日本橋から歩く『大山詣』を振り返って ⑫ 大山街道の石標 シール 大山詣の納め太刀 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

  (日本橋 2024年6月6日撮影)

 

2021年11月23日に日本橋から出発した日本橋から歩く『大山詣』。

 4〜5回で終わるつもりで書き始めた「日本橋から歩く『大山詣』を振り返って」はもう12回! これではまた「まとめ」の「まとめ」が必要になってしまう! それだけムラヤマフジコちゃんとしては充実した貴重な経験だったのでお許しを!

 

 

 

大山街道の出発点の赤坂御門跡に着いたのはその日の午後3時。

 ここからは『ホントに歩く 大山街道』(著者 中平龍二郎 発行所 株式会社 風人社 2007年7月25日 初版第1刷発行)を参考にしながら歩きました。そこに書かれた石塔や寺社をたどりながら歩くのは、ちょっとしたオリエンテーリング気分の楽しさがありました。

 

 

 

上目黒氷川神(目黒区大橋2-16-2)の鳥居の横に「大山道」と大きく彫られた石碑を見たときは、昔の人と同じような「大山詣」の感覚を味わいましたねえ。(2021年12月25日)

 

 

 

池尻大橋を過ぎたところで、多摩川通りから旧道に入ると「旧大山道」と彫られた石碑。

 

 

 

近くの民家には「大山街道」のシール。

えっ!このようなシールがあるのだわ。「大山詣」が今も生きている感じがして、嬉しかったです。

 

 

 

 

かなり大雑把に言うと、大山街道は途中まではほぼ国道246号で、矢倉沢往還とも言われています。日本橋から3回目にしてまだ11.8km、間もなく三軒茶屋というところです。(2022年3月26日)

 

 

 

三軒茶屋駅近くに「大山道」と記された石碑。両側面に道案内があるけれど、気が付く人がどれほどいることか。

 

 

 

大山道児童遊園(世田谷区弦巻4-31-9)にある昭和60年(1985)に立てられた大山道旅人の像。あった、あったとホッとして私達もひと休み。

 

 

 

二子玉川商店街振興組合の旗には「歴史の街道 大山みち 大山みちフェスティバル実行委員会」と書かれていました。世田谷区は大山詣に力を入れているように感じ取れました。

 

 

 

多摩川を渡っても、大山街道の案内はありました。有り難いです。(川崎市高津区)(2022年4月23日)

 

 

 

「二子の渡し」の碑。

『二子と瀬田を結ぶ旧大山街道の渡し。かつては大山詣りや江戸からの物見遊山客で賑わった。タバコ、鮎、炭など相州の物産も渡った。1925年(大正14)二子橋開通で廃止。』

このような説明を読むことで、なんとはなしに大山街道の歴史や役割が分かってきます。

 

 

 

二子橋を渡ってからはより一層大山街道が色濃くなってきました。このシールを見つけると「あった!」と無邪気に嬉しくなるものです。

 

 

 

川崎信用金庫のビルには納め太刀をかついで大山街道を行く旅人姿も。

 

◆大山街道とは◆

 江戸赤坂御門を起点として、雨乞いで有名な大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)までの道。東海道と甲州街道の間を江戸へ向かう脇往還として、「厚木街道」「矢倉沢往還」等とも呼ばれ、寛文9年(1669)溝口村・二子村が宿として定められた。

 江戸時代中期には、庶民のブームとなった「大山詣」の道として盛んに利用されるようになり、この頃から「大山道」「大山街道」として有名になった。

 江戸後期には、駿河の茶、真綿、伊豆の椎茸、乾魚、秦野地方のたばこ等の物資を江戸に運ぶ輸送路として利用され、これらを商う商人たちで大変栄えた。

◆納太刀の習慣◆

 大山詣は、江戸を中心とした関東一円の他、遠江、駿河、伊豆、甲斐、信濃、越後、岩代、磐城などにも及んでいたと推測されている。参詣の際には納太刀(おさめだち)をする習慣があり、自分の背丈よりも長い木太刀を担いでいる参詣者の姿が多くの浮世絵などに描かれている。

       大山街道活性化推進協議会 高津区役所地域振興課

 (つづく)