朝早くあいつを起こしてやる。おれがでっかい声で叫べば、あいつはだらしなく目を覚まして、おれを叩きながら、暗い部屋でとりあえずメガネなんか探すんだろ。おれが5分おきに叫んだりするもんだから、ちょっとイライラしながら、朝の支度をするんだろ。でも、おれがいなければ、あいつは絶対に起きることができないし、会社にだって遅刻するはずだ。もう少し、大切に扱ってもらいたいもんだね。たまには、おれに「ありがとう」のひとつでもあってもいいんじゃないのかい。


あいつはここ最近、毎日同じ時間におれを叩く。そうだ、5時30分だ。外はまだ暗く、夜の余韻をたっぷりと残しているその時間に、おれが決まってあいつに叫び、あいつがおれを叩くんだ。おれだって、毎日朝早く、あいつのために叫ぶのはしんどいよ。あいつがなかなか起きないもんだから、おれは5分おきにあいつのためだけに叫ばなければいけないんだ。たまには、おれが叫ばなくても良い日があってもいいんじゃないのかい。お昼くらいに、おれが小さな声でささやくような日があってもいいんじゃないのかい。


あいつは、朝早く家を飛び出し、夜まで帰ってこない。あいつがいないと、暖房はついてないし、部屋はすごく寒いんだ。けれども、おれはたとえ誰にも見られてなくても、働くことは決して止めることができない。急ぐこともできないし、ゆっくりすることもできない。いつだって変わらない同じペースで働かなければならない。本来なら、あいつが見ていないなら、おれは休んでいても、誰からも責められることはないのだ。もっと、評価してくれてもいいんじゃないのかい。年中無休で働いているのだから。たまにはおれの昼の顔も見てくれよ。おれは、あいつのために叫び、あいつに叩かれるためだけに生まれたんじゃないんだから。


楽しいテレビ番組がもっと見たいなぁ。良い音楽がもっと聴きたいなぁ。暖房がついたあったかい時間がもっとあればなぁ。あいつがいないと、おれは暗くて寒い部屋で誰にも見られずに働かなければならないんだよ。あいつは毎日毎日、仕事に行って、おれはあいつに起きる時間と眠る時間しか伝えられないのかい。たまには、誰かとの待ち合わせの時間とかを伝えたいもんだよ。今年も、残すことあと一週間ちょっと。一年の中でもおれの最も大きな仕事である年をまたぐ瞬間くらいは、おれを見ながら微笑んでほしいもんだね。一年間、変わらずに「2006」と書かれていたものが、「2007」に変わるんだ。朝とは違ったおれの叫びが、どうすればあいつに伝わるのかい。けれど、こんなこといくら考えても、あいつは明日も同じように、おれを叩いて仕事へ出かけていく。誰にも見られない長い時間が、明日もおれを待っている。それでも、おれは一秒一秒刻んでいき、「いま」の時間を示さなければならない。



「日光に当たらないと、骨が細くなるよ。」そんな話をパートさんから聞いて、少し怖くなった。考えてみると、今のおれの生活は、太陽と上手くコミュニケーションが取れていない。仕事場へ向かうときも、帰るときも、ライトをつけなければ誰もおれの存在に気付きもしない、真っ暗な空だ。


暗闇の早朝は、犬も吠えていないし、鳥達も鳴いていない。老人達の朝の散歩にしては早すぎる、そんな朝だ。おれの自転車の錆びついたペダルの音だけが、不器用におれの耳元に飛び込んでくる。手袋をつけなければ、手が痛い。マフラーを巻かなければ、寒い空気が体中に染み込んでいく。冬の朝は街中に冷房がかけられていて、誰もそのリモコンを持つことができず、ただ我慢するしか術がない。ボタン一つで、暖かくなればどんなにいいだろう。けれど、そんなリモコンは、いくら探してもどこにもない。


今月のカレンダーに、どこか一日でいいから目覚まし時計をかけなくてもいい日があるなら、おれはまず布団が干したい。元気がなくなっている布団を思い切り干したい。できれば、温度計が一番背伸びしている時間の太陽の下に。カーテンを開けよう、そして窓も全開に。そんなことができたなら、おれのテンションは2~3℃くらいは上がるのに。


注文してみよう。「おれの一日に太陽をください。サイズがあるなら、一番小さいやつでも構わないから。」けれど、これを誰に言えば、笑顔で持ってきてくれるのだろう。帰り道、見上げた空は何も答えてはくれない。それどころか、皮肉たっぷりに冷たい風をおれに贈ってきた。おれは早く家に帰ろうと思い、ペダルに力を入れる。静かな夜の街に、またしても朝と同じ音が、不健康に鳴いていた。おれは、マフラーで耳を隠すことくらいでしか、抵抗できない。





