東北地方太平洋沖地震・・・
揺れの中で真っ先に考えたのが
やはり子ども達のこと。
折りしも、まもなく子どもたちの下校という時間だったのです。
それでも、我が家の周りは新しい建物がほとんど。
建物などの被害はそれほど出ないはずと冷静に考え直したのですが。
同じ時刻、どれだけのお母様がたが、
同じように不安で胸が押しつぶされそうになっていたことか。
被災地の方たちは、時間的にも
ご家族と離れ離れの状態で被災された方が
とても多かったのではと思います。
実は、被害の大きかった宮城県仙台市は
私が生まれ2歳まで育った街、
そして、結婚して初めて住んだのも仙台、と
不思議なご縁のある街なのです。
もう12年くらい前になりますが
まだ子どものいなかった私達は
風光明媚な宮城県、そして東北地方を
東西南北、たくさん見て回りました。
海もあれば山もあって、食べ物も美味、
街の繁栄も東北一。
そして、伊達政宗公のお膝元ということで歴史が深く、
このときまだ「歴女」という言葉もありませんでしたが、
まさしく歴女となって
一人ゆかりの場所を散策したりしていました。
また、住んでいた太白区に隣接する名取市も
今回被害が大きかった場所ですが
当時イタリアンのレストランでアルバイトしていたときに
名取から来ている若い子たちがいました。
彼らは、標準語を話す私を、最初は警戒していたようでしたが
慣れてくると、やはりすれてないというか
とっても純朴で可愛く、
そのことが強く印象に残っています。
海の近くの畑の中の家に住んでる、と言っていた子、
夜も鍵はかけないんだ、なんてのんびり話していました。
今どうしているでしょう。
無事でいることを祈るしかありません。
先ほどガレキの中から救助された、80歳くらいのおじいちゃんが
救出直後にインタビューに答えていました。
意外にもにこにこと笑顔です。
「チリ地震も経験してるから・・・。また、みんなで再建しましょう。」
この言葉、当事者でないものが言ってはいけないと思いますが
前を向くしかないんだという、私達には知る由もない
この方の体験や思いがつまった言葉だと思いました。
私がいま生きていること、
家族が無事であった事は
当たり前ではないんだと改めて感じています。


