この地域特有の、低空飛行を続ける飛行機の騒音で、目が覚めた。休日はいつもこうだ。仕事の日は、あまりに朝早いせいか、彼らはまだその活動を始めていない。今日もどこからともなくやってきて、おれの部屋の上空で、とてつもない音を放つ。カーテンを開けると、ものすごい雨が降る直前というような天気であった。薄暗くて、どんよりしていて、何とも不気味な空。テレビをつけると、サングラスをかけたおじさんが奇妙な声を発している。それはおれに、12時を過ぎたことを伝えていた。昨日、仕事終わりにコンビニで買ったカフェラテを冷蔵庫から取り出し、今日一日の自分の予定を考える。けれど、天気が悪い日は、その想像力が鈍感になる。


とりあえずおれは、コンビニに行くことにした。目覚めてからまだ、5分くらいしか経っていない。着替えもせず、起きたままの格好でおれはコンビニに行く。すれ違う木々の葉が濡れている。4人くらいの老人達が輪を作り、傘の下で笑っている。相変わらず、上空では、米軍の飛行演習が続けられている。おれは、家の鍵を閉めたか、少し不安になっている。コンビニは、晴れていようが雨が降っていようが、朝だろうが、夜だろうが、いつも同じ顔をしている。常に等身大で、期待を大きく上回ることはないが、期待を大きく裏切ることもない。


雨の日は嫌いだ。部屋の中に洗濯物を干すと、ひどく憂鬱な気分になる。心にべったり張り付いて、身体が重くなっていくような、そんな感じだ。外に出れば、半分自由を奪われたように、片方の手がふさがれる。その不自由さは、外出の理由をいくつも減らしていく。小さかった水たまりは、いつの間にか大きくなっている。やがて、雨は本降りになり、部屋の中にいても、何かを叩きつける音が聞こえてくる。相変わらず、上空では飛行演習が続けられている。彼らの演習と、天候はそれほど関係がない。


おれは部屋の掃除を始める。家具やインテリアがおとなしく、静かにその場所に佇んでいるのを見ると、なんだか安心する。窓の外の雨や、部屋の干された洗濯物のことを一瞬忘れさせてくれ、それはおれに安らぎを与えてくれる。掃除も一通り終わり、おれはソファーに座りテレビをつける。いつか見たようなドラマの再放送がやっていたが、おれはタイトルを思い出すことができない。気が付けば、おれはベッドからクッションを持ち出し横になっている。休日、昼寝をすることは、何て気持ちの良いことなのだろうと思った。おれは、テレビはつけたまま、眠っていた。何かの夢を見た気がするが、内容はよく思い出せない。しかし、最後の部分だけは何となく覚えている。何かものすごい大きな音がしておれはビックリしたのだ。その瞬間におれは目が覚めた。窓の外は、もうすっかり暗くなっている。上空ではまだ、飛行演習が続けられていた。

先日、実家に帰った時、父親と二人でNHKで生中継された凱旋門賞を見た。もちろん、ディープ・インパクトを見るためだ。おれは、競馬に興味もなければ、ギャンブルにも興味がない。それでも、目をこすりながらも、最後まで見てしまったのは、流れてくる映像のどこかに魅力があったからだろう。それは一言で言えば、「異文化」だ。


どうやら、5000人もの日本人がたった一つのレースを見るためにフランスへ行ったらしい。オリンピックでもサッカーのワールドカップでもそうだけど、日本人は自分たちの代表が世界の大会に出る時は、異常なまでに応援する傾向がある。これはいったいどういうことなのであろう。それは、抑圧の反動なのではないかと、おれは思う。考えられることは、この国は戦後、愛国心を否定するような教育が施されてきたということだ。けれど、教育で否定されても、心の中で完全に消えることのなかった愛国心が、スポーツにおけるスタジアムで表れている。人間は、あまりに抑圧されすぎると反動が起こって異常な人格ができたりすると言った哲学者がいた。それでも、自分の国が大好きだという気持ちは万国共通、いまは、このようなスポーツの応援は一つの日本のスタイルだ。それで、受け入れていくべきなのである。


