こんにちは、Mです。

 

【JW出版物分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」4、5節|答えがあるから安心&聖書の神性

↑こちらの記事で『聖書の教え』2章の4節と5節を自由に&心理学的に読みました。

 

5節における引用聖句について、本記事にて付記しておきたいと思います。

 

 

まずは、5節本文を引用します。

 

5 さらに、聖書は「神の霊感を受けた」ものです。(テモテ第二3:16
それはどういう意味でしょうか。
聖書そのものに答えがあります。
つまり、「人が聖霊に導かれつつ、神によって語ったもの」なのです。(ペテロ第二1:21
例えで考えてみましょう。
あるビジネスマンが秘書に手紙を書かせるとします。手紙にはビジネスマンの考えと指示が含まれています。
ですから、それは実際には秘書の手紙ではなく、書かせた人の手紙です。
同様に、聖書に含まれている音信は、それを書いた人間のものではなく、神の音信です。
そのような意味で、聖書全体は間違いなく「神の言葉」なのです。―テサロニケ第一2:13

   ※太字はブログ筆者による 

 

みっつ、引用聖句があります。

ひとつずつ見ていきます。

 

 

◆引用聖句その1 テモテ第二3:16

テモテ第二3章16節は、口語訳では次のようになっています。

 

聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

 

新世界訳もだいたい同じような文章でした。

 

 

しかし、ここから

 

5 さらに、聖書は「神の霊感を受けた」ものです。(テモテ第二3:16

 

と言い切ってしまうのは危険な気がします。

 

「聖書は神の霊感を受けたもの」と言い切ってしまうと

だからすべて正しいことが書いてある「聖なるアイテム」だと

思い込みがちです。

 

しかし、

「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である」

と全文を読むと、

「神の霊感を受けた『人』が書いたもの」

なのであり、

だから

「人を導くのに有益なアイテム」・・・という位置づけのように感じられます。

 

 

私からすると、

前者は、まるで神様そのものが聖書を作ったかのような印象を与えますし

後者は、神様の霊感を受けた人が書いたものだから、誰かに教えるには便利なツールなんだよ、というライトな印象です。

 

 

 

【余談】聖書によって襟を正す

ところで、

先ほどテモテ第二3:16でなく、間違えて4:16を書き写してしまいました。

 

消そうかと思ったのですが、

すごく心に来たので余談になりますがお話し致します。

 

まずはテモテ第二4:16をご覧ください。

 

わたしの第一回の弁明の際には、わたしに味方する者はひとりもなく、みなわたしを捨てて行った。どうか、彼らが、そのために責められることがないように。

 

味方しなかった人も捨てていった人も恨むどころか責められないよう祈った筆者(パウロ?)が心に来た・・・というわけではありません。

 

あ、もちろん、責められないよう祈った心の清さはすばらしいと思いました。

 

しかし、ここを読んでまず私が思ったのは、

「このくだり、JWは『味方がひとりもいなくてもみんなに捨てていかれてもエホバを信じ続けましょう』って方へ利用するんだろうなぁ」

ということ。

 

そして、

次の瞬間、

そんなふうに思ってしまった私自身に対して軽蔑心が生まれました。

 

なんか・・・

聖書を「ひとつの読み物」としてわくわくしながら読むんじゃなくて、

JW批判としてゴシップ的に愉しんでしまっている部分があるんじゃないか・・・

と、反省しました。

 

そういうものじゃないだろうと。

自分自身を顧みました。

神の霊感を受けて書かれたものであろうとなかろうと、聖書の筆者さんたちに失礼ですもんね。

 

 

味方されなくても(誰から・・・とは言いません)、

捨てて行かれても(ここでも特定の誰かに・・・というわけでなく)、

 

いろんな意味でニッチ過ぎるこんなブログを読んでくださる皆さんのために、

聖書を出来る限り公平な視点で学ぼうとする自分のために、

清く正しい心(宗教的な意味でというわけではなく)をうしなわずに、

 

自由に&心理学的に聖書を読んでいけたら・・・

そして出来る限り純粋な心でブログを書いていけたら・・・

と思いました。

 

 

私なりに、聖書を活用して清廉さをもって襟を正せた気がします。

 

 

 

 

◆引用聖句その2 ペテロ第二1:21

 

ペテロ第二1章21節の口語訳を読んでみました。

 

なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が精霊に感じ、神によって語ったものだからである。

 

 

ん?

 

違和感があります。

 

JWの『聖書の教え』では

 

5 さらに、聖書は「神の霊感を受けた」ものです。(テモテ第二3:16
それはどういう意味でしょうか。
聖書そのものに答えがあります。
つまり、「人が聖霊に導かれつつ、神によって語ったもの」なのです。(ペテロ第二1:21

 

と、なっていました。

 

聖書は(中略)「人が精霊に導かれつつ、神によって語ったもの」

とあります。

 

 

もう一度

ペテロ第二1章21節の口語訳を読んでみますと、

 

なぜなら、預言は決して人間の意志から出たものではなく、人々が精霊に感じ、神によって語ったものだからである。

 

預言は(中略)人々が精霊に感じ、神によって語ったもの」

となっています。

 

 

テモテ第二3章16節とペテロ第二1章21節を一緒に読むとわかりますが、

 

