猫絵の姫君人物帖 月岡芳年①「血まみれ芳年の雌伏時代」 | 智本光隆ブログ

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1,最後の浮世絵師・月岡芳年

 

さて、今回は明治の浮世絵の大家・月岡芳年です。

 

・・・まず、最初にですが『猫絵の姫君ー戊辰太平記―』では、

 

「明治維新後、三枝綾子を月岡芳年、おせん夫婦が引き取る」

 

というのが5章以降の展開ですが、これは本作の完全な創作です。

 

 

小栗刑死のあとの展開は、いくつか案がありました。綾子については大隈重信の妻になるラストは決まっていますが、その間はどうやって本編にからませていくか・・・

ここで「綾子茶屋奉公説」を取り入れることにしました。

では、どんな経緯で綾子が江戸に行き、誰が江戸(東京)で面倒を見ているのかと、そこはいろいろ考えました。

三枝家に戻すのが一番自然ではあるのですが、それも面白くないか・・・

 

 

旧幕臣の誰か・・・というもの考えましたが、5章で維新後の東京の町を描写したいというのもあり、市井の人間・・・と考えて、

最初に考えたのは歌川国芳なのですが、この時期はもう故人。

「なら、月岡芳年は?」とそこは思いつきに近かった感じです。その後、芳年の最初の妻の「おせん」の逸話を面白いと思い、夫婦での登場となりました。

 

 

月岡芳年は天保10年(1839)、江戸新橋南大坂町生まれ。少年時代の経歴には諸説ありますが、武子と綾子の生まれた嘉永3年(1850)に12歳で歌川国芳に入門しています。

本名は吉岡米次郎。

国芳のもとで修業を積み、作中ではこの時期に金井烏洲と会っています。

 

 

その後、30歳ほどになって慶応年間に一度プチブレイク。この時期の作品は、のちに「血まみれ芳年」と呼ばれたもので、血みどろなグロテスクな作風です。

 

 

慶応2年に兄弟子の落合芳幾と合作の「英名二十八衆句」は歌舞伎の残酷なシーンばかり集めた作品集です。「無残絵」というものですね・・・

他に上野戦争を直接取材して「魁題百撰相」を描きますが、この頃から神経衰弱の状態になり、作品数は減少。芳年はこの時期、洋画の研究や画技の向上に務めたと言われていますが、当然のように生活は逼迫して行きます。

 

 

『猫絵の姫君―戊辰太平記―』に登場するのはこの雌伏の時代の芳年です。

芳年の性格については調べるといろいろあったので、最初はエキセントリックな感じにしようとも思ったのですが、それだと金井烏洲とかぶるな・・・と考えて、無口で神経質な感じになりました。

あとは、猫好きな逸話があるのでちょっと武子に猫の絵を描かせて見ましたが。あれで家に置いてもらえた、と。

 

 

2,芳年の描く新田義貞

 

なお、芳年は新田義貞の武者絵も数枚を描いています。

師匠の歌川国芳は「武者絵の国芳」と呼ばれ、その流れを継いでいます。実は義貞けっこう好きだったんじゃないか?と思えるほど、無残な場面の絵ははく、稲村ヶ崎の姿や天龍川の撤退のもの。天龍川の撤退は、

 

「箱根・竹之下の合戦に敗れた義貞が天龍川を渡る途中で、橋の途中で綱が切れ、執事の船田善昌と抱き合ったままジャンプ!」・・・という、『太平記』の場面です。

 

そして義貞定番ともいえる稲村ヶ崎は「百月姿」という月にちなんだ名場面を集めた一枚として登場。「稲村ヶ崎のあけぼのの月」という歌を添えてあります。

 

 

上『芳年武者武類 左中将新田義貞 船田入道善昌』

下『稲村ヶ崎のあけぼのの月』

 

 

やっぱり、義貞好きじゃないのかな、芳年。

芳年の迷走時代はこの後数年続きますが、この時期を支えたのが1歳年上の妻のおせんです。

ちなみに・・・私はこの作品を描くまで芳年の読みを「ほうねん」だと思い込んでいましたが、「よしとし」です。

 

 

つづきます。

 

 

智本光隆