です。
エホバ神に好意を寄せるのが当然だというメッセージを含んでいる気がします。
聖書の中で伝えられているらしい「神についてのあるメッセージ」については
この3章には引用がないためわかりませんが、
JWの出版物に込められているメッセージについては理解できたような気がしました。
続きまして、
原因と結果に関連性がない文章、ふたつめ。
「このような書物を用意してくださったことから、神はご自身についてよく知ってほしいと願っておられることが分かります。」
このような書物というのは、「温かい気持ちにさせてくれる、神についてあるメッセージを伝えている書物」を指していると思われます。
温かい気持ちにさせてくれる、神についてあるメッセージを伝えている書物を用意してくださったことと、
神が自分についてよく知ってほしいと願っている、
この2点を、
原因と結果として結び付けてしまっていいのか・・・
疑問です。
そもそも聖書を用意した(という表現も適当ではないように感じますが)のは
神様自身ではないです。
人間です。
先述のたとえで言うなら、
熱烈なファンたちや、二次創作の作家たちです。
熱烈なファンたちや二次創作の作家たちには、
預言者と呼ばれる人たちも含まれますが、
神様本人と会ったりしゃべったりしたことはありません。
それを、
「神が自分についてよく知ってほしいと願っている」
なんて言ってしまっていいのでしょうか。
百歩譲って、
(すでに先ほど百歩譲っているので二百歩譲ることになりますが)
「神様のこと知ってほしいから書きました!」
とファンたちや二次創作作家たち(聖書執筆者たち)が言うのなら、まぁ受け容れられる気がします。
けれども、聖書執筆者でもないのに、
「神が自分についてよく知ってほしいと願っていると分かります」
と言い切ってしまうなんて、
なんとおこがましい・・・
と感じます。
ていうか、
神様がどう感じているかなんて神様にしかわからないのだから、
「神が自分についてよく知ってほしいと願っている」なんて、
言えるはずないと思うのです。
JWの組織のトップにいる人だとしても、言えるはずないと思います。
本当に神様を愛しているのなら、
言えるはずない言葉だと思うのです。
ましてや、聖句をひとつも引用せず、
主観で言い切るなんて。
・・・立場をわきまえて、
謙虚な気持ちでいきましょうよ。
と思ってしまいました。
聖書を、
なんのしがらみもなく何か特殊な手引書を使うこともなく、
まっさらな気持ちで読んで、
「神様からの温かい贈り物なんだなぁ」
とか
「私が読むように用意してくださったのだとしたら、神様とはなんて素晴らしい方なんだろう」
と思うなら、自然なことでしょう。
でも、
いち手引書の中に
「神様からの贈り物なんですよ」
「メッセージが伝えられているから温かい気持ちになるんですよ」
「神様が用意してくださったから温かい気持ちになるんですよ」
「ということは神様は自分をよく知ってほしいと思っているとわかりますね」
・・・なんてごちゃごちゃ書いてあったら、
「そうですね~」と鵜呑みに出来るほうがおかしい、
・・・という感じがするのですが、皆さんいかがですか。
しかも、
上記の、カギカッコの言葉、
ひとつも聖句を引用していないんです。
神様からの贈り物と思えるかどうかは、
自分の感覚で、聖書だけを読んだときにそう思えるかどうか。
温かい気持ちになるかどうかも、
自分の感覚で、聖書だけを読んだときにそう思えるかどうか。
・・・ということなのではないでしょうか。
男は黙って〇〇!
というお笑いネタがありましたが、
人間は、黙って聖書だけ読む!
って感じです。
語呂は壊滅的ですが。
だいぶいろいろ書かせていただいちゃいましたが、
JWの出版物の「〇〇だから△△である」という文章には気を付けたほうが良いと思います。
思いもよらぬ洗脳が、入っている可能性があります。
また、感情と思考の刷り込みにも気を付けていきましょうね。
「〇〇という気持ちになるのはなぜですか」といった質問に答えさせることによって、
特定の感情、思考を抱くようにコントロールされています。
自然な教育をしたいのであれば、
出来るだけ主観を排除して客観的に、全体を自由に学んでもらったうえで、
どう感じるか、どう考えるか、という自由な感情・思考の段階が来るはずです。
かなり長くなりましたので、このへんで一度アップします。
次回、
『聖書は実際に何を教えていますか』
第2章「聖書―神からの書物」その3
4節~
楽しみにお待ちください。
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