こんにちは、Mです。 
  
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「自由に&心理学的にJW出版物を読む」スタート ~試論と内容説明~ 
 

 

本ブログの「エホバの証人の出版物を自由に&心理学的に読むコーナー」では、
「エホバの証人の聖書研究」であれば、たいていの流れとしては・・・

 

 

「JW出版物の本文」を読む

本文のはじっこにちっちゃく書かれてる「質問」を読む

さきほど読んだ本文から「答え」となる部分を探す

 

・・・となります。

 

 

しかし!

その方法では、

「質問」の「答え」となる部分は決まっているのではないか?

JWの導きたい方向へと、誘導されているのではないか?

このJWの聖書研究における「JWの出版物の本文」「質問」「答え」の流れは、洗脳、マインドコントロール的要素があるのではないか?

 

 

・・・このような疑問を抱きましたため、

JW出版物の「質問」に、JW出版物の本文を見ないで! 自由に答えていってみたらどうなるのか。

試してみようと思います。

 

その後、

JWの出版物本文を読み、

「JW(の組織)によって期待される答え」を探します。

 

 

「質問への自由な答え」

と、

「組織によって期待される答え」

を比べ、どんな違いがあるかを考えます。
  
  
今回は、 
『聖書は実際に何を教えていますか』 
第2章「聖書―神からの書物」4節と5節です。

 

 

Photo Credit: Ruth and Dave Flickr via Compfight cc

 

 

 

では、4節の質問から見ていきましょう。


4 聖書の配布に関するどんな点がすばらしいと思いますか。

・・・

・・・・・・

・・・・・・JW出版物の質問におけるふたつの特徴が、

如実にあらわれている質問だと思います。

(如実すぎて若干ヒき気味)

 

 

ひとつめは、

これまでもいくつかの節で見てきたとおり、

「感情の強制」です。

 

 

「どんな点がすばらしいと思いますか」

って、

「すばらしい」以外の感想言う余地をなくしています。

 

聖書の配布が「すばらしい」ことだと刷り込んできています。

 

すばらしいと思うかどうかは、強制すべきではないと思います。

 

神様が備えてくれた「自由意思」を、組織が奪っているのでは? 

と悪態をつきたくなってしまいます。

 

カウンセリングや心理療法では、「感じること・思うことは自由」というスタンスが基本なので余計につっかかりたくなっちゃいます。

カウンセリングや心理療法は、そういう意味では宗教とは正反対かもしれないです。

でも、宗教をやめるのもやめないのも自由、というスタンスなので

別に宗教と相いれないわけではない。

実際、教会の懺悔システムなどもカウンセリングのひとつの流れだと思います。

・・・この話はここらへんにしておいて、と。

心理療法と宗教についてはまたの機会に。

 

 

ふたつめは、

JW出版物の「本文ありき」の質問であるということ。

 

 

「聖書の配布に関するどんな点がすばらしいと思いますか」

・・・この質問には、

JW出版物の本文を見ないと答えられません。

 

組織側からは、

「脚注にスペースがないからはしょりました」って言われてしまうと思います。

 

だとしても、

「聖書の配布はどのように行われているか、聖書をはじめとした他の文献からも調べてみましょう」

といった質問でないと、フェアではないと思います。

・・・なんだか小学校の社会科の教科書にあるような文になってしまいましたが(笑)

 

「組織の出版物の本文をおうむ返しに答えさせるのは、洗脳の常とう手段だ!」

と突っ込まれても、組織側としては反論が難しいのではないでしょうか。

 

 

毎回思うのですが、

ツッコミどころ満載なJWのシステム・・・

ちょっと考えればもっとうまく作り替えられると思うのに、そのままにしてあるのは不思議です。

それなりに信者数も増えてきているというのに。

 

まぁ・・・ほかの宗教を見ても、

おっかしなシステムやけったいな言動の教団幹部を

そのままにしているところも少なくないですものね。

 

 

では、

「聖書の配布に関するどんな点がすばらしいと思いますか」

について自由に答えてみましょうか・・・

 

・・・

・・・・・・

うん、無理ですね。

本文ありきの質問ですので・・・

 

しかし、がんばって推測して答えてみます。

 

 

聖書の配布というのが布教という意味なら、

多くの先人が、身を粉にして、時にはその身をなげうって、

聖書を配ってきたのはすばらしい・・・ということ、とか?

