仙台市慈眼寺の塩沼亮潤住職は小学5年の時に、比叡山の酒井阿闍梨をテレビで見た瞬間、「この行をやりたい!」と純粋に思われたことがきっかけとなり、19歳出家、奈良県吉野山の金峯山寺に入り、23歳死出装束を身にまとい、足掛け九年に及ぶ大峯千日回峰行に出発されました。
平成11年金峯山寺1300年の歴史で2人目となる、大峯千日回峰行満行を果たされました。
その行とは…
以下住職の言葉を転載します。
1年のうち4ヶ月、1日往復48㌔、高低差2千㍍ぐらいを毎日ひたすら歩き続ける行で、満行まで9年間かかります。
千日のうちたった一日でも休んだりしたら、その時点で行は失敗。
所持している短刀で腹を切るか、腰に結わえてある死出紐で首を吊るか、二つに一つの厳しい掟がありました。
まさに命を懸けた行でありました。
だいたい最初の一ヵ月で爪がボロボロになってきて、三ヶ月目くらいに血尿が出てきます。
最後の一ヵ月は呼吸とリズムだけで、この体を山に持っていって、下ろしてくるという感じなんです。
ある時、40度の高熱が出てお腹をこわしてしまい、どんな薬を飲んでもすぐに下してしまって、10日間で11㌔も痩せてしまったんです。それでも何も食べず48㌔、16時間歩き続けました。
それでも帰ってきたらお師匠さんに何食わぬ顔で「今日も無事行ってまいりました」とご報告します。
お師匠さんから「体調どうや」と聞かれても「ボチボチです」と。
そこで体調が悪いです、と言うと心配させるので、本当はそこでのたうち回りたいぐらい苦しいんですけど、ポーカーフェイスで気丈に振る舞う。
それで着替えをする部屋に帰ってきた時に、もう全身震えが止まらなくて涙が出てきてね。、自分で自分の体に謝っているんです。。
「俺がこんな行するなんて言うから、体に負担かけてごめんね、ごめんね」って。
這うようにして次の日の用意を済ませて休みました。次の日は一時間も寝坊です。
高熱で体が動かないという極限の状態でも、いつもと同じことを同じようにしなければなりません。
その日はもう何も持たないで行きましたね。
杖も提灯ももたない。
それでつまずいて、体が地面に叩きつけられた時に、ふうっと体が宙に浮くような感じになって、まるで真綿に包まれたような感覚になったんです。
あっもうこれ以上前に行けないかもしれないなって冷静な判断をしている自分がいて、腹を切ることに対する怖さもない。
でもその時に、走馬灯のように小さい頃からの記憶が甦ってきて、ちょっと待てよと。
いままで母子家庭の中、母ちゃんやばあちゃん、近所の人も皆、応援してくれたのに、これしきのことで倒れるわけにいかない
って体の芯から溢れんばかりの猛烈な情熱が出てきたんです。
前の日は何も食べていない。その時点で二時間遅れている。そんな中、ウォーと叫びながら突っ走っているんですよ。
走って、走って、走っているんですね。
それで24㌔先、標高1,719㍍に到着して時計を見ると、いつもと同じ八時半。
その時どういう状況だったか。
八月で摂氏22、3度の気温で、足の先から指の先まで、ボォーって湯気が出ていたんですよ。
この時にバーンと限界を押し上げたのか、そこから体調がよくなっていきました。
しかし、もう最後の極限になると馬力なんかないですよね。
これはもう危ないといわれるようなプレッシャーが掛かれば掛かるほど、逆に集中力って増してきませんか。
私たちはまさに極限の世界を体験させていただく機会に恵まれたわけですが、その中で何を得られたかというと、まず感謝ですね。感謝の気持ちが降りてきます。
皆さんから見ればこんなに辛くて苦しいことをしているのに、なぜ感謝の気持ちが湧いてくるのかと思われるかもしれませんが、
そこにやらされているとか、やらなければならないというような考え方は一切ないんです。
誰に頼まれているわけでもない。行をさせてくださいと自分がお願いをして行をさせていただいている。このこと自体が感謝。自分が行じるなんてとんでもないという心境になってきます。
行の最中は一切の妥協も許さないですから、目も吊り上がってもの凄い形相なんですけど、
その一方で、心の中には歌を口ずさみながら、野山を散歩している幼な子のような自分もいたりするんです。
何にも負けない厳しさと子供のような純粋さが一体になっていなければ、山の中で大切な何かを見出すことができないでしょう。
ある時、「謙虚、素直」「謙虚、素直」って自然と口にしながら歩いていたんです。
謙虚であり、素直であるからこそ、すべてを聞き入れることができるし、自分自身成長できる。
やはり人間は最後の一息まで、足を止めてはいけないと思うんですね。
生涯向上心を持ちつづけることが大事だと思います。
私は平成十二年に行を終えて山を降りましたけど、行が終わった次の日からいまも変わらず、
自分の書斎には行者の衣装杖、提灯など、山に行く三十八種類の道具をすべて用意して、三十分以内にはいつでも山に行ける臨戦態勢でいるんです。
昔といまとの情熱は全く変わってないか、いまのほうが上かもしれません。
笑い話ですけど、私は常に一番でありたいと思っているんです。
ただ、自分が一番だと思ったことは人生の中で一度もありません。
どこかに必ず凄い人がいるって。
実際そういう人と出会ってしまった時に、ガツーンと頭を打つんです。
そして、すぐにその人を尊敬します。
しかし、真似はしない。
自分なりにアレンジして絶対にその人を乗り越えてみせると。
実際勝ち負けではないんですが、ある意味これくらいの気持ちがないと成長しません。
だからこそ、日々命懸け、日々情熱を抱いて、自分の器を磨き続けていけるのでしょうね。
転載終わり…
日本人で、この人凄いな!替えが利かない人やな!と思えるいくらかの人と、一期一会…繋がることができて、その生き方や実践力、人間性、思いの深さに衝撃を受けてしまいます。
命を懸けるということは、日頃からその覚悟や構えが違いますね。
世間に染まらず、汚れで腐臭のする泥水の中にあっても、美しい花を咲かせる、凛と気高い蓮華のような生き方をされている方がおられるからこそ、絶望せず生きていけます…
このブログの中でも、そういう気骨があり、世の中の悪と闘っておられる方に出会うことができました…。
素直に嬉しく思います。