「共闘」。この言葉は、ある世代においては、忌まわしい過去を連想する言葉なのかもしれないが、おれはこの言葉に強さを感じる。自分を勇気付けてくれ、励ましてくれ、新たながんばる力を運んできてくれる言葉。みんながんばっているのだ、自分も負けてられない、がんばろう。そう感じてがんばれるなら、それは素晴らしいことではないだろうか。


突然、仕事が入って、友人との約束をキャンセル。その逆もまたしかり。けれど、それは、会社から必要とされている証拠。「君は、がんばれるから、今日も頼むよ」と言われているようなものなのだ。おれは、最近、学生時代の仲間や昔のパン屋の仲間などに全然会えていない、連絡もなかなか取りづらい状況になっている。けれど、それはおれの仲間達が会社や仕事のためにがんばっているということで、彼らが所属する会社から必要とされている証拠なのだと思う。ただ楽しいから一緒にいるような人間関係は、あまり好きではない。昔からそう思っていたし、今だってそう思っている。互いに、何かにがんばっていることで、繋がっていたい。


無理をせずに、体は大事に。これは、どんな時でも重要な事かもしれない。けれど、人生の中で時には、無理をしてでもしなければいけない状況はあると思う。自分のために、周りの誰かのために、大切な人を守るために、大切な想いのために。そういうもののために、無理をしてでもがんばりたいと思える何かがあることは、幸せなこと。そういうふうに考えたら、無理をすることはもう、無理をしているとは思わなくなる。仕事が忙しい、大変だ、そんなのみんな一緒。ヒマで、楽な仕事より全然いい。「ニート」なんて、かわいいニックネームをもらうよりは全然マシだ。


おれはいま、仕事場と言うコックピットの中にいて、何か得たいの知れない恐怖と共に、どこかへ向かっている。行き着く先にどんなものがあるかなんて分からない。それは、きれいな花がたくさん咲いた野原のようなところかもしれないし、ヒトを襲う熊が出るような不気味な森のようなところかもしれない。どこに行くかも分からないのに、司令部から無線が入って、スピードを上げるように言われる。もう動き出した機体のコックピットの中からは、出ることができない。ただ一つ、手がかりになるのは、遠くのほうに見える薄い月明かりだけ。


がんばっているんだ、みんながんばっているんだ。おれも同じだ。みんな同じだ。がんばることは辛い、すごく苦しいし、しんどい。だからこそ、がんばることで繋がっていたい。時間がなくても、話せなくても。みんなで互いに、がんばることで会話していきたい。たとえ、そこに言葉がなくても。それが、おれが思う「共闘」だ。


いま、すごく仕事をがんばっている人が、10年後に10年前を振り返ったら、何が言えるのだろう。いま、ヒマでだらだらした生活をしていて、辛くてすぐに仕事をやめたりしている人が、10年後に10年前を振り返ったとき何が言えるのだろう。「いま、汗を流さぬものは、10年後、涙となって流れる。」そんな言葉が書いてあった本は、なんて本だったっけ。でも、今はその言葉が、忙しいおれの生活のエネルギー源だ。がんばっていれば、良いことがないはずがない。そう信じて。


「日毎に増してくしがらみの数 消えては浮かび終わり訪れず

 キリキリ舞のこの生活 抜け出せず でも生きること止めず

 逃げ出そうとするその一歩 踏み止まってふと考える

 そしてまた歩き続ける 強くあることで自分の価値計る

 周りには仲間がいる 共闘してくれるキミ達がいる

 それでも傷を舐め合うのではなく 共に誇らしく笑い合いたい」


             ’Humanity' / Dragon Ash




少し前に、’ブルーハーツが聞こえない’というDVDを買った。それ以来、ほぼ毎日見ている。このDVDで初めて知った曲もあった。そして、その曲が入っているアルバムを買ったりもした。わけの分からない動きをして、舌をペロペロ出し、ステージ上でピョンピョン飛び跳ねるヒロトの姿は、何でか説明できないけど、不思議なパワーをおれに与えてくれる。今までだったら、面倒くさくて、明日でいいやと思っていた仕事、たとえば洗濯や洗い物なんかも、身体が軽くなり、いつの間にか、その面倒くさい仕事に取り掛かっていたりする。


