りょうきです。おはようございます。

 

昨日、この記事フライングしちゃった(笑)。

大きな文章を書いた時は、幾つかに分割して投稿するんですけど。

昨日のと今日ので分割して、今日のも昨日投稿しちゃいました(笑)。

 

閑話休題。投稿し直し。今日のタイトル。つくもがみ。

 

「つくもがみ」という言葉、知ってますか。

「あるモノをしばらく使っていると、そこに魂が宿る」というものです。

1本のペンを長く使った結果、「そのペンにはつくもがみが宿っている」とかね。

 

つくもがみは、昨日の話でいうところの、タルパの一種です。

すごく小さいけれど、立派な精霊です。

 

例えば、1万人で毎日拝み倒すとでかい神様ができてしまいますが。

 

一人でちょっとずつ自分の命を何かに注ぎ込むと、それはそれで小さな神様になります。

だから、例えば一本のペンを長く使っていると、少しずつ持ち主の気というか命が、そのペンに蓄積されていきます。

それが一定の量に達すると、小さいながらも命と呼んで差し支えないレベルになって、それをつくもがみと呼ぶ、と。

 

昔はね、つくもがみは本当にいたと思います。

モノが少ない時代なので、お鍋一つでも穴があくまで使ったはずです。

つまり一つのモノを毎日毎日、長く長く使うので、それだけ蓄積されていく。

 

対してモノが溢れる現代は、つくもがみになるまでに次々と対象を買い換えるので、おそらくつくもがみは昔に比べてつきにくい。

 

蛇足ですが、人形やぬいぐるみは、魂を持ちやすいと言いますが。

人の形をしているから、というのは、直接的な理由ではありません。

持ち主が「これは人である」と認識して扱うから、どうしても命の蓄積が捗るからです。

だから鍋でも靴でも、人格をもたせて扱えば、同様につくもがみになりやすい。

 

思い入れのあるモノは、捨て難いものです。

それが命を持っていることを、無意識に感じるからでしょうね。

でも人間の生活の中で、モノを買い替えないで一生過ごすのは現実的ではありません。

 

「地獄先生ぬ〜べ〜」に、こういう場面が出てきました↓

モノの処分はどうしても避けられないから、これが一番いい考え方でしょうね。

 

モノは少しでも使うと、いくらかはそこに命が蓄積されます。

ただ、放置すると勝手に雲散霧消するみたいです。車のバッテリーみたいなもんです。

だから、ちょっと思い入れがあって処分しにくい場合は、しばらく放置して放電してしまうといいです。

 

あまりにも電圧が高い場合、一番いいのはお寺や神社での供養です。

一旦入った命を、丁寧に抜いてくれます。お性根抜きといいます。

そのうえで、お性根つまり命は上に返し、モノはお焚き上げしてくれる。

 

そこまで必要を感じないけれど、かといって放置で放電も忍びない場合は。

30講の通りでいいです。これは家庭でできる、実は強力なお性根抜きです。

 

本来は悪念抜きに使う技なんですが、悪念でなくともお性根抜きにも使えます。

ヤフオクとかで落札したものを、使う前に一旦ちゃんとお性根抜きするのにもいい。

 

特にお世話になったモノの場合は、塩に乗せて般若心経を一巻あげるといいです。

使った後のお塩は、人の踏まないところに撒いて土に還しましょう。

 

閑話休題。つくもがみ。

 

こういうことなんでね、例えばそのシャーペンとかにも、ひょっとしたらすごく小さいけれど何か宿ってるかもしれないんですよ。

 

つまりあなたのこれまでを全部知っている。大きなノッポの古時計じゃないけどさ。

嬉しい時も、悲しい時も、みな知ってるシャーペンなんじゃないですか。

 

高度な意識とかは、ないと思います。

でも、他のシャーペンではない、あなたの命がちょっと入ったシャーペン。

 

モノを大切にする人というのは、自身を大切にする人です。

その発想の根拠は、実はこういう神道的な考え方だったりするのかもしれません。

 

そうすると、身の回りのものに対しても、ちょっと見方が変わるかもしれませんね。

 

