画鬼 河鍋暁斎  ✕  鬼才 松浦武四郎 ③ 武四郎涅槃図の収集物 『丁亥後記』 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

一人、"地下鉄の地上を歩く会"

山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

 

 [ 河鍋暁斎 武四郎涅槃図 部分]

河鍋暁斎も松浦武四郎もあまり詳しくは知らないけれど、松浦武四郎が富士登山をして、村山古道の日沢に架かる橋が朽ちていて落ちたということを聞いて俄然興味を持ちました。

 

 

 

武四郎は探検家であり、書画、古物の収集家でもあったそうです。この大首飾りは勾玉などを集めて武四郎自身がつなげたもの。午睡する姿にも架けられています。

河鍋暁斎は武四郎が収集したものを丁寧に武四郎の周囲に描きました。それらが展示されていました。

涅槃図のどこに描かれているか・・・、写真を載せていきます。

 

 

 

[ 武四郎涅槃図 ]の赤い絨毯に描かれているものは展示でも赤い絨毯が敷かれていました。

 

◎『丁亥後記』 東京 松浦武四郎 著 明治20年

畠堀操八様がくださったコピーを読んでいます。

松浦武四郎が晩年(70歳)に富士登山をしたときの記述で、今と比べながら読むととっても面白いです。今の感覚で道順が分かりやすいところを抜き書きし、非常に興味深い文章を書き写していきます。

 

 

 

◎余未だ19歳の時なりしが、吉田を上り須走に下り、表口の方を知らざりしかば、年來の願なれバ八月廿一日(8月21日)中野松平を伴ふて出立。

(表口とは富士宮浅間大社から村山浅間神社に出て、現在の村山古道を通って大宮口(富士宮口)を登り頂上に至る登山道)

 

 

 

◎新宿、幡ヶ谷、高井戸、車を雇い、仙川、國領、下上布田。飛田給、府中驛、柴崎、多摩川も今は橋となり、八王子驛、千人町今は農人町となりたり。

 

 

 

◎高尾山の下通り在道よろし。千木良、小原驛。小松やに泊まる。

 

 

 

◎廿二日(8月22日)。與瀬。藤野、上野原驛。繁華の處也。鶴川驛。是より山道。犬目驛。鳥澤驛。猿橋(えんきょう)驛。入口に橋有。長さ四間、橋杭なし。水面まで三十三尋と云。大月宿に泊る。

 

 

 

◎廿三日(8月23日)。田の倉、九鬼。井倉村より十日市村の間橋有。兩岸々壁、橋上に佇立するに粟生肌。水上二段の瀧に成て落るさま。猿橋にまた異にして是また奇。此道中、猿橋とこゝを一對とす。(この橋は一体どこを指すのかしら、思い当たりません)

 

 

 

◎赤坂、谷村驛、上町、繁華也。四日市場、小沼驛。諸方の道者落合故に繁華也。

す見村。吉田驛。村の入口に御師より客迎に出る札等立て賑ハし。上吉田。左右六十餘軒の御師の宅なり。小澤彦治と云ふに着す。懇に登岳の支度致し呉られたり。夕方浅間社に詣ず。

 

 

 

◎廿四日(8月24日)。鶏鳴前馬士合力等來り出立。浅間の社の脇より野に出、諏訪森。大塚。爰に日本武尊の社有。中の茶や、鈴原馬返、茶店四戸有。一合目、二合目、御室の浅間、是を上の浅間と云。三合目茶屋有。四合目。茶屋有。四合、五合。御座石。浅間社。五合目。爰を天地の境と云て上は風起これば立事能ハず。匍匐して避く。五合五勺。小御岳へ廻りし者も爰にて出会ふなり。六合目、室なし。

 

 

 

◎七合七勺。此處にて二時位也。(速い!)

南無阿弥陀仏々々と上るも有。又六根清浄々々と云て上るも有。龜石、烏帽子石の下に清水湧き出す。爰に享保十八年行者身禄入定場有。(信仰登山がまだまだ濃厚なのですねえ。)山ますます嶮悪なり。

 

 

 

◎八合目。此處甲駿の境にして吉田、須走の兩所より室を出す。

是より上ハ諸人雨具を持たず。七合目よりは下より雨を吹上、蓑は頭をおおひ、笠は飛て被り難き故也。

 

 

 

◎道ますます嶮也。九合目。室有て迎薬師と云を安置す。従是上を胸突と云。従是四這して上る也。

 

 

 

五時計頂上に上る。爰を藥師岳の藥師堂と云。東京やと云に宿を頼。

 

 

 

室の後ろ金石(名?)水と云靈泉あり。釋迦の割石、小内院、馬背、大難所、劍岳等、是を御はち廻りと云。此處第一の高岳なり。

室には道者十四人泊りて有。飯は南京米様の物を洗ハず炊き、汁は味噌氣の有と云計のもの、漸に一椀を喫し一枚の布團を被り臥たり。

(寒そう!)

 (つづく)