親切ではないが、やさしい。丁寧ではないけど、やさしい。ブルーハーツを聴くと、おれはそう感じる。仕事が終わり、くたびれた身体、一日の中で良い事もそうでないことも、当たり前のようにある毎日。けれど、そんなおれの一日をブルーハーツの音は、認めてくれるのだ。高圧的にではなく、何となく。それをやさしさではないと、否定する言葉は、おれの部屋にはない。


ブルーハーツの言葉は、みんなが思っていることを、誰にでも分かる言葉で歌っている。好きなものは好き、嫌いなものは嫌い、そんなストレートな言葉が気持ちいい。そんなストレートな言葉に、途方もない美しさが隠れている。たとえば、曲が一つの絵なら、他の多くのアーティストはいろんな色を使いすぎるのだ。もちろん、その出来上がった色をきれいだと思うこともあるけれど、色を混ぜずに、ただ純粋に赤なら赤、青なら青と、本当に一色だけと言うのも、きれいなものに感じる。むしろ今は、そっちの方がインパクトがあって、素晴らしいと感じる。


政府に自殺予告の手紙を出す小中学生のニュースが連日メディアの中を飛び交っている。確かに、本当にビックリするニュースであるし、メディアが取り上げるのも無理もないが、大々的にメディアが報じることによる連鎖反応があることは否めない。悲しいニュースではあるけれど、子供達への影響力も考え、メディアは最小限にとどめるべきだ。けれど、人間はやはり生きなければいけない。どんなことがあっても、生きることを辞めてはいけないと思う。


「あきらめるなんて、死ぬまでないから」 

            ’ブルーハーツのテーマ’


「生きるということに、命をかけてみたい」

            ’世界の真ん中’


「生きてることが大好きで、意味もなくコーフンしてる」 

            ’未来は僕らの手の中’


「いつか見るだろう 同じ拳を握りしめて立つ人を

 きっと見るだろう

 その時ぼくたちは、何ができるだろう

 右手と左手で何ができるだろう

 命のある限り 忘れてはいけない

 今しか僕にしか できないことがある」    ’街’


「お前なんかどっちにしろ いてもいなくても同じ

 そんなことを言う世界なら 僕はケリを入れてやるよ」

            ’ロクデナシ’


「世界中に定められたどんな記念日なんかより

 あなたが生きている今日はどんなに素晴らしいだろう

 世界中に建てられてるどんな記念碑なんかより

 あなたが生きている今日はどんなに意味があるだろう」

            ’TRAINーTRAIN’


「寂しい夜が何度続いても 切ない朝を何度迎えても

 出かけよう さぁ 出かけよう」 

            ’電光石火’


「情熱の真っ赤な薔薇を胸に咲かせよう

 花瓶に水をあげましょう 心のずっと奥の方」

            ’情熱の薔薇’


「誰かのサイズに合わせて 自分を変えることはない

 自分を殺すことはない ありのままでいいじゃないか」

            ’ロクデナシ’


「人にやさしくしてもらえないんだね 

 僕が言ってやる でっかい声で言ってやる

 ガンバレって言ってやる 聞こえるかい ガンバレ!」

            ’人にやさしく’


ブルーハーツの歌は’リンダリンダ’のような宴会やカラオケで盛り上がるタテのりのナンバーが多いイメージかもしれないが、同じくらいバラードも素晴らしい。パンクのミュージシャンが歌うバラードは、大好きだ。なんか、普段大声で歌っている人たちだからこそ、心に届くものがある。夜の車なんかで聴いたなら、もう最高だ。


ヒロトとマーシー。互いを尊重し合い、いつまでも良い音楽を探し続け、40を過ぎても変わらずに、二人で同じ夢を見ているような友情。最高にカッコイイと思う。二人でカッコイイから、ひとりひとりが生きるのだ。そんな彼らが創り出すものだからこそ、何年経っても色褪せることなく、多くの人の心に届くのだと思う。おれの部屋では、もうしばらくは、彼らの音楽が日常の音となりそうだ。






 





            

 








朝、布団から出るのが難しくなってきた。寒い季節との再会だ。ちょっと前まで、窓の向こうから聴こえてきた虫の声はもうなく、代わりに木枯らしが吹いている。それにしても、月日が経つのは早いものだ。元旦にもらった12個のお楽しみボックスは、もう11個開けてしまっていて、最後残りひとつになろうとしている。最後の箱には、どんな楽しみが待っているのだろう。


一日がゆっくり始まろうとする薄暗い空の下、おれは自転車を走らせる。切りつけるような寒さが、おれのあらゆる機能を低下させているような、そんな錯覚に陥る。晴れていれば、富士山が見える橋の上でも、鼻までマフラーで隠し、急いで駆け抜ける。けれど、たとえ目を凝らして見てみたところで、この季節のこの時間の空は、遠くを見せてくれない。おれは、ヘッドフォンから流れてくる音楽も、口ずさみはしない。