「預言」は、人々が精霊に感じ、神によって語ったもの」だと聖書には書いてあります。

 

が、

「聖書」は、「人々が精霊に感じ、神によって語ったもの」だ

とは書かれていません。

 

 

預言=聖書

とは、はしょりすぎではないでしょうか。

 

それとも、聖書はすべて預言なのでしょうか。

 

 

今のところ、私の考えとしてはですが・・・

聖書とは、イエス・キリストの言動なども書いてあることから、預言だけではなく歴史やルポ、手紙、エッセイの部分も多くあると思います。

なので、聖書=預言書 とは言えないと思います。

 

 

念のため、新世界訳を見てみましょう。

 

預言はどんな時にも人間の意志によってもたらされたものではなく、人が精霊に導かれつつ、神によって語ったものだからです。(ペテロ第二1章21節)

 

やはり「預言」となっていますね。

 

 

ですので、この2つの聖句を「つまり」でつなげるのは強引であり恣意的過ぎると私は考えます。

 

5 さらに、聖書は「神の霊感を受けた」ものです。(テモテ第二3:16
それはどういう意味でしょうか。
聖書そのものに答えがあります。
つまり、「人が聖霊に導かれつつ、神によって語ったもの」なのです。(ペテロ第二1:21

 

上記の「人が精霊に導かれつつ、神によって語ったもの」は、

「聖書」ではなく「預言」です。

 

大差ないじゃんと感じられる方もいらっしゃると思いますが、

個人的には結構大きな差異があると感じます。

 

気を付けて読んでいきたいと思います。

 

 

 

◆引用聖句その3 テサロニケ第一2:13

 

では、ラスト、テサロニケ第一2章13節です。口語訳は以下の通りです。

 

これらのことを考えて、わたしたちがまた絶えず神に感謝しているのは、あなたがたがわたしたちの説いた神の言(ことば)を聞いた時に、それを人間の言葉としてではなく、神の言として--事実そのとおりであるが--受け入れてくれたことである。そして、この神の言は、信じるあなたがたのうちに働いているのである。

 

・・・この聖句からいったいどうすれば、

 

聖書全体は間違いなく「神の言葉」なのです。―テサロニケ第一2:13

 

このような解釈になるのでしょうか・・・。

 

 

ここ、ただ単に「神の言葉」というフレーズで「聖書は神の言葉」だと強調したかっただけなのではないかと思ってしまいます。

 

「神の言葉」というフレーズが出てくる箇所を聖書から必死に探して、

あった!・・・と喜びパソコンに向かうJW出版物制作陣の様子が目に浮かぶようです。

 

 

この聖句、フツーに感想ですもんね。パウロの。

民衆に対して、

 

「ボクが話したことを、ボクの言葉としてじゃなくって神の言葉としてとらえてくれてありがとう!」

 

っていう。

 

 

テサロニケ一章を最初からずっと読んでいっても、

「聖書」という文字は出てきませんでした。

それなのに、

 

聖書全体は間違いなく「神の言葉」なのです。―テサロニケ第一2:13

 

大勢の人が読む出版物にこんなふうに書いてしまったら、

パウロは当惑するでしょう。

 

そして、

「クリスチャンを名乗っているのに、

ボクの言葉を、神の言葉としてとらえてくれてないんだネ・・・」

としょんぼりしてしまうのではないでしょうか。

 

 

パウロ、気の毒。

 

 

 

・・・ちょっと、今、パウロに感情移入しちゃってます。

 

テサロニケ人への第一の手紙を最初から読んでみたら、この人結構いい人だよ。うん。

 

本気で人を「神によって」救おうとしているし、

自分の言葉を神の言葉と受け止めてくれた人に感謝してるし、

自分の話を聞いてくれる人たちを安心させようとしている姿は

「ああーマジなんだな(いろんな意味で)」と思います。

非常に興味深いパーソナリティだなぁと思います。

 

聖人なのかと思いきや、「どこそこではずかしめられ・・・」的な愚痴めいた話もしてて人間くさいし。

 

こういうところがウケて、信者を増やしていったんだろうなーと納得いきました。

 

 

パウロはこんなにマジでやってんのに、

JWのトップは、それでいいのか!

・・・怒り新党、パウロと組んで小一時間語り合いたいです(笑)

 

 

いいね、パウロ。

聖書的とか信仰的な意味じゃなくて、

人間的に好きかもです。

善い人だったんだろうなぁ。

善人というより、人間らしい人という意味で。

 

 

 

 

次は『聖書の教え』第2章6節からの分析記事に取り掛かります。

 

ではまた!

 

 

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2018/2/14 更新

 

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◆『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」5節までの分析記事は以下からどうぞ。

 

【JW出版物の心理学的分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」見出し分析 

↑章タイトル下の見出しを分析しています。

【JW出版物分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」1~3節|興奮を誘う贈り物

↑1~3節まで分析しています。 
【JW出版物分析】『聖書の教え』第2章「聖書―神からの書物」4、5節|答えがあるから安心&聖書の神性

↑4、5節を分析しています。 

 


◆JW.orgで本文をご覧になりたい方はこちら↓
『聖書は実際に何を教えていますか』第2章「聖書―神からの書物」(jw.org)