日本橋から歩く『大山詣』を振り返って ⑬ 庚申塔・・・道標を兼ねたものも  | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

大山街道の道案内としては、庚申塔がその役目を果たしているものが沢山ありました。

 庚申信仰は平安時代からあったそうですが、江戸時代に盛んになり、村に疫病が入らないようにとの願いも込められていたようです。

 

 

 

庚申塔の側面には「右 大山道」と彫られていました。

道路の縁石に「東 二子橋方面  西 荏田方面」と彫られた石碑もありました。

 

 

 

一方で、現代の「大山詣」には大山街道のシールが大変役に立ちました。

道を見失ったかなと不安になったときに、この赤いラベルを見つけてホッとしたことも度々。

 

 

 

東急田園都市線鷺沼駅が集合の日(2022年6月4日)、歩き始めてすぐに大山街道の貼り紙を見つけて「幸先良し!」と思ったものの、昭和40年代の都市開発によって、宮前平、鷺沼周辺は昔日の面影が減ったところです。2007年に発行された『ホントに歩く 大山街道』には載っているのに、いくら探しても見つからず、地元の人に訊くと、「あぁ、それは、今はない

よ」というところもありました。

 

 

 

寛政5年(1793)、荏田村下宿(横浜市青葉区荏田町)の婦人たちによって立てられた庚申塔。お堂におさまっています。そのせいか、摩滅が少なくきれいですね。左手にショケラ(子ども or 女性?)を持っています。

庚申塔って、それぞれ違うから興味深いです。

 

 

 

一方、こちらの庚申塔は草がぼうぼうと生えている中にありました。

写真が撮れるように畠堀操八氏が周囲の草取りをしてくださいました。

寛保年間(1741〜1744)に作られたものです。

 60日ごとにやってくる庚申の日には、体内の三尸の虫(さんしのむし)が密かに抜け出し、天帝(帝釈天)にその人の悪事を告げに行く。天帝は行いの悪い人には罰を与え寿命を縮める、というのが庚申信仰の始まりでしょうか。時代や地域によって様々な形に変わっていったようですね。

 

 

 

コロナのおかげで、何ヶ月も空くことがあっても、地図を配ると皆さんの歩きは要領が良い。(2022年9月25日)

 

 

 

国道246号の角に、供養塔と彫られた道祖神。

「上り 江戸道 下り 大山道」と刻まれ、道標を兼ねています。

246号の工事でここへ移されてきたのでしょうね。

 

 

 

7回目で三宅坂から29kmのところにきました。

 

 

 

いかにも道路工事であちらこちらから移動させられた感じの石像群です。

 

 

 

 木造のお堂の中には素晴らしい庚申塔が祀られていました。

青面金剛像(しょうめんこんごうぞう…庚申信仰の本尊)は眼が三つで忿怒の相をしています。

この金剛像は六臂(6本の腕)で、剣、弓、矢や法輪などの法具を持っていますねえ。またショケラと言われる子ども(or 女性?)をぶら下げています。体には蛇が巻き付いて。そして邪鬼を踏みつけています。

上の方には太陽と月が刻まれ、下の方にはニワトリと三猿(見ザル 言わザル 聞かザル)も。庚申塔の教科書を見ているような思いです。でも両側の女性(?)はあまり見たことありません。時代や地域によって刻まれるものが違うのでしょう。

 (つづく)