寒空の下、不細工な顔をして、必死にペダルをこぐ。ある角を曲がってから、しばらく続く一本道で、おれは様々なことを考える。たとえば、天秤の片一方に’充実した一日’を置くならば、もう片方に何を置けば、それはつり合うのだろう。おれが、一つ一つの瞬間で何をすれば、帰りの一本道を気持ちよく通れるのであろう。冷たい空気の帯が、わずかにさらけ出している鼻先をかすめていく。そんなことを考えながら、仕事場の駐輪場に自転車をとめる。着替えて、作業場のドアを開けた瞬間から、時計との睨み合いが帰るまでずっと続く。時計の針は、いつだって足早に、数字の上を駆け抜けていく。


あれをやったら、これをやろう、それが終わったら次にあれをしよう。こんなことが、頭の中でいつまでも続く。わんこそばの早食いみたいに、ひとつ終わったらすぐに次にやるべきことが、頭の中にやってくる。そんな時間軸の中で、ひとつ安らぐ瞬間は、わずかに空いた時間のスペースで飲む缶コーヒーだ。それは、ごちゃごちゃになった頭の中を、見事に整頓してくれ、あのCMみたいに何か良いアイディアが生まれそうな気がする。忙しい一日のささやかな楽しみってやつだ。そういう時間は、今の自分の仕事の中では、与えられるものではなく、自分でつくるものだ。そのスペースをつくることは、よいモチベーションとなり、仕事にもメリハリがつく。


’大きな木がある。真っ直ぐに太陽に向かって伸び、いつでも堂々としている。

 雨が降っても風が吹いても、強く立っていなければいけないし、

 誰かを喜ばせなければいけないし、何かを守らなければいけない。

 力いっぱい枝を伸ばし、葉を広げなければいけないし、

 いつ鳥達がやってきてもいいように、微笑んでいなければいけない。

 私はそれを、私の魂とする。

 私はそんな木のような人間でありたい。’










春に蒔いた、いくつかの小さな種。

やがて芽を出し、葉を広げ、つぼみくらいかな、いまは。

たとえばそれは、おれの仕事のことだ。


強い雨に打たれ、強い風に吹かれ、

土の中に潜り込んでしまいたいとき。

照りつける太陽が、あまりに眩しすぎて、

土の中に、隠れてしまいたいとき。

たとえばそれは、おれの仕事のことだ。


いくつかの季節をまたぎ、もうあの頃とは違う。

土の中に、確かな根を張り、太陽に向かって伸びている。

見たこともないような花を、咲かしてみせようと。

与えられた水は、すべてエネルギーにしなければいけない。

たとえばそれは、おれの仕事のことだ。


この庭に、きれいな花を咲かせたい。

この庭を見てくれる人を、喜ばせたい。

この庭を語る言葉を、美しいものにしたい。

たとえばその庭は、おれの仕事場のことだ。



「みんなで頑張っている感」。

少しずつではあるが、最近それを感じることができる。

バイトだとか、パートだとか、社員だとか、

そういうのが関係ない庭をつくりたい。

もちろん、立場の違いは、微妙な温度差を生むけれども、

なくすことなんてできないかもしれないけれども、

それを少しでも少なくしていきたい。

成功を同じように喜び、失敗を同じように悔やみ、

けれど、その庭では手を合わせているような。

おれは、みんなできれいな花を咲かせたい。


これから先、様々な庭に出会うことになるかもしれない。

けれど、その庭に寄り添うみんなで力を合わせていくことは、変わらない。

きれいな花を咲かすために、そのためにと。

どんな庭でも、おれはそんな一人でありたい。














なにか、すごく眩しくて目が覚めた。いつまでも寝ていたおれに、秋の太陽が嫌気をさしたのかもしれない。いつもと違う光景が、視界に入ってくる。夢の延長と錯覚してしまいそうになるような空間。まず何をしなければいけないか、結論が出るまでしばらく時間がかかった。


テレビのある部屋に行くと、もうみんな起きていて、お茶を飲んでいた。座っただけで朝ごはんが出てくる。何て、素晴らしいことなのだろう。普段は、朝起きて、ソファーに座ってもあくびしか出てこないのに。朝、お米を食べることは、本当に久しぶりであった。いつもはパンとコーヒーがほとんどだから、お米がすごく新鮮に見えた。納豆ご飯と味噌汁、日本茶の朝、全然悪くない。今度、休みの日にでも、家で実践してみようと思った。


