好きな武将紹介・毛利勝永 | かつぼうさんのブログ

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レッズの事はもちろん、最近ハマっている音楽や我が家の飼い猫、
大好きな歴史の事等を「軽い暴言」を含めて(笑)書いていこうと
思っています。なにとぞ生暖かい目で見て下さい。

先日のキプロス戦で一緒にサポートした、レッズ仲間で歴史好きな宇都宮のS田さんからリクエストがありました。今回は歴史談義(大坂の陣後400年)の記事を書きたいと思います。


今回紹介するのは、大坂の陣で大活躍をしたのに後世に全然名が伝わっていない悲運の(?)武将 『 毛利勝永 (もうり かつなが) 』 公です。かの豊臣秀吉公の子飼い(子供の頃から仕えていたという意味)の武将です。


苗字が 「 毛利 」 ですが、あの元就公とか輝元公とかで有名な毛利氏とは血縁関係には無いです。勝永公の父・勝信公が豊前国(福岡県)の小倉に10万石を貰った時に、「毛利にあやかりなさいラブラブ」と秀吉公のはからいで苗字を「森」から「毛利」に変えたのです。ちなみに、この頃勝永公は10歳ほどでしたが、父と同じ豊前国内に1万石を貰ったそうです。


勝永公の父・勝信公は、秀吉公の黄母衣衆(「きほろしゅう」と読んでね?)を長く勤めており九州平定で手柄爆弾がありました。黄母衣衆とは、戦場で大将の傍にいる馬回り衆と言われる武士の特に強い者を選んだ、親衛隊ドンッと言って良い存在です。


その血を受け継いだ勝永公が弱い訳が無いパンチ!です。彼もとても強く、慶長/文禄の役(朝鮮攻め)では数々の手柄を挙げました。


秀吉公の子飼いという事で、関ヶ原では西軍に参加。ご存知の通り、西軍は負けてしまい領地は没収されてしまいます。関ヶ原の戦の前の伏見城攻めで手柄があったのですが、それ故に死罪の可能性がありました。何せ伏見城の大将は、家康公最古参の武将・鳥居元忠公でしたから。


ですが、家康公はかつて勝信公に恩義があり、それを返すという形で勝永公の命は助けられました。


浪人になってしまいましたが、同じ秀吉公の子飼いで仲が良かった有名な山内一豊に一族で預けられました。かなりの厚遇を受けた様ですが.....。


東西手切れとなり、いよいよ戦(大坂の陣)が避けられない状況となった時に豊臣秀頼公から参戦の依頼があり、大坂方の武将として大坂城に入りました。


上にも書いた通り、秀吉公の子飼いの武将で元とは言え大名です。入場の際には、大歓迎を受けたクラッカーそうです。他の4人の大名格の武将(真田幸村公や後藤又兵衛公)と共に 「 五人衆 」 と呼ばれました。


大坂冬の陣では真田幸村公と共に城外に討って出て戦う事を主張しましたが、受け入れられませんでした。


その代わり、籠城(お城にこもって戦う事)が出来なくなった大阪夏の陣では大・大・大活躍をします。天王寺の戦いという夏の陣最大の激戦メラメラでは、二世や三世で戦闘経験が乏しかったとは言え家康公普代の武将の部隊を次々と撃破爆弾。真田幸村公と共に家康公の本陣に攻め込み、家康公に自害を二度も覚悟させました。


その後真田幸村公が打ち取られた事で真田軍が壊滅。やむを得ず撤収となりましたが、その手際も見事。攻勢に出た藤堂高虎軍をあっさり撃破し、助けに来た井伊直政公&細川忠興公の舞台も蹴散らし、自らの部隊を無事大坂城に撤退させました。


そして、豊臣秀頼公と一緒に嫡子勝家と共に自害したそうです。一説によると、秀頼公の介錯をしたのだとか。


大坂の陣で一番有名な西軍の武将は、何と言っても真田幸村公でしょう。ですが幸村公は結果的には討ち取られています。最後まで一度も負けなかったどころか最後まで担当戦線を破られさえしなかったチョキ毛利勝永公、もっと注目されるべきメガネだと思います。



で、恒例の逸話ですが.....。もしかしてこの人が有名じゃない理由って「逸話の少なさなんじゃないかな?」と思ってしまう位ガーン、逸話が無いです。さすがの歴史好きのかつぼうさんも、今回ばかりはかなり調べました(笑)。



・東西手切れで恩義のある豊臣氏の為に大阪城入場を決めた時です。夫人を呼んで話をしました。


私は恩義のある豊臣氏に味方したいのだが.....。そうすると、残されたお前らに迷惑をかけてしまうな.....。


と涙をしょぼん流しました。すると、勝永夫人は凛として


あなたのご活躍はお家の名誉です。気にせずに大坂にいらして下さい。もし残る者が気になるのでしたら、私どもは潔く自害します。


と言って夫を励ましました。この話を聞いた家康公は感動。


武士の覚悟、天晴である!勝永の妻子に罪を問う事は許さぬ!


と言って、妻子の保護を命じましたが.....。勝永公の次男は、大坂の陣の後に処刑えっされてしまっています。この話、有名ですが創作かもしれません。



・大坂夏の陣・天王寺の戦いでの一コマ。勝永公の部隊が、次々と家康公普代の武将の部隊を撃破しているのを、少し離れた丘の上から見ている武将が2人いました。誰あろう、細川忠興公と加藤嘉明公でした。細川忠興公は隣の嘉明公に問いました。


あの際立った采配をする部隊は、誰の部隊であろう?


すると驚いた嘉明公は答えました。


お主、知らなかったのか?!あれこそ、秀吉公の黄母衣衆でその人ありと言われた、毛利勝信が一子・勝永であるぞ!


おお!そうであったか!それにしても勝永、この間まで子供だと思っていたのに.....。あれは、歴戦の勇士の様じゃな!


忠興公と勝永公は9歳しか年が離れていません。それに、領地も近かった。知らなかった訳は無く、これも創作かもしれません。



・天王寺の戦いの序盤に、一緒に参戦した息子・勝家が敵の首を取って意気揚々ニコニコとしていました。すると勝永公が一言。


その方の働き、見事であるぞ!じゃが、その兜首は捨てよ。それに、これからも討ち取った武将の首を取ってはならんぞ?


戦場で一番危ないのは、敵の首を取る時です。その際、逆に敵に狙われます。そんな息子を心配するが故の一言でしょう。親心が見え、これは信憑性の高い話です。



・濃霧の為に戦場に到着するのが遅れ、歴戦の勇士・後藤又兵衛公が戦死してしまいました。がっかりした真田幸村公が、めずらしく弱気になりました。


私のせいで、後藤又兵衛殿を死なせてしまった.....。豊臣家の命運も尽きてしまった様だし、ここで華々しく討死するのみだ!


すると、勝永公は励まします。


真田殿、どうせ死ぬなら右府様(豊臣秀頼公の事)のおん前で死のうではないか!


勝永公の励ましが無ければ、真田幸村公が 『 日の本一の強者 』 (日本一強い武士)と言われる事も無かったかもしれません。



今年は大坂の陣後400年と言う節目の年な訳ですし、もっともっと注目されて欲しいです。


誰か、勝永公の本を書いてくれないかなぁ?