特殊講義、来週も続けます。

 

ところで、今気づいたんですけど。

ぬ〜べ〜の着てるものも、海苔おにぎりですね。手袋付きの。

同じ海苔おにぎりですが、私はこんなにカッコよくありません。

私の場合はもうちょっと、なんというか、制服っぽくなります(笑)。

 

良き週末をどうぞ(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

急にどうした、と思わせるタイトルだけど(笑)。

やばい話ではありません。理屈を知るために、こういう例も必要かなと。

 

我々の肉体がスポンジで、魂が水。神様は、要するにでっかい水。

この理屈から行けば、実は神を作ることもできます。本当に。

 

仮に、そうですね、カタツムリ大神(かたつむりのおおかみ)様とします。

カタツムリの見た目で、特技は千里眼での透視の、ややデリケートで内気な神様です。

今のところこういう神様は存在しませんが、かわいいから作ってみようと思います。

 

作り方は単純です。人間を一万人ほど集めて、全員で毎日10時間くらい拝むといい。

ぐるぐる模様の石とか置いて、それに向かってみんなで必死に拝み倒します。

そうすると、おそらく半年ほどでカタツムリ大神様ができると思います。

 

こうやって拝み倒すとき、何が起こっているのか。

 

人がお祈りをするとき、それはつまり自分のエネルギーを誰かに差し上げるということです。

11講にも書きましたが、自分のエネルギーを、行き先を決めて飛ばすわけです。

 

これを今週の水とスポンジで言えば、水である自分から、その水をスプーン一杯くらい誰かに差し上げるということでもあります。

つまり自分の命を、ちょっとだけ差し上げているわけですね。極端な言い方だけど。

だから、お祈りは尊い。自分以外のために、少しだけ自分の命を使うからです。

 

カタツムリ大神に拝み倒すのも、理屈は同じことです。それを1万人でやります。

毎日一万人が、それぞれカレースプーン一杯くらいの水を、自分から差し出す。

 

その結果、水滴が集合して、そのうち巨大な水の塊になります。神ができました。

ちょっとずつ命を出し合って、大きな命を作ったわけです。カタツムリだけど。

 

水は、ある程度の大きさを持つと、知性や意識を持つようになるみたいです。

ミジンコにも意識はあるかもしれないけれど、人間の意識の方が、やはり濃い。

 

だから、カタツムリ大神様は、きっと意識や意思をお持ちです。

困った時に呼べば、ゆっくりヌメヌメと助けに来てくれるかもしれません。

こういう神を、タルパといいます。日本語では、人工精霊です。

 

陰陽師は、式神(しきがみ)を引き連れています。上から与えられることもありますが、自作する場合も多い。つまり自分の命令通りに動く秘書のようなものですが、式神もまた、タルパの一つです。

 

有名な陰陽師の安倍晴明は、たくさんの式神を使役したそうです。

安倍晴明クラスになると、複数人で毎日拝むくらいのエネルギーを一人で出せたはずなので、ちょっとエネルギーを余分に出してそれを粘土細工のように形取り、式神を作ったのでしょう。

 

ちなみに、お祈りとかでエネルギーつまり命を差し出して、消耗した分はどうなるのか。

違うところから命をもらい、それを自分の命に混ぜて補填します。つまり食事と休養です。

食事は命を取り入れる行為であり、取り入れた命を自分のと混ぜる行為が、休養です。

だから食事の際は「いただきます」なんですね。その食材の命を、今からいただく。

 

 

ところが、食事については、頂く命がもう一つあります。

 

 

作ってくれた人の、命です。お母様とか、お父様とか。

 

 

お祈りもそうですが、命は一部だけ誰かに差し上げることができます。

その差し上げる先と、差し上げ方は、千差万別です。

合掌で念じなくとも、子供のために食事を作る労力そのものが、作る人の命の一部です。

 

つまり食材の命とともに、作ってくれた人の命の一部も、頂いています。

それを全部まとめて、「いただきます」です。実は大変深く、尊い言葉です。

 