東京に戻る新幹線の時間まで少し時間があったため、おれは一人で散歩も兼ねて、歴史博物館に行ってみることにした。気持ちよく晴れた太陽の下、ゆっくりとした時間の流れ、それが本当に久しぶり。見るもの、聞こえるもの、感じるもの、それらすべてがおれに微笑んでくれているような、そんな気分になった。たとえば、それが10分か15分かのちょっとした散歩であったとしても、その感動は、ものすごい良い映画を見た後の感動より劣っている理由はどこにもなかった。


博物館は、旧石器時代から近現代までの東北全体の歴史を、時代別に9つのコーナーに分けて展示してあった。博物館特有の落ち着いた雰囲気、こんなふうに静かに自分の期待に応えてくれる感覚がすごく好き。みんな、非常にゆっくりとした時間を感じている。誰も急いでいないし、誰も焦っていない。いつも、時計やストップウォッチと睨み合いの生活のせいか、おれにはそれが、すごく心地よく感じた。勉強になる部分も多々あり、とても有意義な時間であったと思う。


博物館に隣接して、ひとつの池があった。大きくもなく、かといって小さくもなく、いわば普通の池がそこにあった。しばらく、椅子に座りながらその池を眺めていると、あることに気付いた。それは、圧倒的に子供と老人の組み合わせが多いということだ。おじいちゃんとその孫が釣りなどをして楽しんでいる。東京に、このような池はないと思った。世代を越えて、楽しめる場所、こういう光景を見ると、自然と目が和む。この場所では、それがごく普通の光景なのかもしれないが、おれには素晴らしい光景に映った。


帰りも行きと同じルートで仙台に行き、新幹線で東京へ。東京で見る人は皆、焦っていて落ち着きのない人たちに見えた。せわしない街の喧騒が、このときのおれは、すごく嫌であった。みんなそんなに急いで、どこに行くのであろう。行き着く先に、宝物でも待っているのであろうか。少し待てば、すぐに次の電車が来るのに、満員電車に飛び込んでいくサラリーマン。この数分の違いは、彼らにどんなメリットをもたらすのであろう。おれは、昼間見た池を思い出していた。ゆっくりと孫に微笑む老人の顔を思い出していた。自然と身体が軽くなり、穏やかな気持ちになっていく。おれは、焦らずに空いている電車でゆっくり家に帰ろうと思った。





10年と言う歳月の流れ、それは決して短いものではない。目まぐるしく変わる環境、置かれた状況、心境の変化、それぞれにそれぞれの時間がある。その期間を一言で語れれば、それはそれで良いのだろうが、おれたちはそんなに簡単には生きていない。ごく普通の暮らしの中にも、山があり、谷がある。様々な営みの中で、得たもの、失ったもの。それらすべてを説明していくのに、一晩というのは、あまりにも短すぎたのかもしれない。


おれは、それこそ10年ぶりくらいに、親戚の家を訪ねた。小さい頃は、夏になると、おれの家ではそこに行くことが恒例行事となっていて、実家では毎年の夏のたくさんの思い出が、アルバムを重くさせている。いまでも、まるでそれが昨日の事のように、頭の中に笑みがやってくる。楽しいことが、当たり前だったあの頃。やがて、おれは部活やらバイトやらで忙しくなり、就職もしたりして、なかなか行けなくなってしまった。夏でなくても、行こうと思えば行けたし、決して時間がなかったわけではない。しかし、物事にはタイミングというものがある。おれが行く時間があっても、相手の都合もあったり、その逆もしかり。ただ、すれ違いがこんなにも長引くとは、想像もしていなかった。


親戚の家は、宮城県にある。仙台から電車で15分ほどのところだ。おれは育ちは横浜だけれども、生まれは宮城で、本籍も宮城にある。住んだことはないけれども、夏になれば必ず行っていたし、今でも特別な感情を持っていて、大学時代や、今の職場でも、宮城出身の人とは、他の県の人よりも長く会話のキャッチボールができた。その放物線に描かれているものは、同郷という安心感なのかもしれない。故郷とは言わないまでも、それによく似た感情が、おれの中には確かにある。


