Blue Stardust ( I-novel SF )・・・11 | mcode

mcode

人文のジャンル:アート・科学・哲学・文学・音楽




   タイム・ウエーブのひずみ


 墓石のMarikoの文字はNorikoの文字にいれかわ
っていた。
 墓石の裏側には「1996年没・インド洋セーシェル諸島・
海洋生物調査中海難事故」と刻まれていた。49年前の倫子の
墓であった。

 まり子の身体は碧い海に没し、こまやかな白い泡が、赤く褐
色に火照った身体を包み込むように取り巻いていた。

「ブルー、ブルー、ブルー・・・・・・」


 セーシェルの月の小舟 

 180平方センチメートルのターコイズブルーの水面がゆら
ゆら揺れていた。
セーシェル諸島の海面だけを写した写真が、透明な水を満たし
た水槽の向こう側にあり、それがシルバーピンクが泳ぐたびに
かげろうのように揺れていた。
それはシルビーと呼ばれていた。
シルビーを見つけたのは去年の真夏、セーシェル諸島の取材旅
行の時であった。
セーシェルの南端にある小さな島、もちろん小さすぎて地図な
どには載っていないが、島の長老はその島を擬態の島と呼んで
いた。

 カイメン(海綿動物)が群生する海、セーシェル諸島、擬態
の島。
カイメンは約40億年前の太古の海に最初に発生した生物。
生きた化石。
その生態は近年ようやく知られるようになった。カイメンの細
胞ひとつひとつは自律し、自由に動くことのできる共生体であ
る。ふだんは一体の複合体として活動する。
 
 あれから20年以上経った。葉太はすでに初老をむかえよう
としていた。
あのころ、葉太と倫子は顔を会わせるとしょっちゅう喧嘩をし
ていた。そのせいか、倫子は葉太にまともに自分の素直な気持
ちを打ち明けられないでいた。
「バカ、バカバカ」・・・・・・ガッタッ。倫子が勢いよく立ったせ
いで椅子が倒れた。
それ以後二人は会わずして、倫子は夏のセーシェル諸島に生物
学の仕事で旅だった。
葉太の暮らす東京は、かげろうが揺らめく熱い夏が終わろうと
していた。
カナカナ・・・・・ひぐらしが葉太の耳には悲痛にきこえた。
ルルル・・・・・・ルル・・・・・・電話のベルでひぐらしのなき声が一瞬
やんだ。
透明でいて限りなく碧い海の中で、細やかな白い泡が倫子の微
かにあかく褐色に火照った身体を、包み込むように取り巻いて
いた。
葉太は見とれていた。
ルル・・・・・・ルルル・・・・・・
葉太は白日夢を見ていた。
もしもし、もしもし・・・・・・

 倫子の墓は横浜の海の見える高台にあった。
すでに墓石には苔が付き風化していた。
まわりには薄紫色のアザミの花が、夏の終わりを告げる風にそ
よいでいた。
葉太は毎年夏が終わるころ自然にこの高台に足が向くのだった。
葉太はその高台から、ターコイズブルーの海と、横に長く白い
ラインを描き岸に打ち寄せる波を見ていた。
(セーシェル諸島か・・・・・・おれも一度、行ってみようかなあ、
取材旅行を兼ねて・・・・・・)


 セーシェル諸島の倫子
 
 海洋生物調査は最南端の小島ひとつを残し、倫子は久々に休
暇をとっていた。
カイメンが最も多く棲息する海域、そして不思議さをひっそり
と抱き、ただ美しさだけをたたえるかのような海域。
セーシェル諸島。
しかし、自然の美しさは美しいほど、それと同等に人間の意の
ままにならない脅威もはらんでいる。
 
 夕凪の紺碧の海原に、島の漁師が70年代から愛用してきた
旧式の小さな帆船。珊瑚が白く石灰化したようなその船艙に、
紺碧のウォーターベットにもぐり込もうとする太陽の光りが当
たり、照り返しで甲板までサーモンピンクに色付いていた。
50海里ほど先の海上では閃光が瞬いていた。
海洋の嵐は瞬時にやってくる。
船室でうたた寝をする倫子は嵐の気配に気付かずにいた。
都会育ちの倫子は生物には明るいが、自然の脅威には疎かった。
 
