白ロシアの無垢の涙
少女時代のまり子は、ウクライナの国境に近い地区の村で家
族と幸せに暮らしていた。
そして、1986年のチェルノブイリ原発事故。
原発技師のまり子の父は、事故現場に慌ただしく出かけた。
あとに残されたまり子と母は、連絡の途絶えた父を捜しに国境
を越え、チェルノブイリに向かった。途中、避難のために無人
なった村は、まるで1943年のナチスドイツの侵攻で、
廃墟になった村のようであった。
ふたりが父のいる現場にたどりついた時に、あの悲劇が起きた。
まり子には少女時代の白ロシアの記憶がなかった。
幸せな思い出すら、記憶の片隅に追いやられてしまっていた。
「ブルーわたしの少女時代って幸せだったの・・・・・・?」
「いいわ、わたしがあなたの忘れた記憶を代弁するわ」と、ブ
ルーが言った。
「あなたのお父さんは、事故現場に近づいて来るあなたたちを
目ざとく見つけたのよ。放射能で汚染されたゾーンから、あな
たたちを急いで追い返そうと、持ち場から離脱してあなたたち
に駆け寄ろうとした。でも現場の兵士は、それを逃走と勘違い
して、後ろから銃撃したのよ。あなたの目の前で両親が銃殺さ
れたのよ」
「銃弾は、あなたを守ろうとしたお母さんの身体を貫通して、
あなたの胸に達しようとした。あなたのブラウスは、お母さん
の血で赤く染まった。お母さんが、銃弾の勢いを弱めてくれた
お陰で、お母さんの身体を貫通した銃弾は、あなたの胸に衝撃
を与えただけだった」
「でも、そのショックで、あなたはその日以来、少女時代の白
ロシアの記憶が失われてしまった・・・・・・」
「あなたは、村に独りで帰ったあとは、放射能で汚染されてな
い村の子供たちに、汚い子、チェルノブイリの針ねずみ、と言
われ、いじめられ遠ざけられた」
「放射能を浴びた針ねずみは、体毛が抜け落ちた汚い団子、と
言われ蔑まられた。それは汚染地の子供に対する差別語だった
の」
「村の子供たちに、ニガヨモギの星をつくった悪魔の子と罵ら
れ、石を投げつけられた・・・・・・」
「あなたはその日以来、どれ程の悲しみに出会っても、人前で
泣くのが嫌いじゃなくて、泣けなくなったのよ。独りでいる時
でも、涙が出なくなったのよ・・・・・」
「兵士も、まり子のお父さんもお母さんも、人を愛するがゆえ
の悲劇だった。幼いあなたの悲しみと怒りは、自然の運命に、
むごすぎる摂理に向けるしか仕方がなかた・・・・・・」
まり子は、あの日以来、初めて涙が止めどもなくあふれ出た。
白ロシアの無垢の涙が止めどもなくあふれ出た。
まり子の嗚咽の声は、悲しいセレナーデの歌声ように、全天に
響きわたった。
まり子の光の涙は、まり子の個の意識と悲しみは、無限の宇宙
と永遠の時間の、全体の意識に融合され共有された。
無限の空間の光球の中の、光のリングも光の気泡のような存在
も、まり子の光の涙をかたどった。
涙は幸せ
涙の出ない瞳は
煉獄の悲しみ
むごすぎる悲しみの中では
涙はでない
むごすぎる運命の中では
泣くことすら許されない
むごすぎる摂理の中では
無垢の涙すら許されない・・・・
あたしは神を許さない
むごい自然の摂理を許さない
むごい物理法則を許さない
神さまには意思はない
心もない
あるのは物理法則だけ
ひとには
完全な自由意思がない
ひとは罪もないのに
悲しい運命に翻弄される
心をふみにじられる
自由な心さえも
許されていないように感じる
でもひとは
心に痛みを感じる
もちろん
心地良さも
物事が存在できるのは
自然界が
人間社会が
物理法則が不平等だから
幸せも不幸せも存在する
全てが平等なら
熱力学的平衡宇宙になる
生命も物事も
幸せも不幸せも存在できない
何も存在できない
世界中一年間で
数百万人以上が
不遇死や
自殺に追い込まれている
酷すぎる
あたしは神を永遠に許さない
むごい自然の摂理を永遠に許さない
むごい物理法則を永遠に許さない
そんなむごい神なら
あたしは死んでも堕天使でいい
永遠に堕天使でいい
永遠に堕天使として神に反逆する
時間がかかるかも知れない
でも未来は明るくできる
人間の心が
神さまなのだから・・・・・・
宇宙開闢
「あたしは、ニガヨモギの星の子なのね、両親を死なせた罪深
い子だったのね・・・・・・」
「あの日、あたしが母に、お父さんを捜しに行こうって、言わ
なければよかったのよ」
まり子は顔をくしゃくしゃにして、肩を落とし、見上げるよう
にブルーを見つめた。
ブルーは慈しむようにまり子を見つめかえした。
「ブルー、あたし、何度も泣いていたわよ」
「涙が出てきて、しかたがなかった夜もあったのよ」
「あなたは、自分でそんなふうに思いこんでいただけよ、意識
のなかで」
ブルーは優しくさとすように言った。