青い新幹線は、ここ何年か乗る機会は多かったが、緑の新幹線は本当に久しぶりであった。大宮を過ぎたあたりからは、自然の多い街並みが続く。窓の向こうには、それこそ、新幹線の色の景色が広がり、それはおれに安らぎを与えてくれ、目を癒してくれた。緑を見ることは目に良いと、よく言われるが、それは本当だと思う。晴れた日に、陽射しが降り注いだ木々の葉なんかを見ると、何となく気持ちが穏やかになる。おれは毎朝、緑の多い並木道を通って、パン屋に向かう。その部分においては、高いビルを目指して、毎朝、目と鼻のすぐ先に人の顔があるような満員電車に乗っている人たちよりは、幸せなのかもしれない。


仙台に到着。おれが前に来た時とは、随分と印象が違う気がした。それでも、「牛タン」や「萩の月」の垂れ幕を見ると、懐かしい気持ちになる。仙台から親戚の待つ国府多賀城へ。電車に乗る時、自分でドアを開けることくらいは知っている。東京や横浜でしか、電車に乗ったことのない人は、このシステムはビックリするかもしれない。そういえば、ドイツで電車に乗った時も、自分でボタンを押して、ドアを開けた気がした。おれは、このシステムを季節や時間帯によっては、関東でもやるべきだと思う。おれは、職場が埼玉だった頃、朝、ほとんど誰も乗ってない電車に乗り通勤していた。誰も乗ったり降りたりしない駅でも、ドアは開いた。真冬などは、駅に着くたび、外の冷たい空気が入り込み、おれは顔を目の下までマフラーで隠した。ウォームビズやクールビズなどもいいが、もっと違った視点からも考えるべきだと、おれは思う。地球に優しくできることは、まだまだたくさんあるはずだ。一人ひとりが、ほんのちょっと優しさを持つだけで、クラゲが大発生することもなくなるのかもしれない。


駅まで親戚が車で迎えに来てくれていた。10年ぶりくらいに会うのに、あの時と同じよう、家族の一人のように迎え入れてくれた。不自然なところが全くない。おれはそれが、本当に嬉しかった。めまぐるしく変化していく毎日で、変わらないものがある。ずっとこのままでありたいと思うものが、変わっていなかったことを確認できた時、それはたぶん「感動」なのだと思う。いくらか歳を重ねたとはいえ、たとえば、おじいちゃんやおばあちゃんから見るおれは、あのときの10年前のおれなのだ。彼らから見れば、15歳のおれも25歳のおれも同じ、何も変わっていないのだ。


新鮮なお米、畑で取れたばかりの里芋、ここでしか味わうことができないお味噌汁。どれもが懐かしいものだが、今のおれの生活から見れば、非日常だ。なんかすごく、あったかかった。この雰囲気を味わえただけでも、来て良かったと思った。ひとつ気付いたことがある。それは、老人の笑みは本当に優しさに満ちているということ。そしておれに向けられる言葉も、本当にあったかい。たぶん、あの種の笑みは、年齢の、あるラインを越えないと出せないものだと思う。「どんな仕事でもいいんだよ、身体に気をつけて頑張るんだよ、またいつでも遊びにおいで。」何気ない言葉にも、なんだかすごくありがたい言葉に聞こえた。ここ何年か味わっていない種類の感動である。おれは、時計の針が、いつもよりゆっくりと動いているような気がした。


歳の近いいとこが、仕事が終わって帰ってきた。おれたちは、居間からいとこの部屋へと場所を変え、この10年のことを語り合った。あの頃と比べれば、話す内容も随分と大人になったのだと思う。仕事の話は、とりわけ、長い時間をかけて話した。それぞれに置かれた状況、立場、何を生きがいにしているかなど、文章にすれば少し難しい言葉が入ってくる話を。楽にお金を稼げたら、それはそれでよいのかもしれないが、残念ながら世の中に簡単な仕事など存在しない。働いて、お金をもらうということは、とても大変なことなのだ。そして、職場での人間関係の難しさも。自分の親の世代のような年齢の人を扱うことは、とても難しい。会社の中で、自分が立場は上だとしても、人生と言う面では大先輩である。たとえば、奥さんにも子供にも逃げられ、ひとり寂しく生活をしているおじさんがいたとする。すべてのモノが彼の元を離れてしまったが、ひとつだけ彼のものとから逃げなかったものがある。それは、’プライド’だ。しかし、その自尊心は、会社の中で上司になって部下を持つようになれば、責任感と言う面で大いに役立つが、そういう人が逆に部下の立場になった時、その自尊心は非常に厄介なものになる。昔は、自分より年上の人は、基本的には上司であった。敬っていれば、それで良かったし、従っていれば安定が得られた。けれど、今は違う。敬うことは変わらないかもしれないが、引っ張っていかなければいけない状況も増えてきた。年功序列や終身雇用制度が崩れ、その後にこの国にやってきたものは、完全なる実力主義の世の中だ。しかし、この変わり目は新たな問題を発生させた。それは、おれたちの世代が実力主義だと思っていても、親達の世代は、いまだに年功序列にしがみついているという点である。おれたちは、その狭間で揺れている。あと10年もすれば、世の中は変わるかもしれないが、いまは両者の主張が混じりあった、非常に混乱した時代と言えよう。もちろん、おれといとこは、久しぶりに会って、ずっとこんなシリアスな話をしていたわけではなく、ものすごく下らない馬鹿話もたくさんした。長い夜となった。けれど、本当に有意義な時間であったと思う。