 クアーン、クアーン、ギィギィー、船室が水圧できしむ音で
倫子は目をさました。
倫子は暗く冷たい空気の中で、夢まどろみと引き換えに驚きと
恐怖に襲われ、また意識が遠のくのを感じた。力の限り声をあ
らげ、かろうじて意識を保った。
海の底に沈んでからすでに数日が経過していた。
倫子の横たわった身体のほとんどは、数種類の白い斑点を点在
させたエンジ色のカイメンにおおわれていた。
カイメンは二酸化炭素呼吸の生物で、絶望の闇の中に酸素を吐
き出していた。
倫子は闇に目が慣れると、幽かな青白い光りの波紋が船室の壁
を揺らしているのが見えた。それが倫子には勇気付けられるよ
うに思えた。
倫子の身体はしびれてはいたが、おおわれたカイメンから抜け
出すことができた。
そして、震える力さえも消え失せた身体で、海中ライトを手探
りで探した。見つけることが容易でないことを悟るのにはさほ
ど時間はいらなかった。
あきらめうつ伏せになった。その脇腹にかたいものが当たった。
はらいのけようと手を差し入れ、それが海中ライトであること
に気が付いた。
「ああ、神様」無意識に声がでた。海中ライトに微かな明かり
が点った。
倫子は出しうる限りの声で叫んだ。
「生きてるのよ・・・・・・」
「ここよ・・・・・・」
むなしく船室の壁に当たり反響するだけだった。 
さらに水圧のきしみは激しさを増していた。
ギィギィーと、きしむ音に倫子の声は打ち消されていた。

 ライフワーク・・・・・死・・・・・星の下の必然・・・・・・・・。
 恋は・・・空間・・・・・・。愛・・・距離・・・・・・・だった・・・・・・・。
 まだ・・・・・・。
 あたしは生きてる・・・・・・あたしは生きてる。
 あたしは生きてるのよ・・・・・・。
 あたしは・・・・・・あたしは・・・・・・。

「神さま、神さま、神さま、助けて」
「葉太・・・・・・」
倫子は再び意識がかすれてゆくのを感じた。
かすれる意識の中で、カイメンの種類には一生の間で擬態を数
回くりかえし、最後に形成された擬態が、100年以上の時を
経ても変わらずにいる自律型のカイメンもいることを思い起こ
した。
倫子は最後の力を振り絞り、カイメンの中に葉太が呉れたシル
バーピンクの三日月形のペンダントを投げ入れた。


 セーシェルの月の小舟  詩集 序詩  

 時の流れは 

 月の小舟の掛け橋  
 
 月の小舟を導く航路 
 
 時の狭間に 

 紺碧の波間に

 月の想い出を託して
 
 悠久の思いを刻む・・・・・・
 
 
 時が止めどもなく流れ、
 セピア色に変わりゆく一枚の写真。
 セピア色の向こう側に、押しやられた想い出。
 
 歳月が朽ちても、いつまでも変わらない微笑みがある。
 
 季節が巡り、枯葉が舞うように、
 風に吹かれ、紺碧の波間に、大地に朽ちゆくセピア色の写真。
 名前も知らない一枚の写真。
 
 幸せだったのか、不幸せだったのかも知らない。
 朽ちかけたセピア色の写真は、
 ただただ、いつまでも微笑んでいる。

 川の流れののように、時の川面に浮かぶセピア色の写真。
 海に流され、波間に漂うセピア色の写真。
 月の小舟のように、星々の輝く紺碧の大海を、
 旅をするのだろうか。
  
 もしも、
 ほんの一瞬、お互いの時間が、すれ違ったとしたら、
 君は、微かに光る、ひとすじの流星に気が付くだろうか。
 月の小舟に気が付くだろうか。
 
 もしも、
 共通する美しい海の想い出が育まれ、
 それが、紺碧の深海に、沈んでしまったとしたら、
 月の小舟を、悠久の時の流れの中に、
 再び、見付けることができるだろうか。
 隣り合せの時間に、気が付くだろうか。
 セピア色の彼方に、想いを馳せて・・・・・・


