レッツ!!ビバの道

レッツ!!ビバの道

陰の氣を操る古式マスターヨーガと、陽の氣を操る武当派太極内丹法の修行をしています。

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誤解が誤解を生むケース

猪突猛進思い込みタイプは、行動に移すのは早いがあまり思慮深くはない

思慮がないので、予測、推測等することもなくその場の思いつき(一方的な思い込み)のみで行動する

かなりの割合で、勝手なストーリーを組み立てる傾向がある
(物事の点と点を繋ぐ際には何の裏取りもしない、等)

「Aさんが言っていた」→他者に伝える際には全く違う話になっている
(物事の時間軸や、話の前後を勝手に入れかえてしまう事で生じる)

これを聞いて、同じタイプは、また「裏取り」等せずにその話を信じる
結局は「類友」と言うこと
「もしかして解釈が間違っているのかも?」等、一瞬でも思い浮かべば全体を見るきっかけになるが、それが浮かばないから誤解の連鎖にはまる
全体(多面)を見ない、「全体を見る」と言う気付きがない
物事の背景に隠れているものを捉えられない

この「誤解の連続」を外から観察していると、とても面白い
モメている本人達は必死なのだろうが、全体を見れない人に誰かが「誤解だよ」と言っても、今更聞く耳を持ってないだろう
これからも観察させてもらうこととする


以前から「厳しい事」を書いているかもしれないが、私からすると厳しいのは当たり前で、と言うか、この程度のことは厳しいとは思っていない
―――――
突発的な貰い事故の様な、他者から通りすがりで突然イラッとさせられる事にも対応できるか?を試される
行をしていると、「焦るな落ち着け」とか「余裕を持って寛大に」「俯瞰」と、冷静に自分を制御する事を意識するが、いざ「突発的」に物事が起きた時に本当に冷静でいられるか?ってことだ

阪神大震災の時、戦後すぐに建てられたボロいアパートに住んでいたので結構な被害があった
兄はどうやって家から出たか覚えてないと言っていた
意識を失っていた訳じゃないんだから覚えてないなんてあり得んだろと思ったが、人間は危機的状況下では周囲をよく見ることが出来なくなる事もあるようだ
閉じ込められてたから本棚をどけて、あ~してこ~して、どんな会話をして、それから姉を助けに行ったんやでと状況を細かく説明しても兄は全く記憶にないそうだ

焦った時は「頭が真っ白になる」ってことだと思うが、真っ白になっていたら正しい状況判断をしにくい
事故や災害時には、逃げる、身を守る行動をとるのは本能だが、間違った行動をした場合は(間違っていると気付かずに)それが命取りになる
一ヶ所に集まった所で何かあると全滅やね
他にも出口があるのに一ヶ所に殺到するとかね

話がズレたが、
普段「冷静に余裕を持って」を意識していてもいざって時には、その余裕は簡単に吹っ飛ぶ
私はいつも「冷静に~」と自分で言っていても、突発的な感情の「波立ち」に対処できなければ口だけの頭で理解した「つもり」ってことだからね

人間関係でも、いきなり何かを吹っ掛けられた時は、弱い人はアワアワして焦るから、勢いのある相手には遣り込められてしまう
黙るか逃げるかくらいしか選択肢がなく、あとは嫌な気分だけ残る
自分の意見を言ったり、その相手が理不尽な場合は矛盾を指摘することができないからだ
矛盾に気づくには、冷静に分析できなければいけない

日常の、気付かないような小さな事に本質のヒント等が隠れているので、その小さな事(突発的な感情の波立ち等)が本当にどうでもいいことなのか、拾ってみない事には判断がつかない
その小さな事を拾えるかどうかだ
そしてこれらのことが目的じゃなく、その先にあるもの(山を越えた向こう側=今の延長線上)を見ている
その為にここを通らなければいけない

「寛容・寛大」「おおらか」は、「厳しい・細かくチェックする目線」を同等に持った上で成り立つ
本当におおらかで寛容寛大な人って実はめちゃくちゃ厳しくチェックする目線を持ってる
そもそも世間の言う「優しい」なんてのは、自分では何もしないで人にしてもらう事ばかり要求する人が「等しく誰でもが救ってもらいたい」からで、自分が「救いの枠に入れないと困る」から「皆が平等に~、一緒に~」とか言うのだ
厳しくされると困るのだ