 

「配布」って言葉がひっかかりますね。

「無料」感がありますよね。

「購入」に結びつけたくないのかな。

だとすると、

 

エホバの証人では聖書は無料で配布しています、そこがすばらしいでしょう?

という感じ?

 

うーむ、推測もなかなか難しい。

 

 

しかし、

この「すばらしい」と思うことが前提の、感情の強制。

 

研究生当時、

特に疑問にも思わず

すんなり読んでしまっていたのだろうか?と振り返ってみましたが、

覚えてないなぁ・・・

研究に常に違和感は抱いていたものの、ちょっとぞっとします。

 

 

では、JW出版物の本文を読んで、組織から期待される答えを探してみましょう。

 

4 あなたは聖書を持っておられますか。

実は、聖書を持っている人は少なくありません。

これまで聖書の全体、あるいは一部分が2300人以上の言語で出版されてきたため、世界人口の90%以上が聖書を入手できるのです。

平均すると、毎週100万冊を超える聖書が配布されています。

これまでに生産された聖書は、部分的に出版されたものを含めると何十億冊にもなります。

確かに、聖書のような書物はほかにありません。(太字は原文ママ)

 

ああ、そういうことか^^;

推測、全然違いましたね。

「配布」って表現するから・・・ぶつぶつ・・・(クイズにはずれて悔しかった時の心境に似ている)

 

というわけで、本文を読むと、JWから期待される答えというのは、

 

たくさんの言語で出版され、

毎週平均100万冊を超えて配布されていて、

部分的な出版を含めればこれまでに何十億冊生産されていて、

こんな書物、ほかにはない。

(だから、「すばらしい」と思って当然ですよね)

 

※カッコ内が、組織にとって聖書のすごさより重要

・・・ということなのでしょう。

 

 

ここに記載されている冊数などは、正確な数字だと信用したいと思いますが、

その冊数などを「すばらしい」と思うかどうかは読者にゆだねられています。

 

そこを忘れずにいきたいところです。

 

 

実際、素直にすごいと思いますけどね。

聖書の流通に関しては。

 

「すばらしい」と思うことを強制させられてることで、

かえって聖書の貴重さが薄れるような気がしてしまいます。もったいない。

 

自然にわいた「すばらしい」と

強制された「すばらしい」では

感動が違いますよね。

 

 

今、思い浮かんだのですが

・・・長くなるので詳しくは別の記事に書こうと思いますけれども、

どうもJW(の組織と洗脳された信者たち)の思考というのは、

 

まず、誰かに示された唯一の正解があって

その唯一の正解を確固たるものだと信じ切る。

この過程がないと、不安でしょうがなくなる・・・

 

このスパイラルのような気がします。

 

JWの出版物を通した聖書研究も、このスパイラルの一環ですよね。

 

本文の中に必ず答えがあるから、心配なく研究できるわけです。

 

本文の中に答えの見出せない質問が脚注にあったら、

熱心な信者ほど不安になることでしょう。

 

 

そう考えると、

出版物における「感情の強制」も、

むしろほとんどの信者が

「組織が「すばらしい」と思えと言っているのだからそう思って間違いない」

と無意識的に思考処理していそう。

・・・あまりに不自然で、あまりに洗脳的で、正直、ちょっと怖いです。

 

 

一番怖いのは、

信者は、それが自然だと考えているところ。

まさに洗脳です。

 

ほとんどの宗教で、

洗脳→唯一を信じる→なくなると不安だからもっと信じる・・・

というスパイラルと似たような現象が起きているから

信者が集まるし、

熱心になっていく信者も少なくないし、

一方で時々問題が起こるし

・・・って状況だとは思いますが

どこもかしこも、なんだかなぁ・・・と思ってしまいますね。

 

 

オリジナルの感覚、忘れないでいこうね!

