え~、本当に久し振りの歴史談義です(笑)。先日、好きな軍師を紹介すると書きましたので、書いておきます。本日紹介するのは、『 島清興 』公です。黒田官兵衛さんが軍師と言えるなら、島清興公も軍師と言っていいでしょう。 お、
「え?島清興さんってどちら様?」
と言う皆さんの心の声が聞こえてきましたよ(笑)。歴史好きor週間少年ジャンプ好きな方だったら、『 島清興 』 よりも 『 島左近 』 の名前の方が有名でしょう。そうです、「 三成に過ぎたるものの二つあり、島の左近と佐和山の城 」 とまで謳われた、戦国時代屈指の名将です。名前は「島 勝猛」(しま かつたけ)という名称もあり、そちらの方が有名な気がしますが、正式には「島清興」(しま きよおき)だそうです。当時の文献などには、「清興」名義のものの方が多いみたいです。
ただ、本ブログでは一般的な通り名である「島左近」で通します。親しみも込めて、「公」は省略します。
上の歌にもある通り島左近は石田三成公の家来で、筆頭家老だった様です。石田家の軍事面を担当しました。
大和の国(奈良県)出身で、元は筒井順慶という「洞ヶ峠」の語源となった僧兵上がりの武将に仕えました。順慶本人と仲が悪くなったのかその後継ぎの定次(さだつぐ=順慶の甥)と仲が悪くなったのかはわかりませんが、兎に角筒井家を出奔。浪人となりました。
近江の国で暮らしていましたが、そこの領主に石田三成公が着任。政治力はあったものの軍事力に不安があった三成公に破格の条件で仕官の要請があり、それを受けたと言われています。
三成公は、4万石のうち半分の2万石で左近を召し抱えたと言われています。ですが、これには異説があり、三成公が佐和山城20万石取りになってからとも言われています。まぁ、これでも十~分に破格の条件ですがね。
ちなみに佐和山城は、「ひこにゃん」で有名な彦根城のすぐそばです。徳川家の家臣・井伊直政がこの地に封ぜられたのですが、主君である家康公に最後まで逆らった佐和山城に居を構えるのは嫌だったのでしょう。東海道を挟んだ反対側の山にあらたに彦根城を築城しました。建材は、佐和山城のものも使用されたみたいです。
豊臣秀吉公死後は、恐らく主君である三成公以上に徳川家康公を警戒/危険視したでしょう。度々暗殺計画を立て、悉く失敗します。
関ヶ原の戦いでは、田中吉政&黒田長政(大河ドラマでお馴染みの黒田官兵衛の嫡男)の軍勢に少ない軍勢で真っ向勝負を挑み、散々彼らを翻弄。そして鉄砲による壮絶な最期を遂げた..........筈です。
「筈」というのは、遺体/首が発見されなかったのです。乱戦の中、遺体が踏み荒らされてしまったのでしょうが、発見されなかった事で生存説があったそうです。なお、週刊少年ジャンプで連載された「SAKON」は、その生存説に基づいて多少(どう見ても「少」ではなく「多」ですが)の脚色をつけたものです。
関ヶ原の戦いでの奮闘は後世に残った様です。前述の黒田長政公は「あの時の島左近の奮闘ぶりは、思い出しただけで背筋が凍る」と語りました。黒田軍の足軽に至っては、左近の発した「かかれーっ!」という掛け声が忘れられなかった(今で言うトラウマ?)そうです。
ちなみに、↑に週間少年ジャンプの話が出たのでついでに書きますが。島左近は若者として、そして徳川家康公(世良田次郎三郎)は老人として描かれていますがね?
徳川家康公は1542年生まれで、島左近は1540年生まれです。そう、
島左近の方が年上なんです!
原さん、老人だとマンガになりにくいのはわかりますがね?
物事には程ってもんがありますぜ?(笑)