東京のど真ん中で、流行の先端。そういった街のパン屋さんから、「うちでやってみないか」という誘いを受けたこと。素直に嬉しかった。自分がやってきたことを認めてくれ、評価してくれる人がいるということは、仕事をやっている上で、ひとつ大きな喜び。けれども、自分には現在、所属しているパン屋がある。移籍か、残留か。話を頂いたことがゆえ、迷った。迷うことは、苦しかった。自分自身との会議が長引くものだから、眠れない夜が幾夜も続いた。 それぞれの道には、それぞれに良いこと、そうでないことがあると思う。今回は、本当に細かい部分まで、いろいろ考えた。けれど、一歩踏み出すまでの、自分自身の答えはなかなか出なかった。


他の業種と違い、パン屋の世界では、同じ場所にずっといるよりも、いろいろな店を渡り歩き、様々な味を覚えるということが良しとされている部分がある。それは、明らかにサラリーマンの価値観とは異なる。そして、それはまた戦後の近代化を終え、終身雇用制度が崩れかけたこの国の現状と、少し似ているのかもしれない。現在、多くの若者は、世間や企業が自分の事を守ってくれるとは思っていない、というか思えない。自分を守るのは自分自身でしかないと思っている。会社のために頑張ることよりも、個人の価値やスキルを上げることが、現在の生きてく術なのだ。しかし、パン屋の世界では、昔もいまも、基本的な考えは変わっていない。ひとつの場所に固執せず、より自分を高めることのできる場所へ、そのルールはいまもなお根強く残っている。


あまりにも答えが出ないもんだから、おれは違った角度から考えてみることにした。自分にとっての幸せって何だろう、簡単に言えば、そんなところだ。そして、もうひとつ、自分の人生について。自分の人生をどんなふうにしていきたいか。この二点を柱におれは、どちらの道に進むべきか考えた。


「人間はみんな弱いけど 夢は必ずかなうんだ

 瞳の奥に眠りかけた 挫けない心

 いまにも目からこぼれそうな 涙の理由が言えません

 今日も明日もあさっても 何かを捜すでしょう」


                ’僕の右手’ / The Blue Hearts


ひとつだけ、確かな答えに近づいた。それは、自分の人生は、決して自分のためだけの人生ではないということ。人間は一人では生きてくことはできない。絶対に生きてくことができない。誰かの支えや助けがあって初めて、’自分の人生’になる。人生は、自分のためだけに、ただ真っ直ぐの道が続いているわけではない。誰かの人生と交わる交差点がいたるところにあって、はじめはそれが、両親の人生と交わるし、やがて、友人、先生、結婚相手、子供、孫と交わっていくのだと思う。そんな時に、周りのことも考えず自分勝手に、高いビルなんか建ててしまえばどうだろう。自分の人生と交わる人は当然、困るであろう。遠回りの表現ばかりになってしまったが、おれが考えているのは、つまりはそういうことだった。


迷いのある中で仕事をするということは、本当に難しいことであった。いつものリズムで仕事ができない。それがどんなものであったか、なかなか思い出すことができない。頭の中では、常に天秤が置かれ、様々なことを考えても、どちらかにほんの少しだけ、傾く程度であった。これだけ答えが出ないとは、自分でも正直、意外であった。初めは、深く考えれば、何となく答えに近づくような気がしていたからだ。本当に安易な発想だったと思う。