自分が自分でいたい人は、ね!

 

 

では次の節に行ってみましょう。

 

 


5 聖書はどんな意味で「神の霊感を受けた」ものであると言えますか。

この節も「本文ありき」のパターンのようですね・・・

むしろ、さらに上位の「本文おうむ返し」パターンか?

 

強気ですね。JW。

 

 

とはいえ、ここは聖書からの引用があれば素直に受け止めたいと思います。

カギカッコでくくられているから、きっと聖書からの引用があるのでしょう。

 

聖書にも「聖書は神の霊感を受けたもの」だと記載があれば

その点は信ぴょう性があるということでしょう。

JWが都合よく解釈したわけではない、という意味で。

 

 

というわけで

「聖書はどんな意味で「神の霊感を受けた」ものであると言えますか」

という質問に自由に答えるとするなら、

 

聖書に記載があるならその部分の執筆者は神の霊感を受けたものであると信じていたという意味で、神の霊感を受けたものであると言える。

 

しかし、執筆者が言っているだけなので、聖書に書いてあるからすなわち聖書は神の霊感を受けたものであると言うことはできない。

 

・・・これが私の答えです。

 

 

なんかもう、コントですよね。

例えれば、

「この本、すっごい面白いんですよ」って筆者によって書いてある本だから、「すっごい面白い」と言える・・・

って話なので。

筆者も、「だから『すっごい面白い』と言える」って言った人も、相当痛い人でしょ、それ。

 

 

あるいは、

もし、聖書を読んでいて、神様を感じるような感動体験があれば、

主観的に「聖書は神の霊感を受けた書物なのかもなぁ」と感じることもあると思います。

そういう場合は、その人にとっては聖書は「神の霊感を受けたもの」になる・・・とも言えるでしょう。

 

 

・・・そうか☆彡

今、私の中で、答えが出ました。

まさに霊感を受けました(笑)

こんなブログを書いてるときにこんなことひらめくなんて、

神はいるかもしれない! なんてね(笑)

 

 

まず、

客観的に、神の霊感を受けたものだと証明する方法はひとつもない。

 

・・・JWの中には「証明する方法は、あります!」と言う人もいるでしょうが

(某問題を彷彿するような表現になりましたがそれほど他意はありません)、

どんなにがんばって証明しても、

その証明が主観の域を出ることはありません。

 

神様が、「俺が聖書に霊感さずけといたからね」ってハッキリと複数人に言わない限りは、証明する方法はない、という意味です。

 

 

神の霊感を受けたものだと感じられるかどうかは、

そしてそれに意味があると、感じられるかどうかは、

聖書読者の主観にゆだねられている、と私は考えます。

 

 

聖書に「神性」を感じられたことが、

信仰につながるのだとすれば

やはり、読者自らが自然と感じるのを待つ(というかその人に任せる)しかないのでしょう。

 

 

JWが、聖書が「神の霊感を受けたもの」だということの客観性を支持するのなら、

むしろ神の神性や聖書の神性(を信じている人たちの気持ち)を貶めているように感じます。

 

 

「聖書はどんな意味で「神の霊感を受けた」ものであると言えますか」

・・・この質問に今の段階でさらに誠実に答えようとするなら、

 

 

聖書を読んでいて神性を感じ、聖書は神の霊感を受けた書物だ、と感じる人たちもいる、

その人たちにとっては、「聖書は神の霊感を受けたもの」である。

けれども、「聖書は神の霊感を受けたものである」ということを客観的には証明はできない。

聖書は神の霊感を受けた書物だと感じるのはひとりひとりの主観である・・・という意味で、聖書は神の霊感を受けたものであると言える・・・のだと思います。

 

 

・・・うん、なんか、「ひらめいた!」とか言ったものの、大したひらめきじゃなかった(笑)

でも・・・あぁ・・・すごく真剣にこの質問と向き合ってしまった・・・

(石川五右衛門の「またつまらぬものを斬ってしまった・・・」と同様のノリではありません、あしからず)

 

 

・・・まさかこんなこと書いてないだろうな、JWの出版物本文に。

もし書いてあったら、ちょっと見直すかも・・・(笑)

