お金って生活するためにはもちろん必要だし、なければ惨めな情けない人生を送らないといけないのですが、
お金自体に物凄く価値があるわけでなく、私の中では使い道に価値があると思っています。
たくさんの死に金も使ってきましたが、誰かの為に生きたお金になれば、お金にも価値が出てくるものです。
長渕剛氏の昔の曲で、曲名は忘れましたが、
銭はよ~銭はよ~
そ~りゃ、欲しいけどよ~
なんぼ積んでも
なんぼ積んでも
譲れね~ものがある

そりゃそうやなと思いました。
いくら喉から手が出るくらいお金が必要だとしても、お金の為に魂まで悪魔に売り渡したくはありません。
物事を判断する時に、そこにお金が伴うのか、心が伴うのかで選んでいることが多いような気がします。
例えば化粧品であるとか、美顔器であるとか、鍋や下着であるとか、色々なセールス商法があります。
友達や知り合いが時々、そんなたぐいのビジネスをして声をかけてきますが、本当に商品自体は良いかもしれませんが、そのシステムに目を向けると、商品を購入されるお客様がつけば、自分にメリットがいくらかあるんでしょうし…
意地の悪い私は、そんなに良いものなら無報酬でもその良い商品を売られるだろうか?
と思ってしまいます。
説明を受けても、いまいち心がなびきません。
所詮ビジネスはビジネスなんでしょうし…
又たくさんの仏教系の新興宗教がありますが、表向き看板は先祖供養を唄ってあります。
私は純粋にお釈迦さまのお話を聞くのは好きな方ですが、
その組織の中に新聞社や出版社を持ち、商売の絡んでいる団体…、
雑誌やメディアにPRしている団体…、
外国の大学や団体から名誉〇〇とか、勲章や表彰の栄誉を受けられる団体…
お釈迦さまの教えに対し、栄誉をいただいているのだと、組織の長であるべき自分ではなく、授与されるべきはお釈迦さまであると、辞退するのが普通なのでは?
いくら信者さんが多くて凄いように見えても、人間臭い運営をされていると、そこで釈迦の法(教え)が曲がります。
それが感じられたら私の中ではすべてアウトです。
お釈迦さまは、人として生まれてきたからには、身と心で功徳を積み、己が作りし悪業の因縁を罪滅ぼししなさい。広く教えを正しく説きなさいと説かれていても、商売をしなさいとは説かれていないはずです。
又お寺の戒名…
死んでからも貧富の差をつけてどうされるのですか?
院号が価値あるものなら、どうして男も女も、子供も水子も皆平等に院号にされないのですか?
お金もそれぞれの立場にあったお礼でいいのではないでしょうか。
亡くなった方をお金でランク付けしたり、菩提寺のお寺の建て替えには、寄付の割り当て、強制…
お金で困っている人にまで割り当てするのではなく、たとえわずかでも、ありがたいという気持ちで寄付やお礼を自主的にさせてもらったらいいのではないでしょうか。
それぞれの同じ空間におられるお方の中で、そんな素朴な疑問が沸々と沸いてくるお方はおられませんか…?
結局あっちもこっちも商売だらけ…
97%の慣行栽培をされている農家さんと同じです。
既成概念をおかしいと思う人はおられないのでしょうか?
最近新聞配達の途中で、子鹿の群れによく遭遇します。
この間、久々に角の生えた雄鹿に遭遇しました。
シカ医院の前の道路の真ん中に立ちふさがっていました。
車を止め、しばらく対峙しメンチ切りました。
勝ちましたよ…