1,光蔵、仏師の弟子になる
さて、人物帖もあと数人か・・・という感じでありますが。
今回は5章に登場している「光蔵」という仏師・高村東雲の弟子の少年です。
その正体は終章になって明かされておりますので、未読の方はお読みいただければと思っております。
・・・まあ、彫刻家・高村光雲です。
高村光雲は嘉永5年(1852)に江戸下谷生まれです。
元の苗字は中島で因州藩の藩士でしたが、光雲の父・兼吉の代には町人でした。幼名は光蔵で、後に幸吉と改めます。
光蔵は最初は母親の縁で埼玉県下高野村(杉戸町)の東大寺に奉公に出ます。この時が10歳。これは1年ほどで、12歳の時に仏師の高村東雲の弟子となります。修行時代は10年続き、明治7年に仏師として独立します。
作中に光蔵が登場するのはこの修行時代のことです。
高村光雲(26,27歳の頃)
国立国会図書館デジタルコレクションより
2,光蔵、綾子と出会う
さて、なんで『猫絵の姫君―戊辰太平記―』に高村光雲が登場しているのかといいますと、これは綾子のところでも触れておりますが、
「(井上武子は)家柄は立派だが、維新の時に没落して、大隈侯の夫人(綾子)と共に茶屋奉公を務めたこともあったといふ」(『老記者の思ひ出』(朝日奈知泉 1938年)
これは井上馨、大隈重信、武子、綾子の4人が死んだあとに書かれたものですが、これの反論が高村光雲の『幕末維新懐古談』の「大隈綾子刀自の思い出」として記されています(厳密には光雲の文章の方が先なので、「反論」ではないのですが。
光雲は綾子の死去(大正12年4月28日)を聞いて執筆しており、
「この頃、綾子刀自の素性のことについて、いろいろ噂を聞いたり、また新聞などで見たりしますと、元、料理屋の女中であったなど、誰々の妾であったなどというようなことが伝えられているが、そういうことは皆な間違いで一つも証拠がない」
と否定しています。
・・・改めて読むと、武子については否定してないな、光雲先生。
光雲の著書では・・・元々、光雲の師匠の高村東雲が綾子の実家の三枝家に出入りしており親しく相談も受けていた。そんな折、綾子と神田の大工の棟梁で、かなりの富者だった柏木貸一郎との間で縁談が持ち上がった。
柏木は『猫絵の姫君―戊辰太平記―』にも名前だけチラッと出ています。話は進み、固めの盃までかわしたものの先方の母親が「今でいうヒステリー」であり、輿入れ前に破談になったとのこと。
この後で、綾子は大隈重信と結婚していますが、その詳細は光雲はよく知らない、とのことです。
光蔵「そんな事情は申す通りで、一向処女というに変わりはないことで、綾子刀自の身上になんら潔癖を傷つける次第でもないわけで・・・実はこれまで口を鎖していたわけです」
武子「私の親友に著書でなにを書いている!ずっと口を鎖しておれ!」
綾子「武子ちゃん、源氏伝来の鬼丸国綱は鞘に納めて。はい、スペンサー銃よ」
なお、武子、綾子のツッコミ以外は高村光雲本人の著書によります。
綾子と大隈の縁談がまとまった後、光雲は大隈家から預かった綾子が「南無阿弥陀仏」と書いた、千枚の短冊を吾妻橋から一枚ずつ墨田川に流したそうです。
なんだろう・・・「さようなら俺の初恋」的な感じが。
ちなみに、当時の光雲は17~18歳ですが、作中ではやや下(15~16)あたりをイメージして描いています。
つづきます。
智本光隆