ディープ・インパクトは残念ながら勝てなかった。良いレースをしたのかもしれないが、勝てなかった。けれど、おれは今年で85回目となる伝統のレースを見れて、不思議と満足感があった。ヨーロッパにおける競馬は、主に貴族の娯楽として存在する。観戦者は男性はスーツにネクタイ、女性はドレスと、フォーマルな格好をしていた。彼らは、どの馬が勝つかと言うよりも、凱旋門賞という伝統のあるレースであるから来ているのだ。それは、彼らにとっては、日本の競馬観戦とは違い、フォーマルな格好をする一つの行事なのである。ヨーロッパにおけるクラシカルな文化、そういうのをおれは昔からとてもカッコイイと思っていた。寝不足になっても、それが少しでも見れて、本当に良かったと思っている。


'クラシカル(classical)’「伝統的な、由緒ある、名高い」。その言葉が、おれはすごく好きだ。何とも言いようのない不思議な吸引力を感じる。以前書いた、ウィーンのカフェもそうだった。いま、自分がいいなと思っている服や家具もそういうものが多い。音楽のクラシックは、家では全く聴かないけれど、街中で流れていたら、自然と受け入れている。先日、誕生日プレゼントとしてもらった、アメリカ製の古い椅子は、いま自分の部屋の中でお気に入りのスペースだ。モダンなものが決して嫌いなわけじゃない。けれど、モノにもよるが、おれの中では今後、モダンはクラシカルに勝てないかもしれない。





仕事が終わり、車で実家に帰った。父親の誕生日だったからだ。おれは父の日や母の日、それに両親の誕生日などは、特別何かしてあげられるわけでもないが、なるべく顔を見せようと思っている。こういうのをみんなに話したりすると、「偉いねぇ」とか言われたりするけれど、おれの中では、何より当然のことだ。親が遠くにいて、会いたくてもなかなか会えないという人もいるだろう。けれど、おれは車を一時間も走らせれば、会うことができる。それが難しいことであったり、面倒くさいこととは思わない。


両親への感謝・尊敬、面と向かって言うことは恥ずかしいけれど、おれはそういうふうに思っている。年齢を重ねていけば重ねるほど、その気持ちは強くなっている。けれど、今の世の中、そう思うことがなんとなくカッコ悪くなってしまっているように見える。もちろん、おれにだって反抗期と言うものはあって、何でかわからないけどイライラして、反発したくてしょうがないという時期はあった。それども、いまはみんなの前で自信を持って、感謝・尊敬を言うことができる。一人暮らしをすると、自分がいかに無知で無教養で世間知らずか理解し、それは頭にくることであったけれど、いつしかそれが両親への有り難味に変わっている。


あらゆる面で、’つながり’が曖昧になってきていると思う。ネット上で知らない人と出会うような、そんな’つながり’は不思議なことにどんどん増えていっているのに、親と子、先生と生徒、さらには家族の絆のようなそういう本来あるべき’つながり’は、見えにくくなってきている。子供たちがもっと親を尊敬したり、親達がもっと子供達に愛情を与えたり、社会全体がもっと老人達に優しくなれれば、この国はきっと良くなる。小さなことでも、明日にでもすぐにできることはいくらでもある。それは、無駄な道路やダムや橋や空港や官庁舎を作ったりすることよりも、’美しい国’に近づいているのではないだろうかと、おれは思う。


犯罪の低年齢化、援助交際、公務員の失態、そのほか今まで考えられなかった事件の数々。これらは、’つながり’を失った現在のこの国の象徴的事件といえるかもしれない。親達が子供達に愛情を与えられなかった結果、子供たちが親達・大人たちを尊敬できなかった結果、メディアが飛びつくニュース・事件が生まれる。そういうのが、何年も続くとメディアも取り上げなくなり、世間で’当たり前のこと’となる。けれど、それはもちろんのことながら望まれていることではない。そして、そういう国はどれだけ「近代化」が進んだとしても、’美しい国’だとは思われない。


ドラゴンアッシュが「陽はまたのぼりくりかえす」で、’父への尊敬 母への敬意’と歌ったとき、新鮮な感動があった。そういうことを歌うアーティストなんていなかったからだ。すごくカッコイイと思った。言いにくかった「ありがとう」が、以前よりもずっと簡単に言えるようになった。この国が、美しい国となるためには、美しい建物を造ることなんかでは決してない。感謝・尊敬の心に満ちた美しい人間関係、他者への思いやり、それこそが美しい国のために、まずしなければいけないことなのではないだろうか、そんな気がしてならない。



Jonathan, over the blue sky,

I wonder you play the song for.

