私たちの地域でも、畦道至る所に彼岸花が満開です。
時季はずれの突然変異ももちろんありますが、自然は不思議なもので、どんな異常気象の現在であっても、その時期その時期に咲くべき花、実る米、野菜があります。
彼岸花を見ると思い出す方があります。
「時が来たならば ちゃんと花が咲き
そして黙って 褒められても 褒められんでも すべきことをして 黙って去っていく…」
今は亡き、曹洞宗大本山永平寺第78世貫主宮崎奕保禅師です。
私の実家は真言宗、嫁ぎ先は天台宗のお寺でお世話になってはおりますが、特にこの宗派でなければ絶対にいけない…という経緯もなく、親先祖の昔から、近くにあるお寺の檀家であったのが今現在続いているだけのことです。
お寺のお坊さまであっても、宗派によって作法やご供養のお経、仏事の行事が違うし、人間性もピンキリあります。
通夜葬儀、年忌法要、お盆の棚経等仏事行事は宗派のやり方でお世話になりますが、子孫としての日々のご供養は、経典の最高峰である法華経をもって細々と行じておるところです。
宮崎奕保禅師のことは存じておりませんでしたが、2004年にNHKドキュメンタリースペシャルで放映されていた
『永平寺104歳の禅僧』
をたまたま途中から見て、凄く感銘を受けたことが出会いのきっかけです。
ネットで検索すると、禅師は1901年生まれ(明治34年)、8歳で父親と死別され、その後祖父の元に、9歳でお寺に預けられ、長年の修行生活…
2008年行年108歳の生涯を終えられた仏教僧であられます。
これは余談ですが、
関西弁播州弁が気持ち良く、なんと生誕地は私たちの隣接市の田舎町でした。
親に恵まれなくとも、徳があれば善き人との出会いがあります。
人生の師匠との出会い…
又日々の修行により、学歴がなくとも、人として立派に生きていかれる方があります。
仏の教えの実践の功徳は、仏に近い、人としての当たり前の心を作ることでもあります。
以下は感銘を受けた名言です。
道元禅師はおっしゃっておるんや
「坐禅をすれば善き人となる」
その善き人になかなかなれん
人間は名誉とか地位とか見栄とか我慢(わがまま)とかそんなもんでいっぱいだ
欲は克服するすべを覚えんといかん
それが坐禅だ
お釈迦様の教えというものは
天があり 地があって その恵みを受けて
人間が その正しい真(まこと)を実行していくという大法則のもとに 生かされておるということでございます
真は名前を変えたならば 真理ということになる
この忙しいときに 手を組み 足を組んで ただむなしく坐っておるように思うけど
そうではなくて 大自然を真に表したものが 3分 5分もの坐禅
どうぞみなさん 朝の3分でも 5分でもよろしいから まず第一に 正しい真の姿をもって 先祖さんにあいさつをして
元旦のはじめに お願いしておきます
誠におめでとうございます どうぞよろしゅう
年をとったらしわが増えて ほくろができて 腰がかがむ
これは真理の姿です
そういう負け惜しみを言っておるより しょうがない
もう たいがい百歳超えたら みな寝とる
もう寝込んだら最後 だめやから 昼は寝んことにしとる
何も考えない 妄想せんことや
いわゆる前後裁断や
その時その時 一息一息しかないんだ
何か考えたら もうそれは余分や
人間は名誉とか 地位とか 見栄とか 我慢(わがまま)とか そんなもんでいっぱいだ
欲は 克服するすべを覚えんといかん
それが坐禅だ
息と一つになる 欲の起こるすきがない
坐禅ということは まっすぐということや
まっすぐというのは 背骨をまっすぐ 首筋をまっすぐ
右にも傾かない 左にも傾かない
まっすぐということは 正直ということや
心身は一如(一つ)やから 体をまっすぐにしたら 心もまっすぐになっとる
人間は わがままが自由やと思っておる
ちゃんと型にはまったものが 平生底(日常)でなければならない
道元禅師様の坐禅ということは すべてがみな禅だ
禅というたら 何か殊更にあるように思っておる
そうではなくて そのものと一つになっていくことが禅だから
歩いたら歩いた禅 しゃべったらしゃべったで しゃべることが禅だ
スリッパを脱ぐのも 坐禅の姿や
スリッパをそろえるのが 当たり前のこっちゃ
例えば スリッパがいがんでおったら ほうっておけない人だ
スリッパがいがんでおるということは 自分がいがんでおる人だ
自分がいがんでおるから いがんだやつが直せないんだよ
だから 物を置いても ちぐはぐに置くのと まっすぐに置くのと すべて心が表れておるんだから
心がまっすぐであったら すべての物をまっすぐにする必要がある
修行をしておるんじゃなくて 当たり前のことをやっておるんや
それよりやることないんだ
11歳から坐禅をしておる
嫌々ながらやっておった はじめは
そんなことするより ほかにすることがあると思っておった
坐禅するより ほかにすることがいくらでもある と思っておったんや
老僧の 温かい死がいを見たときに
「偉い人やったな」と思った
80にもなっておって 雲水と同じものを食べて 雲水と同じ一日を…
わたくしのない生活をする
やっぱり日常の生活が手本やな
老僧の口だけでない 実行で示した それが元や
できたら 老僧のような坊さんになりたい
だから 人間はまねをせないかん
学ぶということは まねをするというところから出ておる
1日まねをしたら 1日のまねや
それで済んでしまったら 2日まねして それでまねせなんだら それは2日のまね
ところが 一生まねしておったら まねがほんまもんや
このごろの情勢を 各報道機関によって見聞しますと
大衆に 範を示さなければならない位置におる 位置をしめておる地位にあるものが 範を犯したり 非常に醜い醜聞が ちまたに満ちておりますが
教えというものは 何がためにあると言えば 教えは実行するためにある
そのために高祖様は 黙って実行するところの只管打坐(坐禅)をお勧めになった
どうぞ口で布教するだけでなくて 我が宗門は 黙って実行するということに 中心を置いて下さい
お願いしておきます どうぞよろしゅう…
続く…