 シルバーピンクの三日月型のカイメン
 
 大地は満月の夜をいくたび迎えたろうか。
人の歴史がめくるめくように変わりゆく中に、悠久の時の狭間
に、昔も今も変わらない光り輝く満月があった。
 
 歳月は流れ倫子の海難事故から120年余りが経過していた。  
 南海大学の生物学部の研究室の保管棚には、ホロマリン漬け
の葉太のカイメンが保存されていた。
「教授、このカイメンは変わった形をしていますね」
「それに、なぜホロマリンで保存ですか」
研究生は訝し気な面持ちで尋ねた。
「ん、それはだ、生きた化石のわりには、原始的なコラーゲン
を既に有していて、自律型でね、つい最近まで水槽で動き回っ
ていたんだよ」
教授は高田に背を向けたまま顕微鏡から顔を離さず答えた。
「それにしても、変わった形をしていますね!」
「解剖もしていない様子ですし」
研究生は、カイメンの入ったビンを手にして言った。
「CTスキャンには掛けたがね、何も出なかったよ」
「では、解剖はまだなんですね、してよろしいでしょうか」
好奇の目をして研究生は訊ねた。
 数日後、解剖されたカイメンの内部から、数ミリの長さの髪
の毛が発見された。
(なぜ髪の毛が・・・・・・カイメンの特異形体と因果関係があるの
だろうか・・・・・・)
研究生は腕組みをして考えあぐねた。
 2120年代では、男性のY染色体の遺伝学的必然性コピー
エラーと異常気象によって、世界の人工は激減しており、国を
あげて国民のDNA保存が施行されていた。
したがって、国民の全てはDNA登録がされていた。公的機関
以外には生物学研究所のみDNAで過去を溯ること、家系をコ
ンピューター走査から調べることは可能であった。
(そうか!あの髪の毛は海洋生物を研究をしていた女性のもの
なのか・・・・・・)
 デジタル画面には、1996年、インド洋、セーシェル諸島
沖で海難事故。消息は不明と表示されていた。
黄昏れる夏の日差しの中、大学のキャンバスの木々の合間から、
ひぐらしのカナカナのなき声が微かに聴こえてきた。
(ああ、ひぐらしか・・・・・・)
研究生の高田は子供時代に数度だけ耳にしただけだった。
最近では珍しかった。
八月下旬、夏休みでも研究室は開放されていた。
「教授、来週からセーシェル諸島に旅行に行ってきますう」
 
 夏のインド洋は連日摂氏40度を越えていた。
(あつう、あともう少し、探すか・・・・・・)
研究生の高田の顔は、メラミン色素の皮膚が斑にはげて、みす
ぼらしくも逞しく変貌していた。
高田は、ヤシの葉のそよぐ白い珊瑚の浜辺に腰を据えて、夕陽
で赤く染まったインド洋のセーシェルの最南端の小島を見つめ
ていた。
夕陽が小島をダークブルーの影絵に変えていた。
人魚が上半身を海面から出し、両腕を広げているような島影で
あった。
(影の擬態、人魚の島かあ・・・・・・)
高田はうっとりとして呟いた。
夕陽は既にダークブルーの海に没していた。そして上弦の月が
穏やかなインド洋の水面に浮いていた。
涼やかなそよ風が波間をくぐり抜け、潮騒と共に悠久の時の彼
方から囁いてくるようであった。
(月、月・・・・・・月の海面・・・・・・月のカイメン・・・・・・)
高田は目をまるくして呟いた。
(そうだ!三日月型のカイメンを探したら、手がかりがあるの
では・・・・・・海難事故から120年も経っている・・・・・・)
(今も存在するだろうか、その形の擬態を維持している・・・・・・
ありえない!)
高田は、ため息をつきながら肩を落とした。
(明日は、セーシェル最南端、あの小島に行ってみよう)