About ten years ago, like days of Provo.


World are covered by the dark more.

Children's voice become small more.

God keeps whispering to our ears the grief stories.

We meet the nervous every night.


Then I wish you sing a song for me.

That day like my birthday.

Flow of the Comfortable time,

It whispered my happy by God, you say?


Ah,the beautiful mountains of Zion park,

what color Provo's sky?

Ah,the kind wind of the town,

Provo's people are living life in peace?


Jonathan, just listen to me.

I have to report to you about my way and dream.

You may say it's a economy sided dreams of hope.

But I believe you'll cheer me.

Then, what song for my future.


Now, I have the same day.

in short, it' a boring and tight one.

Ah, Provo!

I want to go there again.

and to listen he's music.

Would you call me too in Provo.




ジョナサン、あなたは今でも

遠い空の向こうで誰かのために

奏でているのですか

10年近く前に、私にそうしてくれたように


世界はますます暗闇に包まれていくし

子供達の声も、どんどん小さくなっていく

神様があまりにも悲しい話を

耳元で囁くものだから

私達は毎日、不安な夜を過ごさねばならない


そんなとき、あなたが私のために歌ってくれたなら

どんなにいいだろう

そう、あの時、私の誕生日に歌ってくれたように

それは、本当に心が落ち着く時間だった

あなたは、そんな私の幸せな話も

神様が囁いたこととでも言うのですか


美しいザイオンパークの山々よ

プロボの空が、どんなふうに見えていますか

優しくて親切な風たちよ

プロボの人々は平和な暮らしをしていますか


ジョナサン、私の話に耳を傾けてほしい

あなたにいくつか報告したいことがあります

あなたはこの話を聞いて

安っぽい夢だと言うかも知れない

しかし、本当は私の夢を応援してくれていると、

私は信じている

その時は、あなたはどんな歌を

私に歌ってくれますか


いま私は、刺激のない平凡な日々を過ごしている

10年前行ったプロボに、もう一度行ってみたい

そして、もう一度彼の’音’が聴きたい

だから、もう一度わたしを

プロボに呼んでくれませんか


















10年くらい前に比べれば、CDが売れなくなっているとはいえ、誰にだって「このアーティストの作品だけは絶対に買う」というものはあるはず。おれにだって、そういうのはある。年に片手で数えられる程度しかない、好きなアーティストのCDまたはアルバムの発売日。家に帰るのが楽しみでしょうがなくて、今日やらなければいけないことを明日でいいやと思ったりもして、とにかく一刻も早く、’新しい音’を聴きたいと思ってしまう特別な日。上着も脱がぬまま、歌詞カード片手に、そのアーティストがおれたちにどんなことを伝えたいのか理解したくて、ただただ耳に集中力を。曲が終わったときの高揚感は、何度味わっても良いものだ。


今日発売のドラゴンアッシュのニューシングル「few lights till night」。今回は、少しイメージと違ったドラゴンアッシュだと感じた。優しくて叙情的なメロディーで、歌詞もまた、これまでの尖った部分が鑢がけされたように丸みを帯びている。こういう感じは、カップリング曲にはあったけれど、シングルA面にはなかった気がする。けれど、ファンから言わせれば、こういうのもまた彼らの得意分野だ。気持ちが穏やかになっていく、心がゆっくり広がっていく、聴き終えた時、おれはそんな気持ちになった。


これまでのドラゴンアッシュの歌詞は一貫して、「強くあり続けよう」みたいな感じであった。形にすれば、その先端は常に尖っていて、すべてのモノを切り裂くような鋭さを持ち合わせていた。しかし今回は、「そんなに強がらないでいいんだよ」と言われている気がした。ドラゴンアッシュにしては珍しい、ファン達への問いかけや優しい言葉。カップリング曲の英語詩の歌では、こういうのはあったかもしれないが、表題曲としては本当に珍しい。ドラゴンアッシュをあまり聴かないという人は、初期の頃の「The day dragged on」などと、今回の「few lights till night」が、同じアーティストということが信じられないかもしれない。けれど、おれの中でドラゴンアッシュが好きな気持ちと、これからもずっと支持していくということは、変わることはない。新しい一面が見れて、より一層好きになった、そんな気分。


