前回の記事で文末に
> 感じてしまう自分自身の“感受性”、その理由を探る必要があるのです。
と記しました。
“感受性”とか、“感じ方”とかって、つまりは自分がどのように世界を見ているのか?
ということなんですね。
感情が強く刺激されるとき、それが心地のよくない感情であるときっていうのは、
その多くが“防衛反応”ではないでしょうか?
喜怒哀楽、人には様々な感情があります。
そして、“感じ方”も人それぞれです。
あなたがある人に何かをプレゼントしたら、ものすごく喜んでくれた。
だからといって、そのプレゼントがすべての人に喜ばれるとは限らないわけです。
その感情の変化の喜怒哀楽の中で、喜ばしいことや楽しいことは、
”自分にとって心地の良いこと”なので、特に掘り下げることもないでしょう。
『いったい私にこんな幸運が訪れるなんて!!私は今まで何をしていたのだろう?』
とは、問わないわけです。
『いったい私がこんな目に合うなんて!!私が一体何をしたというのか!!』
という、神に対する怒りをぶつけた人は古今東西たくさんいるというのに。
人との関係において、『距離感』という言葉がよくつかわれますよね。
たいていの場合、まあ、そんなに親しくないから、うまくやっていけてるわけです。
今時代は特に個人主義というか、“自分の好きなことしてればいいんですよ”教も、流行ってますし。
急激に惹かれあい、距離が近くなった二人は必ずといっていいほど、反発しあうとか、
“手のひらを返したように”一方が態度を変えることがよくあります。
ツインソウル概念のよくある話では、
「ランナー&チェイサー」とか「サイレント期間」とか言いますけどね。
じゃあなんでそうなっちゃうのか?ってこと、あまり書いてない気もしますが。
それは、互いにそれぞれの傷を癒せないまま、とても近い距離に近づいてしまったから、
気づかないうちに“お互いの”傷に触れてしまったからです。
まさかお互いに急所を刺し合った、なんて思いもしないのです。
あなたが全身傷だらけで、まだ血も止まっていない、体のそこら中に痛みがあるときに、
全力で抱きしめられたとしたら・・・。
それは間違いなく歓喜の悲鳴どころではないでしょう。
傷が癒えていれば、心地の良い至福の抱擁も、
傷だらけだとその甘美さに浸ることなんてできやしない。
二人はあまりに傷を負っているので、互いに抱き合うことすらできない・・・。
まさか、自分が痛みを、傷を抱えている、なんて、知りたくもない。
だって、知ってしまったら、その傷が癒えるまで疼きは続くから。
僕たちは強がっていたんだ。
未だ癒えない傷を抱えながら、それでも平気なふりして、必死でここまで来たんだ。
ここから先は“私は傷ついていたんだ。”と知らなければ、
癒し方をなんて探すことすらできないのです・・・。