日本橋から歩く『大山詣』を振り返って ⑤ 室町時代後期の武将 「太田道灌」の最期 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

大山方面に行くと、「太田道灌の首塚」などという案内が見えて以前から気になっていました。

「日本橋から歩く大山詣」でも、江戸城を築いた人ですもの、皇居東御苑に行く前に東京フォーラムにある太田道灌像にも寄りたかったのですが、ちょっと道が遠のくので諦めました。

 

 

 

12回目(2023年12月2日)は 太田道灌Day となりました。こちらに載せましたのでご覧ください。

 

 

 

法雨山大慈寺(伊勢原市下糟屋364)は太田道灌の菩提寺です。

 

 

 

前回の最後にも寄ったのですが、今回も行って良かった、ちょうど檀家の方々が本堂の掃除や境内の手入れをしている日で、檀家総代の高橋様のお話をお聞きすることができました。

 

 

 

太田道灌の大きなご位牌。家紋は桔梗です。

 

 

 

伊勢原市の重要文化財に指定されている太田道灌の画像です。

一般公開はされていません。

 

 

 

NHKの大河ドラマになることを期待しているのだけど、なかなか実現しそうにない。

その理由の一つが道灌には女性関係が少ないので視聴率がとれないとか。

「山吹の里」伝説は私が知るだけでも4か所あります。それを全部登場させ違う女性で演じたらどうでしょうと無茶を考えてしまいます。

 七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しき(御拾遺和歌集)

 

 

 

大慈寺の脇を流れる渋田川沿いの太田道灌の墓。

檀家総代の高橋様の話ではここは首塚とおっしゃっていました。

 

 

 

丸山城址公園(下糟屋2168-2)

広々とした公園ですが、伊勢原市が調査した結果では室町時代から戦国時代にかけて城があったそうです。

太田道灌が主君の扇谷上杉定正に暗殺されたのはここであったと考えられているそうです。(伊勢原市教育委員会の方にお聞きしました。)

 

 

 

太田道灌開基の蟠龍山洞昌院(伊勢原市上粕屋1160)

一説に、敵に囲まれた道灌は洞昌院まで逃げ延びたが、門が閉まっていて中に入れず、力尽きて刃に倒れたという。以後、洞昌院の山門に扉をつけてはならないとのことです。

 

 

 

道灌は洞昌院の裏山で荼毘に付され、ここに胴を、大慈寺に首を葬ったと伝わります。

 

 

 

正面奥の宝篋印塔が太田道灌の墓です。

 

 

 

近くに「七人塚」の石碑。

太田道灌(1432―1486)は室町時代後期の武将。各地で軍功をあげましたが、主君の扇谷上杉定正の粕屋館(現 丸山城址公園)に招かれ、入浴後に風呂場の小口から出たところを襲われ暗殺されたという。

そのとき、上杉方の攻撃を引き受けて討ち死にした道灌の家臣七名の墓所です。

 (つづく)