そんな中での仕事中、おれが何気なく店を見渡していると、腰を曲げたひとりの老人が近づいてきて、おれに「フランスパンの焼き上がりはいつですか?」と聞いてきた。おれが、「あと10分で、焼き立てがご用意できます」と答えると、それを聞いた老人は、10分間ずっと、おれの仕事の様子を見ていて、フランスパンが焼きあがるのを待っていた。そして10分経ち、おれが焼きたてのフランスパンをその老人の元に届けると、彼はたくさんの皺が入った顔をさらにくしゃくしゃにして、子供のように純粋に笑顔を見せた。「おいしそうだね、ありがとう。」と言った老人の顔に、少しも嘘なんてなかった。その瞬間、おれはなんだか救われた気がした。心を悩ませるもの、不安にさせるものを、その老人の「ありがとう」の一言が、おれの中から見事に取り除いてくれた。多分、それがおれにとっての仕事の幸せなんだと思う。おれは、地位や名誉やお金のためではなく、この老人のような、本当に純粋な気持ちで「ありがとう」を言ってくれる人のために、毎日パンを焼いていきたい。きれいごとに聞こえるかもしれないけれど、仕事をする上で、これより大切なことってないのではないかと思った。


幸せは、東京だけに転がっているのではなく、どんなところにも必ず転がっている。おれは今の会社に残り、自分を成長させていこうと思った。これは決して、何かを諦めたというわけではない。チャンスを逃したとも思っていない。だから、後悔もしていない。幸せは、ある場所に行けば見つけられるというものではなく、常に自身の心にあるものだ。何を幸せとするかは、結局のところ、自分次第。いま、おれが考える最高の幸せは、自分が大切だと思っている人たちに、同じように自分のことを大切だと思ってもらえること。いつか築かれるだろう家族、いつか生まれることだろう子供、そして、両親、友人。こういう人たちと、ずっと手をつないでいるような人生、それがおれにとって理想の幸せのかたち。その幸せのために、おれは仕事を頑張っていきたい。そしたら、おれもあの老人のように純粋な気持ちで誰かに「ありがとう」を言えるかな。悩み、考え、ようやく’ほんとうのこと’に出会えた。いま、そんな気持ち。




The modest Rose puts forth a thorn,

The humble Sheep a threat'ning horn;

While the Lilly white shall in Love delight,

Nor a thorn, nor a threat, stain her beauty bright.


(しとやかなバラも刺を出し

 おとなしい羊にも威嚇する角がある

 ただ白百合だけは、純粋な愛の歓びにひたり

 刺も、威嚇も、その輝く美しさを汚さない)


           ’The Lilly' / Dragon Ash























この線路が続く先には、どんな世界が広がっているのだろう。陽も落ちた仕事帰りの帰り道、線路の上の橋で、おれは遠くを見ている。それがいまのおれにとってターニングポイントだということくらいは、何となく理解している。けれど、それはある人の言わせれば、チャンスであり、またある人にとってはチャンスではないのかもしれない。何か音が聞こえる、人の声だ。それは、歓声か、それとも悲鳴なのか。多分いまのおれには、それは判断できない。


人生には、大胆さが必要な時もあれば、慎重さが必要な時もある。アクセルを踏むべきか、ブレーキを踏むべきか、賢明な人間だけがそれを使い分けることができる。けれど、おれはそんなに賢明ではないし、先見性があるわけでもない。そういう人間は、ただただ考える。どうすべきか、必死になって理解しようとする。けれど、答えはすぐ近くにあるものではない。


たとえばそこは、おれに大きな幸運をもたらすかもしれないし、思わぬ不幸をもたらすかもしれない。そこに吹く風は、おれをどんなふうに誘ってくれるのだろうか。心はその風によって揺れては止まりの繰り返し。二つしか道がない、おれはその一つしか選ぶことはできない。流れていく時間は、いつもと同じように進み、刻んでいく。世の中は当たり前のように動いている。おれは、時計の針を少しの間止めて、考えたいと思う。けれど、そんな時に限って、針は早く次の数字へと進みたがる。


それでも、これは絶望や失望のようなネガティブな話ではない。見方を変えれば、自分は何て恵まれているのだろうと思える。けれど、恵まれてはいても、悩みや不安がおれの頭をノックする。おれは、どうすべきか分からなくなる。扉を開ければ、何かが音を立てて急速に進んで行きそうな気がして怖くなる。いまは、ただ考えることだけで精一杯。


橋の上でぼんやり遠くを見ている。何本か、電車がおれの下を過ぎ去った。おれは、正しい答えを見つけようとしているけれども、本当はそんなものどこにもないのかもしれない。その答えは、自分で創り出して初めて、自分の手に握れるものなのだ。おれの下を通過し、遠くへ向かう電車。果たして、おれはその電車に乗るべきなのだろうか。おれを呼ぶ手の鳴るほうへ、向かうべきなのだろうか。自分自身に問うクエッションに、ファイナルアンサーは言えるのであろうか。分からなくなってきた。何も分からなくなってきた。分かりたくもなくなってきた。何が分からないのかも、分からなくなってきた。