日本橋から歩く『大山詣』を振り返って ⑥ 良弁僧正(ろうべんの滝 大山寺) 権田直助 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

葛飾北斎(1760―1849)の『諸国瀧廻り』より「相州大山ろうべんの滝」。

滔々と流れ落ちる滝の水は豊富。大山寺に奉納する大木太刀を担いでいる人も見えます。

 

 

 

水は流れているのかしらと心配なくらいの現在の「良弁の滝」。(2023年12月16日撮影)

良弁は東大寺の初代別当。755年、大山寺を開山しました。

良弁の滝は良弁僧正が初めに水行を行ったとされるところです。

 

 

 

良弁の滝の側の開山堂(良辯堂)。

相模国の国司の時忠夫妻の間に生まれた良弁は、生まれて間もなく金色の鷲にさらわれてしまいます。東大寺二月堂の大杉に懸けられた良弁が、山王の使いである猿に助け降ろされたという。

この開山堂の中には、良弁僧正43歳の像と、猿が金鷲童子(こんじゅどうじ 良弁のこと)を抱いた像が安置されているそうです。

 

 

 

大山寺への石段は両側に童子の石像が配置され、修験の寺であることが感じられます。

 

 

 

良弁が開基の大山寺の本尊は、鎌倉時代に制作された鉄造の不動明王。重要文化財に指定されています。

 

 

 

「江戸時代の大山想像図」(『相模大山 大山今昔史跡巡り』宮崎武雄著)では、雨降山大山寺(不動堂)を中心に多くの宿坊や僧房、塔頭寺院が置かれ、頂上は石尊大権現となっていて、山岳信仰や修験道的な信仰が融合した神仏習合的な山になっています。

 

 

 

明治初めの神仏分離令、修験道廃止令等では廃仏毀釈が進み、修験者、僧侶、侵蝕者たちには嵐のような大混乱が続きました。

「大山観光マップ」(『相模大山 大山今昔史跡巡り』宮崎武雄著)ではすっかり様相が変わり神社が主になっています。一度は廃寺になった大山寺は場所を変えて鉄造不動明王とともに復活しました。

 

 

 

「良弁の滝」の横の「権田公園」の一角に「権田直助の墓所」があります。

権田直助(1809―1887)は、大山阿夫利神社および三嶋大社の長となり、神社再興に力を尽くし、大山全般を整えました。大山の方たちからは大変尊敬されている方のようです。

 

 

 

「相模國大山 江戸期の図」(左)と「相模大山 散策案内絵図」(右)。

畠堀操八様が持参して、比較してくださいました。江戸期の方が賑わっていたのが一目瞭然ですね。

 

 

 

畠堀氏は『游相日記』(渡辺崋山著)、『新編武蔵国風土記稿』『新編相模国風土記稿』等の資料やその都度絵地図などを用意してくださり、大山街道の変遷や明治の神仏分離等による大山信仰の移り変わりを分かりやすく説明してくださいました。

 (つづく)