 地図に記載されていない小さな島であった。
高田は太陽が頭上にギラギラと輝くころ、砂浜らしき砂浜もな
い小島を半分以上ボートで回遊し、かろうじてボートを横付け
できる岩場を見付けた。
岩と岩の隙間は深い海を成し、限りなく透明に近いウルトラマ
リンブルー色をしていた。
その小さな入り江にボートを停泊させて岩場に上陸した。
数歩前進して、植物の生えたところまで辿り着いた。植物の茎
の根元には白く朽ちかけた珊瑚が散乱していた。
(チェッ!珊瑚だけか!・・・・・・)
数時間かけ、島を一周して岩の入り江に戻った。
高田の半ズボンのすねはツル草で血がにじんでいた。
岩場のボートのロープをほどこうとした。その時、海面に三日
月形の影が見えた。
高田は歓喜した。
確かに三日月型である。しかも、深場の海中には無数に泳いで
いるように見えた。
それは沖に向っていた。
インド洋は紺碧の海からダークブルー色に変わろうとしていた。
日没が迫っていた。
(ヤバい!戻らなければ・・・・・・)
(あれは、沖の何処に向っているんだろう・・・・・・)
(明日、もう一度来よう!)

 翌日、高田はシルバーピンクの三日月形のカイメンに導かれ、
120年前に海中に没した倫子の船を発見した。
船の回り一帯の紺碧の海面は光り輝き、海底は光の波紋がゆら
ゆらと揺れていた。
海藻の波打つ間に船は天地が逆になり、船底が上に反り上がっ
て下弦の月の形をしていた。高田はボンベを付け陥没した船底
を覗いた。光のない黒い穴が開口していた。海中ライトを点し
た。
鮮やかなシルバーピンクのカイメンが船室の中央で隆起してい
た。(あの中に・・・・・・)
高田はその日の内に地元の海上保安局に出向き、海難事故現場
の捜索を依頼した。
日本の生物学研究所にも電話を入れた。
数週間後、地元の海上保安局と日本の生物学研究所のチームが
結成され、倫子の船は引き上げられた。
船室にはひとかたまりの共生体のカイメンが棲息していた。
倫子の遺体は発見されなかった。
120年の歳月は倫子の想い出だけを残し、跡形もなく紺碧の
時の彼方に封じ込められてしまったのだろうか。
ひとかたまりの共生体のカイメンは日本の海洋生物研究のため、
高田の功績を尊重して南海大学の生物学部に搬送された。
日本はかげろうが揺らめく熱い夏が終わり、初秋を迎えていた。

 
 10月26日、満月の夜

 高田はいまだに時差ぼけをしていた。
大学の研究室に入るのは、連日、昼過ぎであった。
高田は今日も遅れた分を取り戻そうと、遅くまで研究室にいた。
「高田くん、また遅いの」
同僚の和代であった。
和代は高田よりも年下にもかかわらず、高田を呼ぶ時はくん付
けなのだ。
大学では高田は和代よりも後輩であった。
「ああ、うん・・・・・・まあ、そんなとこ」
気のない返事だ。
高田は和代を密かに気にかけていた。恋に臆病な高田は好きに
なればなるほど態度に出せないでいた。 
(才色兼備は、君のために発明された言葉だな・・・・・・ふっ)
高田は和代の後ろ姿を見送り、ため息をつきながら呟いた。
今夜は十五夜であった。
地平線に近い満月はひときわ大きく輝き、研究室の窓ガラスの
フレームを妖しく光らせていた。
月の光は、やがて、カイメンを入れた水槽の水面まで達し、鏡
のように光り輝かせ始めた。満月の夜、カイメンは活性化する
性質があった。カイメンからは細やかな幾つもの気泡が左右に
ゆらめきながら浮上して、水槽の水面に波紋を描いていた。
カイメンは二酸化酸素を吸収して、酸素を吐き出していた。
高田は水槽を見つめ神秘的な海の世界が研究室にあると思った。
(サンプルを少し頂いてみようか・・・・・・)
高田は自宅に持ち帰るつもりだった。
解剖用メスでカイメンを少し削り始めた。
意外に硬かった。ハンマーで解剖メスの頭を叩くとカイメンか
らは乾いた音がした。
(中は一部空洞か・・・・・・)
続いてもう一撃を加えた。外殻が陥没した。
そして、破片を取り除いた。
すると、中から白く柔らかな組織が月明りに照らし出された。
さらに外殻を開くと、白い陶器のような美しい流線形が現れた。
高田は全身が鳥肌立ち、呆然とした。そして震えた。
(ああっ・・・・・・)
声を出したはずが音にならなかった。息だけで叫んだ。
全裸の女性がカイメンに守られ仮死状態で保存されていたのだ。
酸素と養分はカイメンにより補給されていたのだった。
 数日後、倫子は、特殊病理学研究病棟のベットに横たわって
いた。
三十歳代の若さのまま蘇生したのだった。
しかし、その生命は、数日しか生きられない。蘇生された肉体
は数日で老化する運命なのだった。
「倫子さん、お早う!」
和代が倫子の世話係を買って出たのだった。
「今日もだめかしら、意識は戻らないのかなー」和代は口をつ
ぼめて呟いた。
「脳波オッケー、心電図も正常ね」和代は倫子に話し掛けるよ
うに言った。
「体温は33度かあ・・・・・・もうちょっと欲しいわね」
「和代さん、おはよー」
高田が扉を開けるのと同時に和代に声をかけた。
「お・は・よ・・・・・・」
 高田と和代は見つめ合った。
「君・・・・・・じゃない!」
高田と和代は同時に、ゆっくりと、倫子のベッドを振り向いた。
永遠とも思われる時間の歪みから、儚い命の灯が陽炎のように
立ち上った瞬間であった。

