六地蔵の横の閻魔堂、向かい側の地蔵堂、並びの山口黒露(俳人)の墓を参って、古東海道は共同墓地を右に見て、鈴川区の氏神様・木之元神社に出ました。
715年に大和朝廷の命を受けて鈴川の砂山(この辺り)に、玄昉僧が行住寺を建て、仏教を広めるとともに政治を行いました。
また奈良の香具山にならい、天香具山(あまのかぐやま)として樫原市の多本神社の御霊を分祀して建てたのが、この木之元神社と言われています。
神社の説明文には香具山となっているけれど、鈴川の富士塚の由来には「このあたりを天の香久山と称し・・・」となっていた。
漢字の 意味ではなく音が大事 ということかしら?
それにしても初めてご一緒させていただくこのグループ、御神木のムクロジ(無患子)の実を探しまわって、これが石鹸の代わりになるの? タネは羽根突きの羽の黒い玉に使われるのね、とのんびりムードですこぶる居心地が良い。
木之元神社の隅の石段を降りたところに石祠があり、木之元神社水神・泣沢女神(なきさわめのかみ)を祀っています。
木之元神社は富士山から連なる地下水がこんこんと湧き出る聖地であったことから、六角形の井戸を造り、「御神水」として祀ったそうです。
いつも近くを歩いていながら、あまり気にしたことがありませんでした。
前日も六角井戸のマンホールに気がついて写真を撮ったのですが・・・。
ところで・・・、
突然、話しは変わりますが、ここに富士市の郷土史研究家・奈木盛雄氏所蔵の写真集「富士登山写真 明治三十五年八月」があります。
畠堀操八氏が奈木盛雄氏から直接お借りしたものです。
✿今はかぐや姫ミュージアムが所蔵しています。
「富士登嶽團 京都探遊會」のメンバーが、吉原に始まり富士山の南側の麓を見学して、富士山本宮浅間大社、村山の興法寺大日堂(浅間神社)から村山古道を登り、頂上から須走口に降りるという一連の写真集です。
「明治35年の写真が今はどうなっているか確認し、写真を撮ってきましょう。」と、畠堀操八氏からお誘いを受けたのは2009年の冬。
畠堀氏は何度か訪れたところばかりだけれど、私は吉原と言ったら遊郭の吉原で、東海道線に吉原駅があることを知ったのは1年くらい前の新米。知らないことの連続でした。
2009年2月11日、初めて訪れたのは木之元神社でした。
奈木盛雄氏のアルバムには「香久山」とありました。
その時のことはこちらに載せました。新鮮な驚きでした。
驚くことは次々と起こり、毘沙門天の御前様にもお会いしたのです。
詳しいことはこちらに載せましたので、是非ご覧いただきたいです。
奈木盛雄蔵の写真は24ヶ所あり、2009年に半年以上かけて全ての写真を撮ってきました。
その時のことは「明治35年の写真は今!」と題して、2020年4月26日に始まり、途中脱線したことや、寄り道もありますが、7月1日までブログに載せました。
また、富士宮市の地誌・富士山研究科の遠藤秀男氏がお持ちの写真によると、京都探遊會のうちの数人は、上野や浅草にも寄っていることが分かり、そちらも訪問。
2020年7月2日〜7月4日に載せました。
実際に写真の場所を訪問したこと、10年以上経ってそれをブログに載せたことで、どんなにか知識が深まったことか・・・。
お誘いくださった畠堀操八師匠には感謝の念が絶えません。
(つづく)