そうすると、世の中は「いただきます」で溢れてますね。

食事でなくとも、誰かが時間と労力をかけてくれたものは、全て誰かの命の一部です。

つまりあなたのために、その人はちょっとだけ命を使ってくれた。

 

そう考えると、あらゆるものがありがたいでしょう。尊いでしょう。

だから仏教や神道、修験などの日本の信仰では、あらゆるものに感謝するんです。

人の関わったものすべてが、誰かがその命を少し使ってくれた結果だからです。

 

そして、地球上の命は、このように循環している。

野菜の命はあなたの命となり、あなたの命の一部を誰かに差し出し、その誰かの命はやがて土に還って野菜となり。永久に形を変えて続きます。

神が作った自然の命を頂き、頂いた分で誰かに役立ち、いずれは神に返す。

この理屈を説明したのが仏教の般若心経であり、命だけにフォーカスするのが神道であり、山での生活を通してこれらを皮膚感覚で納得するのが修験道です。

 

カタツムリ大神はさておき、目の前のテキストが、今日の晩ごはんが、今日までの誰かの支えが、関わった人の命の一部だと思うと、早速ちょっと違って見えたりしませんか。

 

遊んで書いてるうちに、なんか深い話になってしまった(笑)。

 

良き一日をどうぞ(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

思いつきの、ゆるい特殊講義。その3回目。

 

昨日までの話で、神様が何かにしみ込むとかしみ出すとか。

そういえば、いわゆる神社の神様はどこにおられるのか。

 

理屈は、山にしみ込む巨大な神様と同じです。

どこにいるかわからないと、どっちを向いてお祈りすればいいかわからない。

何かにしみ込んでもらえると、人間としては祭祀がはかどる。

 

ということで、神社の本殿の奥の方には「ご神体」として何かがあります。

 

何が置かれているかは、神社によりけりです。

鏡とか、剣とか。金属でできたギザギザとかも。あれ名前何だっけ(笑)。

 

ご神体には、神社の紙のひらひらがついてます。紙垂(しで)といいます。

紙垂、しめ縄、あるいは両方で、「ここに神様が来るからね」とか「ここは神様が通るからね」を示します。

 

そういえば。

動くご神体もありますね。でっかくて、強いご神体。

 

お相撲さんです。みんな、前に紙垂をつけているでしょう。

 

相撲は、実は神事です。行司さんは、神主みたいな格好だしね。

力士は、その肉体に神を宿すことができます。だからでかくて頑丈でないといけない。

 

本来の相撲は、力士同士の戦いではありません。力士は肉体を貸すだけです。

それぞれの肉体にしみ込んだ、神様同士の戦いです。それを我々は観ている。

 

神様は、そんなに戦闘的なのかと思うかもしれませんが。

例えばダンス教室に通っていて、生徒の発表の後に先生同士でクオリティの高いダンスバトルとかしてくれたら、盛り上がるうえに、生徒のモチベーションも上がるでしょう。

おそらくそういう感覚に近い、教育的な余興です。先生同士が、本当に潰しあっているわけではありません。

 

ところで、第65講の事情、覚えてますか。

 

神様には、苦手とされるものが幾つかある。

特に血と、動物と、死の臭いです。他にも、よろしくない気の類はダメです。

だから、土俵は毎回必ず塩で清めます。今から神様が上がるステージだからです。

 

あと、あまり具体的に書けませんが、土俵の上が女人禁制なのも、こういう事情です。

生物学上、女性は一ヶ月の中で、どうしても血を伴う日が定期的にあるからです。

女性が男性に比べてどうとか、そういう事情ではありません。

 

最近土俵に女性が上がったとか上がらなかったとか、ちょっと問題になりましたね。

 

神道の目線で見解を述べれば、ルールに抵触しているといえばしているように見えます。

しかし根本はこういう事情なので、この事情を踏まえたならば、土俵に女性問題はちょっと見方が変わるのかなとも思います。

 

そうすると、ちょっと離れたところにも別な問題があるのかなと。

去年は角界がだいぶ騒動でしたが、それそのものも、神道的にはちょっとね。

 