 頬にほんのりと赤味を蘇らせた倫子は、教授から120年間
の出来事の説明を受けた。そして、数日の運命であることも。
「わたし、わたしの家族は何処? 逢いたい!」
倫子は教授と高田を交互に見つめて言った。 
「残念ですが、現在は不明です。きっと、あなたの家族の子孫
の方は・・・・・・」教授は優しく静かに答えた。

 倫子の病室の窓辺にはコスモスの咲く裏庭が広がっていた。
コスモスの花は秋の優しい風にそよぎ、青い海原のように波う
ち、花壇のそばの黄色く色付いた銀杏の葉は、やわらかな日差
しでキラキラと輝いていた。
夕暮れになると、銀杏の黄色い葉はときおり吹く強めの風で、
コスモスの海原にさらさらと舞い降り、薄紅色のコスモスの花
は夕陽で黄色く色付き、月の小舟のように青い海原に漂いはじ
めた。
でも、翌日になると散ったはずの銀杏の葉は、もとの小枝に、
コスモスの花びらは同じところで秋風にそよいでいた。
毎日毎日同じことが繰り返されていた。
そんなある日、夜も昼もない120年間の紺碧の海原にとつぜ
ん異変が起きた。
満月の輝く夜がやってきた。
紺碧の波間に漂う月の小舟は、砂浜に輝き、そして、葉太の両
手を合せ広げた中には月の小舟があり、微笑みながら、倫子に
見せて、見付けたよ!
倫子の月の小舟・・・・・・倫子・・・・・・
「倫子さん!・・・・・・倫子さん、おはよう!」
倫子は高田の声で目が覚めた。
 倫子の集中治療とリハビリは順調にすすみ、数週間もすると
倫子は奇跡的に予想外に若さを維持したまま生気を取り戻した。
数日の運命は数カ月に延命された。
それはカイメンが吐き出す酸素を採集して、夜の睡眠時に人工
呼吸の処置をしていることが成功していた。
カイメンの吐き出す酸素は、人間のDNAを破壊する有毒な活
性酸素を発生させない不思議な働きがあった。倫子の吐き出す
二酸化炭素はカイメンが吸収して酸素に変え、倫子に供給する
といった循環型の共生関係が形成されていた。
驚くべき120年間の生態系進化である。
体力が回復した倫子は半日ぐらいなら外出が許可された。


 善福寺川

 倫子は高田の自動操縦の車で横浜に案内された。
高田が中華街の軽いランチと横浜の港の散歩に誘ったのだった。
赤レンガの倉庫は博物館のドームに納まっていた。
昔の風情は一変していた。
ただ、中華街はさほど変わっていないように見えた。
でも配膳するウエートレスはロボットのようであった。
表向きには取り立てて、そんなことは公表されていないらしか
った。
もう人間に似せたライフロボットは珍しくなかったのだった。
ランチを済ませた高田と倫子は、中華街から港までは歩いてゆ
くことにした。
港を目前にして倫子は思い出したように立ち止まった。
「高田さん、わたし、独りで荻窪に行ってみたい!」
倫子は高田に懇願した。
「海はいいの・・・・君は自由だけれど、ただ、夜には病院に戻ら
ないと、身体に異変が起きるといけないから、いいね約束だよ」
高田は深刻な眼差しで倫子を見つめた。
高田はいざという時のために、自分のマネーカードを倫子に渡
し横浜駅まで送った。

