武子「ところで、綾ちゃんを嫁にするのしないの言っていた、大工の棟梁はその後どうなったのだ?」
光蔵「柏木貸一郎は飛鳥山の某お邸に招かれた帰り道に線路のレールに下駄を取られて、そこに汽車が来て無残な最期を遂げたそうです」
武子「飛鳥山のお邸・・・渋沢家?」
渋沢「お呼びで?」
綾子「中井弘殿もお邸に呼んでもらう?」
武子「やめとく」
※この会話はフィクションです。ですが、柏木貸一郎は高村光雲の『幕末懐古談』によると、明治31年に上記の事故で亡くなっています。
1,楠木正成像と光雲
前回で高村光雲について書くことを大体書いてしまいまして、
冒頭のブラックコントはさて置いて、なので今回は高村光雲の代表作でもある、皇居前の「楠木正成像」について少し。
「なんで皇居前に楠木正成像はあって新田義貞像はないのか?」
という群馬県人の積年の不満になっている楠公像ですが、これは高村光雲の作成です。上野公園の西郷隆盛像、靖国神社の大村益次郎像と並び、「東京の三大銅像」とも呼ばれています。西郷夫人が嘆いたと伝わる、西郷像も光雲作です。
皇居前の正成像は明治政府が設置した・・・と、たびたび説明されることもありますが、実際は少々違います。
別子銅山開坑200周年事業として、住友家13代当主住友友忠が、別子銅を用いて銅像を製作し献納を決めたものです
製作は、岡倉天心が校長を務めていた東京美術学校(現在の東京藝術大学の前身)に依頼。完成まで約10年を費やし、明治33年(1900)に宮内省へと奉納されました(住友友忠は完成を見ずに故人)
さて、正成像のデザインは公募され、東京美術学校の第1期生でもあった天心校長の甥・岡倉秋水のデザインに。
これは六波羅探題が壊滅し、船上山から京都へ戻る後醍醐天皇の鳳輦を、正成が山陽道まで出て出迎えた時のものです。なので手綱を引いて馬を止め、やや頭を下げているわけです。楠木正成人生最大の晴れ舞台・・・の場面です。この後、天皇の都入りの先鋒を務めています。
なお、光雲はこの選定にはまったく関わっていないとのことです。
銅造は黒川真頼、今泉雄作が考証し、服装は歴史画家の川崎千虎が担当しました。が・・・正成の遺物ではっきりと当時のものだと、分かるものなどほとんどなく。こちらは新田家よりも更に、子孫を名乗る家もありません。
兜は信貴山の宝物になっている伝正成の兜を、前立ては大塔宮護良親王の兜の前立てを参考にしています。
鎧は・・・やっと正成着用という鎧を見つけて皮を剝がしたら、正平6年(1351)の元号があったり(正成の戦死は1335年)。この銅像、後年になって「元弘、建武期の鎧としては少しおかしい」という指摘が入っていますが、そんな事情によるものかも知れません。
馬は当初は光雲が担当していましたが、専門外でもあり旧知で馬の専門家でもある後藤貞行を推薦して責任者に。正成の馬がまったく不明なので奥州、木曽、薩摩など各地の日本馬を特徴を備えた馬になりました。
高村光雲産駒なのか?
世界のホースマンよ見てくれ!これが日本彫刻馬の結晶だ!
顔に関してはまったく資料がないので、光雲の「軍略家は痩せすぎの人が多い」という理由で、痩せ型の顔となりました。
ということは、後年に光雲が西郷隆盛をあの体型にしているのは・・・
2,今に残る正成像
ちなみに、正成像の原型は木彫ですが、銅造作成中の明治26年の3月に天皇皇后(明治天皇、正憲皇太后)にご覧になっています。
この時、組み立ての時に楔を嵌め忘れ、兜の前立ての剣がゆらゆら揺れていたとのこと。天皇の前で落下したらと光雲は「命の縮む思い」だったそうです。
銅像の完成後、当初は二重橋近くに設置予定でしたが、練兵の邪魔になると現在の位置へ。
戦時供出、戦後のGHQによる撤去のどちらも潜り抜け、高村光雲の代表作として現在も皇居前で馬を止めています。
皇居前の楠木正成像
スポット(楠木正成像)|【公式】東京都千代田区の観光情報公式サイト / Visit Chiyoda (visit-chiyoda.tokyo)
智本光隆