力士は、その存在がご神体ですので。

つまり神が降りてしかるべき肉体であるべし、となるはずです。

 

ご神体の山とか岩とかご神木が、常に綺麗でないといけないのと同じように。

力士さんも、ご神体としての存在は、本来は霊山とかと同じです。

 

もちろん力士さんも人間ですから、観客側からの求めすぎは違うでしょうけど。

でもね、カラオケでスマホをいじった騒動からの、誰かがシバき回されて流血というオチの後で、その肉体に神様が意気揚々としみ込んでくれるかというと、うーん。

 

私は相撲はあまり観ませんが、これらの断片だけで判断するに、必ずしも毎回神様が力士さんにしみ込んでくれているとは、ちょっと(笑)。

 

神道面の事情を知ると、お相撲に限らず神事についても見方が変わったりします。

 

さらに蛇足ですが、山とか岩とか木とか、ごっついものでなければ神様はしみ込めません。

ません、というか、ヤワいものにしみ込んだら、そのものが耐えられないで壊れます。

 

誰かの魂を自分の肉体にしみ込ませる人を、イタコといいます。

自分の肉体、特にその口を、その魂に一時的に貸すんですね。

本来は、自分以外の人間一人の魂を自分にしみ込ませるだけで、体は限界に近い。

 

時々「私は自分の肉体に神を降ろせる」と言う人もいるけれど。

その人が、身長2mで体重500kgくらいの岩みたいな人ならば、本当かもね(笑)。

 

明日は明日のゆるい思いつき投稿を。

 

良き1日をどうぞ(^^)

りょうきです。おはようございます。

 

修験道という言葉、聞いたことありますか。しゅげんどう。

 

平たく言うと:「仏教(真言宗とかの密教)+神道+山の神様」というものです。

中身は事実上8割くらいが仏教ですが、神道の祝詞も唱えるし、榊とかも使います。

197講あたりの表現でいくと、カツカレーみたいな状態ですかね。山の神様がトンカツです。

 

根本的な目的としては、結局仏教です。悟りを開くこと。

お寺のお堂で座禅を組んで悟りを達成しようとする宗派もあれば、山の中を駆け回って悟りを達成しようとする宗派もあります。その山の中タイプを、修験道といいます。

 

修験道の行者は、山伏と呼ばれます。やまぶし。

独特な格好で、珍しいアイテムをたくさん持っています。

 

山伏たちが山で修行する現実的な目的は、誤解を恐れずに言えば、超人的な能力の獲得です。

 

神様の体の上を這いまわって、何度も死にかけるような修行に明けくれます。

自然の気、神気の中に身を置き、人間の潜在能力を開くような修行をするわけですね。

 

その結果、ある程度超人的・超能力的な、つまり神通力みたいなものが身についたりします。

で、その神通力でもって、例えば時に誰かを助けたりもすると。

 

もちろん、その超能力的なものが、第一義的な目的ではありません。

結局は仏教濃度が高いので、仏様の教えに則り、己の心を清浄にし、徳の高い心でもって完全な悟りを開くことが、最大の目的です。

 

ただ、どうしてもそういう過酷な修行のせいか、霊力みたいなものは極端に強い。

だから大物のお祓いとか、規模の大きな祈祷とか、極端な霊力が必要な場面では、山伏が活躍してきました。

 

この修験道の開祖は、役小角(えんのおづぬ)といいます。

https://ja.wikipedia.org/wiki/役小角

コンバット仙人みたいな方で、すごく霊的戦闘力の高い行者です。

 

この世を去られて以降は神となり、現在は神変大菩薩と呼ばれています。

須磨寺の護摩祈祷にも、登場します↓

https://www.youtube.com/watch?v=2VMi_8Q0E6g

 

…の、1:57あたりで右下からの下に映るシュッとしたお爺様みたいな方が、役小角です。

 

昔は仏教も神道もまぜまぜだったので、修験の行者さんはいっぱいいたんでしょうけど。

明治時代になって、お寺と神社をはっきり分けることになった時、山伏さん達はだいたいお寺側に落ち着いたようです。それも密教系、だいたい真言宗や天台宗の僧侶として落ち着きました。修験本宗という宗派もありますね。

