仙台市の慈限寺住職 塩沼亮潤氏と、登山家 栗城史多氏の対談を月刊致知で読みました。
以前にお二人それぞれのことを記事にしたことがありましたが、この“出逢いの縁”にも凄く感慨深いもの感じます。
お二人の言葉からは、誰も経験したことのない極限を知った者しか発っせられない言霊があり、人間その気になれば、誰にもできない神がかり的なことができる役目を持った人がある…ということをまざまざと思い知らされますね。
修験道の中で最も過酷な行の一つとされる大峯千日回峰行に挑み、九年の歳月を経て見事満行を果たした塩沼氏。
一方、二十五歳の時から死の地帯といわれる八千㍍峰に、酸素ボンベを持たず一人挑み続ける栗城氏。
ともに自ら茨の道を行き、人間の限界を超えてきたお二人の歩みは、まさに揮身満力そのものです。
極限の世界を通して見えてきた、人生の真理とは…?
行者の世界に「行者帰りの精神」という教えがあります。
昔、修験道を開いた役(エン)の行者が行の途中で、このまま進んだら自分の命が危ないと判断して、引き返してきたという難所があり、
やはり生きて行を終え、自分自身と向き合い、人生を深めることが一番の目的で、絶対に無理をしてはいけない。
無理はしないけれども、絶対に諦めない。
というものです。
塩沼氏は小5の時に、比叡山の酒井阿闍梨(アジャリ)の千日回峰行をテレビで見て、その瞬間、
「あっ、この行やりたい」
って本当に純粋に思われたそうです。そこが行に挑まれる原点だそうです。
そういう気持ちが芽生えた背景には家庭環境が大きく、お母さまが小さい頃から
「礼儀」と「他のために生きる」
この心を、日常何度も繰り返し教育してくれたおかげで、いまがあると塩沼氏は言われます。
出家する日の朝、食べ終わったご飯の茶碗や箸を全部ゴミ箱にバーンと投げ捨て、
「もう帰ってくるところはない。砂を噛むような思いをして頑張ってきなさい!」
って本当に親心で送り出されたそうです。
修行先に酒井阿闍梨のおられた比叡山ではなく、金峯山寺を選ばれたのは、千日回峰行の条件がより厳しかったからだそうです。
山は厳しく、とにかく怖いお師匠さんで、修行になると一切の妥協も許さない雰囲気を持ち、弟子一人ひとりに「ああだ、こうだ」とは一切言われなく、「後ろ姿から盗め!」という感じだったとか…
ただ一つ、お師匠さんが教えてくださったのは、
「行を終え、行を捨てよ」
この言葉の探求をせよということ…
だんだん修行が深まってくると、少しずつ感じ取れる世界が変化して、
修行をしてもそれを自慢したりしてはいけないということから始まり、
執着を捨て去ることに行の目的があり、
我欲も捨て去り、たとえ悟ったとしても、悟ったことさえも捨ててしまえと。
行者の中には名声などに執らわれてしまい、自慢する人もたまに見受けられます。
でも、行で一番大事なのは、同じ道を同じように情熱を持って繰り返していく中で、その中から自然に自得することに意義があるわけで、
「行を終え、行を捨てる」という言葉の深い意味も、繰り返し行じているうちにさらに一歩、そしてもう一歩と深まってくる。
ゆえに行というのはとても尊いものなのです…
塩沼氏は自分が現在あるのは母とお師匠さんのおかげだと言われます。
お師匠さんの生き方で一番感服されたのは、その死に際だそうです。
晩年がんを患い、そのまま延命治療を施していたら三年は生きられたそうです。
でも、「ダラダラした治療は要らない。余命半年の治療をしてくれ」
と言って、自坊に戻られました。
亡くなる前日、皆で下着を取り替えていたら、微かな声で「まだ焼くなよ」って。
それだけ自分の死を冷静に受け容れて亡くなっていかれ、師匠として弟子になんとも立派な生き方を示してくださったそうです。
お母さまも、苦しい時でも絶対に苦しいって言われず、しんどいことでも絶対に弱音を吐かれず、いつも太陽のような方だったそうです。
つづく……