「あなたは涙を出して泣きたかったのよ」
「でも、涙を流すことで、自分の罪を償い、自分を癒そうとす
ることは、さらに罪深いことだって思いこんでいたの」
「あなたの心の黒い森の中は、空白の少女時代から、ずっと、
どしゃ降りの雨を降らしていたのよ」
「それも毎晩、バスタブでね」
ブルーは、まり子の出口のない黒い森に、優しい陽差しを注ご
うとした。
「うっ」
まり子はゆで卵を、丸ごとのみ込んだ感じになった。
「ってことは・・・・・・バスルームの・・・・・・」
「カエルみたいなヒッピアップ体操の場面も・・・・・・」
「ごめんね!」
「プライバシーは尊重して、見て見ないふりをしてたわよう」
「うふっ」
ブルーは小首をかしげてにっこり。
「ふ、ふりって!」
「じゃあ、見ていたんじゃなあい!」
「ウフ」(OUF、仏語でやれやれの意味)
「トゥ ララー ♪
ル ラ ラー ♪」
「あたしの大好きなトゥーランドットで、はぐらかさないでっ、
ナイスバディーを維持するのって、涙ぐましい努力が必要なの
よ!」
「ところでブルー、あたしがこうなったのは青い媚薬がきっか
けだったんでしょう・・・・・・クリスマスの夜に、ブルーがあたし
にプレゼントしてくれた二つの媚薬、あの液体は本当は何だっ
たの・・・・・・青いポワゾンには、手を出さないでって、ブルーが
警告したでしょう」
「青い媚薬は堕天使の涙、赤い媚薬は大天使の涙と云い伝えら
れていてね。青い媚薬は時間のひずみに誘惑するポワゾンなの」
と、ブルー。
「それじゃ赤い媚薬は何なの・・・・・・」
まり子は小首をかしげて訊ねた。
「赤い媚薬は希望という涙」
「いつも赤と青はペアでなければ存在できないの・・・・・・粒子と
反粒子のようなもの」
「それじゃ、赤い媚薬を使えば、あたしの願い事は叶えられる
の・・・・・・」
まり子は目をらんらんと輝かせて訊いた。
「そうよ!」にこっとブルー。
「ただし三度だったけれどもね、あと、一度だけになったわね」
「どうして」
「あなたは、すでに二度、願い事をしてしまったの。初めの一
度目の願い事は、セーシェルの月の小舟の詩集を見つける事、
二度目は横浜のお墓で、時間のひずみから抜け出したいと願っ
た事。あなたの、セーシェルの月の小舟の詩集があったから、
あなたにわたしのメッセージを伝えることができたのよ。横浜
の倫子さんの、コスモスの丘にある三日月型のお墓まで導くこ
とができたのよ・・・・・・」
「NorikoのoとMarikoのaを組み合わせると、@マーク、二
重リングができるでしょう。あそこに、あなたの意識パルスを
増幅させる青い粒子を埋め込んでおいたのよ。それで、あなた
の意識を時間のひずみから救い出すことができたの」
ブルーの優しさが愛らしく感じられたまり子であった。
「それじゃ、あたしの肉体は・・・・・・」と、まり子。
「物理的な問題はどうにもなるわ」
ブルーの優しさの中に凛とした言葉がしのばれた。
「人の身体は意識を入れる器なのよ。せっかく、星の旅人にな
れたのだから、もっとこの次元を楽しめばいいのよ。わたした
ちは、もうスペース・プレーヤーなのよ。意識には完全で絶対
の自由があるの、質量粒子や波動に束縛されない限りね。でも、
束縛されないと、自分の存在感が消えちゃうのよ。だから・・・・
自分で自分を束縛するルールを創ってね」
「大丈夫、意識同士の連携プレーよ。助け合って進化し続ける
の。新しいイメージができたら共有しあうのよ。そうしなけれ
ば宇宙は創造できないし、進化も停滞してしまう・・・・・」
「大丈夫、みんな優しいわよ」
「さあ、暗黒の空間を、希望の暖かい光に満ちた宇宙に創りか
えるのよ、レッツゴー」
「もう、ブルーたら、一人で熱くならないで」
「ウフ」と、ブルー。
まり子たちのブルー・スターダストは、膨脹しきった宇宙ボ
イドの透明な光の表面に浮かんでいた。
ちょうど、一円玉がコップの水の表面張力で浮かぶように。そ
してブルー・スターダストのまわりでは、涙をかたどったよう
な透明な光の雫が、宇宙ボイドの光の海面に落ち、波紋がひろ
がりはじめていた。
宇宙ボイドは、真空分離を完了させ、真空相転移と宇宙開闢の
時をむかえていた。
砂時計を逆さまにしたように、透明な光の砂粒が反時計まわり
に渦巻きはじめた。
負のエネルギーホールの静かな透明の光・重力子素子と、外界
の電子素子と陽電子素子を巻きこみながら・・・・・・。
その反時計まわりに渦巻く、うねる細長い筒型の中心は、絶対
真空の領域、重力子のストリング・ホールに変換された。
まり子たちのブルー・スターダストは、そのストリング・ホー
ルにのみ込まれ、暗黒の膨脹しきった宇宙ボイドの中心にむか
って落ち込んでいった。