千日回峰行という有名な行がありますが、あれも元は修験道だと思います。

 

いきなり眉唾になりますが、前世で修験の行者だったりした場合、今世でも非常に霊力が強かったりします。

というか、今世で極端に霊力が強い人は、前世のどこかで修験に関係していると言ってもいいくらい。

 

般若心経、観音経、六根清浄の大祓が、修験道の主なツールです。あと九字切り。

天狗のような格好で、法螺貝を吹きます。もし修験にゆかりがあるなら、これらにちょっとは触れたことがあるかもしれませんね。

 

さらに眉唾ですけど。

もし今いろいろ見えて困っているなら。

 

前世でたくさん修行を積んだから、今世でもそういうのが残るケースは非常に多い。

つまり、その力は本当は自分でコントロールできるはずなんですよ。

そのやり方を忘れてしまっているだけでね。

 

もしも今日の投稿で、何かピンと来たなら。

どこかのお山に、ひょっとしてゆかりがないですか。

 

前世でたくさん修行を積んだ人は、今世では積まなくていい場合も多い。

それだけ前世で神仏に近いところまで行けたからです。

 

だったら、その心得を思い出す努力だけで、十分にコントロールできるはずです。

まずは、六根清浄の大祓あたりから読んでみましょう。あと観音経。

特に六根清浄は、修験といえば六根清浄なものです。

 

わかるようなわからないようなでいいです。読むだけでいい。

あとは、ゆかりのあるお寺や神社が必ずあるはずなので、探してみましょう。

行ったことのある神社の由緒をググるとか、そういうのでいい。

あとは、上のひとに任せてですね。そのお計い通りに進めばいいんです。

 

…だいぶマニアックになってしまった。

いいんです。きっと誰かに必要だったのさ(笑)。

 

良き一日をどうぞ(^^)

 

りょうきです。おはようございます。

 

そろそろ志望校選びも佳境で。受験生は、きっとこのブログを読んでない。

ということで、しばらく特殊講義を。前にもちょっとやったけど。

ストレートに用事がある人でなくとも、娯楽と思って読んでくださいな。

 

オムニバス的に書きましょうかね。

今日は、山岳信仰の話を書こうと思います。

山岳信仰とは、文字通り山を神様と見立てる発想です。

 

日本では、昔から山を神聖視してきました。

曰く高野山、比叡山、御嶽山に石鎚山など。また、行者の修行の場も、山です。

 

山そのものでなくとも、大きな岩とかにしめ縄が張ってあったりします。

ご神木もそう。でかい木に、やはりしめ縄を張って、我々はその木を神聖視する。

 

なぜこんなにも山とか森っぽいものを、我々はありがたがるのか。

その理由は、我々自身の存在にあります。

 

ちょっと話がずれますが。

 

人間は、肉体と魂で成り立っています。

魂の存在はまだ誰も確認できていないけど、たぶんあるというのが大多数の意見です。

 

スポンジと水で例えると、こんな感じ↓

 

スポンジが肉体で、水が魂です。

スポンジに水がしみ込んでいる状態を、「生きている」といいます。今の我々です。

当然ながら、人はいずれスポンジから水だけすぽっと抜けます。星に帰るときです。

残された空のスポンジは、この世で再び土に還ります。

 

ということは、あの世はつまり「水だけ」が、無重力空間での水の玉のようにポワポワ浮かびながら、いっぱい存在しているんでしょうかね。

 

蛇足ですが、その水の玉の状態でまだこの世におられるのがおばけ氏です。

おばけ氏に限らず、人間は自分のものでさえ「水だけ」の状態を見ることができず、それを撮影することもできない。

 

理由は簡単です。それを見る肉眼、それを撮影するカメラが、この世の物質でできているからです。

対して、魂とやらは、あの世の物質でできています。

この世の物質で作られた目やカメラは、この世のものを捉える機能しかないので、あの世の物質でできたものは捉えられません。

 