 

 

5 さらに、聖書は「神の霊感を受けた」ものです。(テモテ第二3:16)

それはどういう意味でしょうか。

聖書そのものに答えがあります。

つまり、「人が聖霊に導かれつつ、神によって語ったもの」なのです。(ペテロ第二1:21)

例えで考えてみましょう。

あるビジネスマンが秘書に手紙を書かせるとします。手紙にはビジネスマンの考えと指示が含まれています。

ですから、それは実際には秘書の手紙ではなく、書かせた人の手紙です。

同様に、聖書に含まれている音信は、それを書いた人間のものではなく、神の音信です。

そのような意味で、聖書全体は間違いなく「神の言葉」なのです。―テサロニケ第一2:13

 

やはりというかなんというか、

「聖書に書いてあるから」が答えでしたね。

 

 

聖書に誰がどういうふうに書いたからって言ったって、

「神が聖書を書かせた」ってことに客観性を持たせるのは無理なんだってば・・・(脱力)

 

 

せめて、

 

 神は、ビジネスマンのように実在するわけではないので、

 今は「書かせた人(神)の手紙」だと思えないでしょう。

 しかし、聖書を学んでいると「神からの手紙だ」と思える時が来るでしょう。

 

・・・くらいにしておいてくれないかなと思ってしまいます。

 

 

後半は例え話を使って論理的に導いたふうにしていますが、

結局は、

 

「自分は神からのメッセージを代筆した」と信じている人が書いた本を、

「神からのメッセージを代筆したと信じている人」を信じている人が(ああもうややこしい)

「だからこの本は神からのメッセージなんですよ」と言っている・・・

 

・・・ということにすぎなくなってしまいます。

 

 

仮説からさらに仮説を語り、それを事実と信じさせようとするのは無理があります。

 

しかもその仮説が、

絶対に実在しない存在や、すでに存在しない人(神や聖書筆者)に頼らざるを得ないから

なおさら無理がある・・・。

 

 

JW出版物の本文では、

ビジネスマンや秘書を例に出して語っていましたが、

 

ビジネスマン(神)は一般的には「想像上の存在」で

秘書(聖書筆者)もとっくにこの世にいない。

 

しかも、その手紙は秘書が書いたものだと確実に証明出来るわけではないのです。

十何世紀前?の写本だったりしますしね。

特に創世記とかは、切り貼りされたものの可能性もある(史上初のコピペ?!)と言われているし。

 

そんな状態で、

どうやって

「だから秘書の書いた手紙はビジネスマンの手紙だと言える」

なんて言い切れるのか。

 

普通に考えれば、

「その秘書、空想上のボスからの手紙を書いたってこと? 頭大丈夫か?」ってなる。

 

 

客観性や信ぴょう性にこだわればこだわるほど、

聖書や聖書筆者、ひいては神様そのものが、胡散臭い存在になってしまいます。

 

 

いいじゃんね、

神様を感じたときに、神様はいるのかも、

と思えれば、それで。

 

そういうのが、ナチュラルな信仰のような気がします。

 

なんか、JWの信仰は、作られた信仰、人工的な信仰って感じがするんだよなぁ・・・。

いろいろ決まりごとが多いせいでしょうか。

 

 

今回はこのへんで、いったん記事をUPします。

 

今後もできるだけニュートラルな気持ちで、

聖書やJW出版物を読み、

主観と客観を可能な限り明確にして、

ブログを書けますように。

 

 

 

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2018/7/5 更新

 

 

◆『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」5節までの分析記事は以下からどうぞ。

 

【JW出版物の心理学的分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」見出し分析 

↑章タイトル下の見出しを分析しています。

【JW出版物分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」1~3節|興奮を誘う贈り物

↑1~3節まで分析しています。 
【JW出版物分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」4、5節|答えがあるから安心&聖書の神性

↑4、5節を分析しています。 
 


◆JW.orgで本文をご覧になりたい方はこちら↓
『聖書は実際に何を教えていますか』第2章「聖書―神からの書物」(jw.org)