日本橋から歩く『大山詣』を振り返って ③ 渡辺崋山『游相日記』 | 一人、"地下鉄の地上を歩く会"

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山や街を歩いて見聞したことや身の回りのことなどをお話しします。

 【 椿椿山筆「渡辺華山像」 田原市博物館蔵 】

渡辺崋山先生には三宅坂の交差点、国道246号(青山通り)の起点からお付き合いいただきました。

 

 

 

最高裁判所の建物の前の三宅坂の平和を象徴する広告記念像。その奥の植え込みに「渡辺崋山誕生地」という説明板が設置されています。

 

『 渡辺崋山は1793年(寛政5年)にかつてこの場所にあった、田原藩(現在の愛知県)の上屋敷で生まれました。江戸時代後期の政治家として藩政改革や海防政策に業績を残す一方で、画家としても先駆的な功績を遺しました。

 華山は名を定静(さだやす)、通称を登(のぼり)といいます。はじめは華山、のちに崋山と号しました。1809年(文化6年)、16歳の時に絵師の金子金陵に入門し、後に谷文晁に学んでいます。華山の画風は西洋画法を取り入れたもので、真に迫った肖像画や写実的な花鳥画、軽妙な筆による風景画のスケッチなどを得意としました。18歳の時には、儒学者の佐藤一斎に師事し、蘭学を中心とする幅広い分野の学者で結成された「尚歯会」にも参加しました。

 1839年(天保10年)に執筆した『慎機論』で幕府の対外政策を批判したため、蛮社の獄で捕縛され、国許の田原での蟄居を命じられます。その2年後、48歳で自決し、生涯を閉じました。 』

 

 

 

大山詣を始めて早い時期に、畠堀操八氏が渡辺崋山の『游相日記』を参加者に配ってくださいました。

崋山が前藩主三宅友信の別離した生母、お銀に会いに行ったときの旅日記です。

 

 

 

崋山は天保2年(1831)9月20日、青山から渋谷道玄坂を通って、荏田宿桝屋に泊まります。(現 神奈川県青葉区荏田町)

私達は寄り道があまりにも多いとはいえ、5回目でやっとここまで来ました。昔の人は健脚だなあ、と思うことがしばしばあります。1日に25〜30kmくらい歩くのでしょうか。

 

 

 

 

次に渡辺崋山の名を見るのは、下鶴間ふるさと館。(神奈川県大和市)

 

 

 

雑貨商を営んでいた旧小倉家を復元した館内には、下鶴間に宿泊した人として、伊能忠敬、アーネスト・サトウ等とともに渡辺崋山の名がありました。

 (つづく)