銅の軍神コラム㉖「新田公六百年記念祭」 | 智本光隆ブログ

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1,新田公六百年記念祭

 

 

昭和天皇誤導事件のあと、群馬でも義貞顕彰で目立った動きはなくなりました。

やや、時が流れまして昭和13年(1338)は義貞が福井の燈明寺畷で戦死してから600年・・・

ですので「戦没六百年祭」が計画されました。新田公会でもこれは活動の柱でしたが、誤導事件で活動休止になり、計画も一度は白紙に戻っています。

 

 

ところが・・・

昭和12年(1937)になり、盧溝橋事件により日中戦争が勃発しました。近衛文麿内閣は国民の戦意高揚を図る為、「挙国一致、尽忠報国、堅忍持久」をスローガンとして国民精神総動員運動を推進。日本は戦争の泥沼へと突き進んで行きます。これにより「国威発揚」の象徴的な役割として、代々的に義貞の顕彰運動が執り行なわれる事となりました。

また、義貞が時代の表舞台へと引っ張りだされます。

 

 

さて、その式典の日付ですが、群馬は挙兵祭と同じく5月8日を希望。これに対して、義貞戦死地の福井は戦没日を提案します。義貞の戦死は建武五年(1338)閏7月2日なので、これをユリウス暦に置き換えると8月25日

結局、両者で足並みを揃えることとして、義貞が鎌倉を陥落させた5月22日となりました。こうして「新田公六百年記念祭」は挙行されることになりました。

 

 

迎えた5月22日当日、新田神社、生品神社の祭典には県から代表者が参列し、県内の各社においても一斉に式典が行なわれました。

金龍寺や長楽寺を始めとした新田氏由縁の寺院では法要が執り行なわれた他、全県下の学校で記念式典、訓話などを実施。太田では緑のアーチを立て花火を打ち上げ、美々しい大名行列が2日に渡って街を練り歩き、約15万人の見物客が県内外から押し寄せました。太田の小学生男女が大中黒や日章旗の小旗を手にして、行列に参加しています。

 

 

昭和8年の時と違う点は、これが地元から発生した動きではなく、群馬県の主導で全県で一斉に執り行われたことですね。県都前橋では東照宮において式典が挙行され、高崎では中央小学校の校庭で義貞銅像の除幕式が執り行なわれています。これらの様子は「太田始め全県に開かれた繪巻」として、「芽出度大団円となつた」と伝えています。

 

 

これって今ならどうなったんだろう。芸能人を呼んで義貞に扮して、武者行列でもやるんでしょうか。少し前なら多分、根津甚八さんで確定か?

今なら誰だろう・・・?

 

 

2,福井県の式典

 

ただ、「新田公六百年記念祭」の中心は群馬ではなくて、むしろ福井でした。戦死地は福井なので、ある意味で当然なのかも知れませんが。

 

 

福井では「新田義貞公六百年大祭奉賛会」が組織され、名誉総裁には徳川家達公爵、総裁に松平康昌侯爵、顧問には岡田啓介海軍大将、新田義美男爵が就任しています。こちらは5月20日の神幸祭、21日の還幸祭、22日の奉祝大祭、23日の奉祝祭、24日の後祭と5日間に渡って挙行されています。かなり大々的です。

福井は越前松平家が大名でしたから、徳川家からの参加者が多いです。この時代は「朝敵 徳川」というイメージもすでに薄いようです。

 

 

21日の還幸祭では、義貞が戦死した燈明寺畷から藤島神社までパレードが行なわれ、23日の藤島神社で執り行なわれた奉祝祭には松平康昌侯爵、松平義民子爵、新田義美男爵等を始め、岡田啓介海軍大将や熊谷五右衛門衆議院議員、平泉澄東京帝国大学教授も参列。

・・・新田義美男爵は群馬ではなく福井の式典に参列しているんです。猫絵でつないだ群馬の民との絆はどこへ行った?なお、この時点では武子の弟・新田忠純は故人なので、新田で生まれ育った人間は岩松家にもすでにいません。理由としては、義美氏の姉・幸子が松平慶民子爵(松平慶永三男)の室であった為と思われますが。

 

 

他に数々の奉納行事・・・能楽、剣舞、琵琶、舞踊、武道大会、弓道大会、野球大会、相撲大会、花火が執り行なわれ、文化映画も上映されるなど、群馬を越える規模で展開されました。藤島神社では更に同年6月18日、奉賽祭が執り行なわれています。

 

 

 

 

 

新田公六百年記念祭の様子

上  記念祭のポスター

中下 祭典当時の藤島神社

 

 

3,閏7月2日は何日?

 

ここでちょっと寄り道を。

前にも同じ内容を書いたことがありますが。なので、ほぼ転載という気も。

 

 

新田義貞が越前燈明寺畷で戦死を遂げたのは、建武5年/暦応元年(1338年)の閏7月2日。

これを新暦にすると何時・・・?

 

 

ネットで調べると「8月17日」「8月25日」のふたつがヒットします。どちらが正しいのか?

実はこれは、少々ややこしい。

まず、日本では明治初年まで太陰暦が使用されましたが、ヨーロッパでは紀元前45年にユリウス暦が導入されました。ユリウスとはカエサル(シーザー)のことです。

 

 

時が流れ、より誤差の小さなグレゴリウス暦に切り替えられたのは、日本では本能寺の変のあった1582年。グレゴリウス13世が施行したので、グレゴリウス暦と呼ばれています。

 

 

日本では明治維新後、明治6年12月12日→明治7年1月1日へと切り替えています。この時、使用されたのがグレゴリウス暦で「新暦」と呼ばれています。

 

 

では、1338年閏7月2日は新暦では?

1338年当時、まだ欧州でもユリウス暦の時代です。そこに当てはめれば「8月17日」になります。

ですが、「もし、当時にグレゴリウス暦があったら?」として換算すると、その場合が「8月25日」

 

 

太陰暦     閏7月2日

ユリウス暦   8月17日

グレゴリウス暦 8月25日

 

 

このようになりますね。

なので、義貞の法要、例祭などがけっこうばらばらだったりします。閏を外した7月2日にやっているところもあるとか?義貞戦死の日付があまり認知されていないのは、この辺りに原因があるのかも知れません。

 

 

なにを書いているかといいますと、この「義貞戦没の日」が『銅の軍神』はすごく重要になっているのです。

なお、この旧暦新暦問題では国立天文台様、藤島神社様には大変お世話様になりました。改めまして、御礼申し上げます。

 

 

 

コラムは続きます。