観察していて、人当たりが良くて相手の気分を損ねず相手の要求通りに受け入れるのも、本当にそうなのか偽りなのか、そこに意図(自分起点)があれば偽りとなる
本当は嫌だけど「嫌だと言う勇気がない」「嫌われたくない」「良い人と思われたい」、これらの意図を違和感として感じるので見分けがつく
その意図につけ込んで利用してやろうとする人は沢山いる

意図がなければ相手に寛容(相手起点)になる
厳しい目線でチェック(自分自身に対して)する事は必須である
陰性質の現象が面白い
いつもなら気にならない様な事をいちいち拾って、過剰に反応する
瞬間的にムカッ!イラッ!とする事が増えるが、それを瞬時に制御するようになる
瞬発的に制御させるために、ムカッとくる(瞬間的に感情にのまれる)現象が起きてる感がある
陰で冷静に最短の道を見つけるがそれを妨害され更に陰を試される、みたいな
これが一日のうち何度も起こる

電車に乗るために駅へ向かい切符を買おうとする
私の前に並んでいた客が券売機の前に立つ
カバンの中をゴソゴソしてやっと財布を出したかと思うと、頭上の料金図を眺めて固まっている
切符を買ったあとも財布を仕舞うためにずっと券売機の前から動かない

おばちゃん二人組が券売機の前でウダウダと切符とは関係ない話してたり、「今回は私が~」「いや、なに言うてはりますの~今日は私が~」とかやってる時があるが、私は「邪魔なんですけど?」と、笑顔(目は笑ってない)で穏やかに言って、オババ達をどかす
こんな時は「すみませんが…」とか、こちらがした手に出る必要はない(笑

この人達は言われて初めて自分が邪魔していると気づくし、逆を言うと、言われないと邪魔になっているとは気づかない
他人の時間(エネルギー)を奪ってる事も分かってない
要するに周りを見ていないし自分が何をしてるかも分かってない

券売機でモタモタしてる客に出くわすと「切符買うことくらい自分で分かってるんだから、その前に財布だしとくか、料金図を見たいんなら券売機から離れて見とけよ」てイラッとする
まぁ、人には人のペースがあるから、全てに対して「自分優先!」はあり得ない、そこは自分も他者も同じ
心が狭いとか自分勝手とか言う次元ではない

車を運転していて、ウォッシャー液飛ばしまくりで自分の車のフロントガラスは綺麗になっても、後続車の車体を汚している事に気づかない人もいる
自分の車を綺麗にするエネルギーを、他人の車を汚すと言うエネルギーに変換しているのだ
周りに他の車がいない時を見計らってウォッシャーするのがマナー(制御)だ
何でもそうだが、自分をコントロール(制御)することが、周りをコントロールすることになる
何かを伝える時に「相手にどう伝えれば良いか」を考えるのは、相手の事を自分の思い通りに都合よくコントロールする事とは違う(損得で言うと、自分だけが得したい心理だ)

例えば村があり、治水したい場合
水は高い所から低い所へ流れるが、万物の理でこれは「氣」も同じだ
お金も目に見える形での「エネルギー」だ
村人が役人に「治水したい!」「堤防つくってくれ!」と言ったとしても、水が勝手に治水される訳がない
色々な知恵を使い水車やポンプの仕組みを考えたり(思考などのエネルギー)、全員からお金を少しずつ集めたり労働力を提供したり、何かしらの「エネルギー」を提供するから治水できる
集めたお金で人を雇い、雇われた人がお金(エネルギー)でそれに見合う仕事をする

身銭も切らず何もせず自分の権利ばっかり言うのは、他者に「してもらいたい」からだ
ちなみに私が言うスピ難民の方逹もこれにあたる

そして、「水は高い所から低い所へ流れるのは万物の理なのだから、治水する=コントロールするのはおかしい!良くない事だ!」とか言う人がいたら、「頭大丈夫ですか」と思うでしょ

どう制御すればいいか?どう伝えるか?は、「より良く」を求めるからで、それは子育てでも人間関係でも、物事は全て陰陽で「制御=より良く」の為だ