 電車は全てリニヤモーター化され全線乗車賃は無料であった。
中央線には荻窪の駅は無かった。
駅名は符号化されていたのだった。
倫子は新宿から通過する駅を数えて、おおよその検討を付けて
荻窪駅らしきホームで下車した。
荻窪は昔、葉太が暮らしていた。
倫子は改札を出て緑の広場に出た。
倫子は街並を見て青ざめた。
温かな血液が凍り付き、全身の力が抜けてゆくようだった。
まったく昔の面影はなく、見知らぬ外国におりたったような感
覚だった。
葉太もすでに居るはずがないことは理解していたが、あんまり
だった。
涙が120年の時を駆け巡り、120年間の哀しみと孤独が一
気に溢れ出てくるのを感じた。
倫子はそれでも、葉太の工房があった方角に歩こうとした。
地に足が付いていないような脱力感を必死にこらえて歩いた。
駅前の街並はドームシティーのようになっており、看板も電柱
も無く、都市整備されていた。
書籍の店鋪に並ぶ保存本はデジタル化されており、昔ながらの
紙の雑誌書籍は骨董品扱いされ、貴重品になっていた。
倫子はドームの街並を抜けて川に出た。
(善福寺川・・・・・・善福寺川だわ!)
失われた120年の時を超え、数ヶ月前の想い出のように倫子
の心の記憶を蘇らせた。
川の水は昔の善福寺川よりも綺麗で、澄んでいるように見えた。
倫子は川上に歩き、おぼろげな記憶に残る橋を探すことにした。
昔、あの時代、葉太の工房は橋の傍にあった。
途中、ブックオフの書籍店の上部外壁に設置したデジタル画面
に懐かしい映像が見えた。
(シルバーピンクの三日月だわ!)
デジタル書籍の装丁のデザインだった。
倫子は書籍店の店頭に目を落とした。
そこの棚に並ぶ古びた紙本の背には、[ セーシェルの月の小舟 ]
の文字が印刷されていた・・・・・・。 

「倫子さん、お早う!」
和代が倫子の世話係を買って出たのだった。
「今日もだめかしら、意識は戻らないのかなあ」
和代は口をつぼめて呟いた。

 まり子は、時の鼓動、時空のひずみに漂っていた。

「和代さん、おはよう」
高田が扉を開けるのと同時に和代に声をかけた。
「お・は・よ・・・・・・」
高田と和代は見つめあった。
「君・・・・・・じゃない」
高田と和代は同時にゆっくりと、まり子のベッドを振り向いた。
まり子は、時間のひずみの3度目の朝をむかえたのだった。
頬にほんのりと赤味を蘇らせたまり子は、高田に「あなたの身
体は、老化せず、肉体の衰えが全くありません」と告げられた。
「わたし、わたし・・・・・・」
「ずっと寝ていたの・・・・・・ずっと寝たきりだったの・・・・・・」
まり子は高田と和代を交互に見つめて尋ねた。
「そうよ、倫子さん」研究生の和代が優しい眼差しでこたえた。
「え・・・・・・倫子さん・・・・・・」まり子は愕然とした。
まり子は和代をみつめて、全身の温かな血液が凍り付くような
衝撃に襲われた。
目の前に立つ白い研究衣の和代は、まり子の見覚えのない若い
女性だった。
まり子は高田に精密検査された後、病室に戻ると、ベッドのサ
イドテーブルに「セーシェルの月の小舟」の本が置かれている
ことに気付いた。
(違う、また昨日と違ってる・・・・・・)
研究生の和代が朝食をもって、まり子の病室に戻ってきた。
「今朝は特別に、横浜の中華街から美味しいお粥を出前したの
よ」トレイをサイドテーブルに置き、笑みをうかべて言った。
「ありがとう、ところで今は何年なの」
「2116年、10月30日よ」
まり子とブルーがいた時代の2007年から109年以上も経
過していた。