最古の富士山アプローチ・富士本道を歩く② 雁堤と富士山 護所神社 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

広々とした公園とも運動場ともいうような遊水地を備えた「雁堤(かりがねづつみ)」を歩いています。(5月6日)

 

 

 

✿雁提ができる前の富士川は、広範囲に川筋が広がっていて、たびたび氾濫する暴れ川でした。

 

 

 

 (2024年1月14日、岩本山の展望デッキから撮影しました。)

✿雁堤は、岩本山の裾から松岡水神社に至る延々2.7kmに及ぶ大堤防で、雁が連なって飛ぶ形に似ていることから「雁堤(かりがねづつみ)」の名が付きました。

 

 

 

✿江戸時代初期、中里村の古郡孫太夫重高(こごおりまごだゆうしげたか)は堤防工事に着手し、岩本山の裾に「一番出し」、「二番出し」の石積の突堤を築き流路の変更を図りました。

 

 

 

✿重高の子、重政は堤防補強と新田開発に手腕を発揮しました。また、釜無川(山梨県内の富士川上流部)の信玄堤を参考にして「水を遊ばせ、流れをやわらかく受け止める場所」を作ったら良いと考えました。

 

 

 

✿重政の子、重年は、重政の遺志を継ぎ延宝2年(1674)、現在に見る広大な遊水地を備えた広大な雁堤を完成させました。

 

 

 

✿古郡氏の3代50年余り、苦難の末この雁堤を完成させ、雁堤の南東一帯の加島平野は「加島五千石の米どころ」と呼ばれる豊かな土地に生まれ変わりました。

 

 

 

✿人柱の伝説が残っています。

雁堤の工事は、富士川の洪水との戦いを強いられた大変な難工事で、堤を築いては流され、開墾しては流され、全く手の施しようがない状態が続いていました。

 

 

 

✿人々は、神仏の加護に頼るほかはないと考え、人柱を立ててこの堤を守ってもらおうということになり、この日から富士川を渡ってくる1000人目の人に人柱に立ってもらうことになりました。

 

 

 

✿1000人目に川を渡ってきたのは東国の霊場を廻る巡礼姿の老人でした。人々は、この巡礼に理由を話して人柱になってもらいたいと心を込めてお願いしました。

 

 

 

✿巡礼は最初はびっくりしましたが、「私の命が万民のお役に立てば、仏に仕える身の本望です。」と言って快く引き受けました。

 

 

 

✿人柱の場所は、提防を幾度築いても流されるこの雁提の曲り角になりました。

白木の棺に入った巡礼の読経の声と鉦の音が、差し込んだ竹竿を通じて21日間、聞こえたと言われています。

里人はこの巡礼を神様と崇め、護所神社に祀っています。

 

 

 

 

子供の頃、こんなに大きくなる前に、これを口に入れて噛んで「ガム!」などと言っていたけれど、本当の名前はなんて言うのかしら。

 

 

 

ハナビシソウ(花菱草 ケシ科)。

 

 

 

ヒメツルソバ(姫蔓蕎麦 タデ科)。

街中でもよく見かけるけれど、こんなに元気よくのびのびと。

 

 

 

コメツブツメクサ(米粒詰草 マメ科)。

A君は、学校でシロツメクサ(白詰草 マメ科)を習ったばかり。

アカツメクサ(赤詰草 マメ科)というのもあるのよ、と言いながら探したけれど見つからなかった。

早口言葉で「アカツメクサ、シロツメクサ、コメツブツメクサ」は受けました。

 

 

 

サーッと自転車に乗って現れたローリング父さん。

参加したかったけれど、用事があってできないって。

疾風のように現れて、疾風のように去っていきました。カッコイイ!

(相変わらず古いネ!)

  (つづく)