こういう理由なので、いわゆる心霊写真は99.999%が柳がおばけに見えただけです。

 

ところが、様々な条件が重なって、偶然その場に即席のスポンジのようなものができた場合、そして偶然そこにおばけ氏がいた場合、一瞬その即席スポンジにおばけ氏が宿って、それがカメラに捉えられることはあると思います。

たまたま特定の区画だけに濃い砂ボコリが集まったら、それだけでも即席スポンジになることもあるのでね。だから心霊写真が真である確率は、そういう条件が整う確率と同じであって、要するに限りなくゼロに近いです。

 

閑話休題。水とスポンジ。

 

私たちのタマシイは、水です。

そして神様も、その正体は水です。つまり神様は、結局は巨大なタマシイです。

 

スケールが違いますけどね。私たちの魂をぴったり染み込ませるには、この2m足らずの肉体がちょうどいいんですけど。

ところが、神様レベルの大きさの魂を染み込ませるには、こんなサイズの物質だと全然足りません。だから、山にしみ込んでもらいます。

 

神様もたくさんおられますんでね。小さい神様、大きい神様。

そのサイズに合わせて、ある神様は木にしみ込み、ある神様は岩にしみ込み、ある神様は山にしみ込みます。

しみ込むだけでなく、そこから抜けたり、またしみ込んだりもできる。

神様は神様なので、いろいろ自由自在です。

 

いつ、どういう理由で特定の岩や山にしみ込んでくれるのかは、様々です。

日頃の感謝をお伝えするお祭りの時とかは、こちらからお呼びします。

神職や僧侶が、「神おろし」の儀を執り行いますが、これを通してあの世からお呼びだてします。

 

で、到着されたら、どこかにいてもらうわけですが、残念ながら肉眼では見えないので、特定の木とか岩にしみ込んでいただく。で、我々はその岩という肉体に神様がしみ込んでくれて、今や神様となったその岩に、お酒を備えたりするわけです。

こういう岩や木や山を、「ご神体」とか「磐座(いわくら)」呼びます。

 

こういうことなので、必要な時にちゃんとそこにしみ込んでもらえるように、その岩や木や山は、きれいに保っておかなくてはいけない。

だから、岩や木に張られたしめ縄は、「この岩は時々神様がしみ込んだりするから、汚すなよ」の意味です。

山全体の場合は、しめ縄が張れません。だから、鳥居を立てて結界を張ります。

 

古代エジプトの、ミイラの発想はこれに近いですね。

王の死後、いつかその魂が戻ってきて、その時に宿り先がちゃんと残っているように、王の肉体をできるだけそのまま保存すべしという発想です。

 

あと「もののけ姫」。

ストーリーの最後に、ゼリー状の大きな神様が山からしみ出したりしみ込んだりしますが、もうあの場面だけで、日本の山岳信仰は全て表現されています。

 

例えば私の住まいの近くには大きな岩があり、それはとある神様のご神体となっています。

まさしく今日その岩に神様がしみ込んでおられるかどうかは、不明です。

しみ込んでおられるかもしれないし、今日は空っぽかもしれない。

 

いるのかいないのかわからなくとも、拝むのはいいことです。

神様なので、いない時に拝んだところで、なぜか把握されてると思いますので。

 

こういうことなのでね、山にゴミがたくさん落ちているのは、由々しきことです。

特に霊山に、つまり鳥居のある山にゴミが落ちてるのは、本当に悲しい。

 

それはつまり神様の体に汚れをつけているわけで、ポテトチップスの袋とかをエジプトのミイラの棺に捨てるのと同義です。

このように、山に、特に霊山にゴミを捨てるのはだいぶアレです。

祟りとかではなくとも、今後お呼びしても神様が降りてこなくなるかもしれない。

 

逆に言えば、山をきれいにする行動は、極めて徳の高い行為です。

そのへんはしっかり見てくれてるんじゃないですかね。

 

…流れ流れて、長くなりました(笑)。

 

明日は明日の話。

 

良き1日をどうぞ(^^)