今回のシングルのはジャケットもすごく良かった。緑を背景に文字が黒と白、好きな色の組み合わせだ。おれは最近、’緑’を自分のフェイバリットカラーにしているから、余計にそう思ったのかもしれない。緑の服がほしいし、部屋も観葉植物以外に、インテリアかなんかで緑をもっと増やしたい。鮮やかな緑というよりは、ちょっと深みがかった緑。おれは基本的に派手な色は好きではない。


さぁ、これでシングルが今年、2枚出た。次はアルバムかな。それとも、もう一枚シングルをはさんで、アルバムかな。どちらにせよ、年内にもう一回くらい’発売日’という特別な日があれば嬉しいな。



間違いない、絶対にそうだ。いまおれとすれ違った人は、あの人に違いない。まさか、実際この目で見れるなんて。思いもよらぬ出来事に、おれは一瞬言葉を失っていた。頭の中で物事が上手く整理できない。それはあまりにも突然であったし、時間にすればほんの数秒の出来事だ。おれは、何が現実で、何がそうでないか、分からなくなる。そして、嬉しいと言う感情がおれのところに辿り着くまで、随分と時間がかかった。


午前中、光熱費の支払いやら、部屋の掃除やらを済ませたおれは、電車で30分ちょっと、下北沢へ向かった。下北に決めたのは、行きたい中古家具屋があったからだ。そこは、何も買わなくても、すごく良い気持ちになれるし、自分の部屋をこれから、どうアレンジしていこうかとか、いろいろなイメージができる。これがもし部屋にあったら、おれの部屋はどんな感じになるかなとか、いろいろ考える。何事もまず、頭で考えることはすごく大事なことだ。手に取ったその一つのものを見るのではなく、服だったら全身、家具だったら部屋、その中でその手に取ったものが本当に自分に必要かどうか。おれは昔から、そういうバランスを考えながらモノを買ってきた。それが良かったというときもあれば、直感で良いなと思ったものを考えすぎて買わなかったために、後悔したと時もある。考えるのは、すごく難しい。でも、ものすごく楽しい。


おれは、実際モノを買うときは、まずイメージするところから始まる。あの店に売っているもの、と限定するのではなく、自分の中でこういう感じというイメージを、頭の中で創り上げる。それは基本的には家で行うことだ。そしてそのイメージが出来上がったとき、自分のイメージしたものが街で売っているかどうか確かめに行く。それがおれにとっての「買い物」と作業だ。イメージは、もちろん雑誌も参考にするけど、自分で創り上げていくときもある。今日のように買うことを前提にせず、イメージを膨らますためだけにお店に行く時もある。けれど、自分のイメージ通りというのは、なかなか難しい。それは、時には途方もない作業となるし、結局見つからないケースもある。それでも、その探すという瞬間にいる自分はポジティブだ。生きることに、すごく前向きな気がしている。だから、時間を忘れて没頭できるのだと思う。これはきっと、やめられない。多分、’おじさん’と呼ばれるようになっても。


下北を選んだ理由の一つとして、今まであまり行ったことがないというのもあった。知らない街を歩き、入ったことのない店に入って新鮮な感動を味わいたいと思ったからだ。いつも同じ場所に行ったりせず、いろいろなところを見て回り、新しい可能性を探ること、それはおれのベースであるし、そうでなければ幅が広がらないと思っている。それは、服や家具に限らず、さまざまなことでのおれの基本的な考えだ。服も家具も、一つのジャンルに固執するのは嫌い。統一感がないと言われたとしても、しょうがないと思っている。今日好きなものと、明日好きなものは、全く一緒とは限らないと思うし、その時の自分に素直になればいい。根本的にあるのは、さまざまなジャンルを見てみたいということ。いろいろなことを、もっともっと知りたい。


家具屋を見た後、いくつかの古着屋を見ているとき、冒頭に書いた瞬間は訪れた。有名人は、すぐに有名人だと分かるオーラがある。けれど、その人は、おれにとっては有名人であるけれど、他の誰かは全く知らないのかもしれない。彼は、ファッション雑誌にも登場するミュージシャンで、最近はあまり見ないが、おれは大学時代、通学する車の中で、毎日のように彼の作る音楽を聴いていた時期がある。おれはポスターを貼るのがあまり好きではなかったが、彼が写っているポスターだけは、小さくはあったがこっそり張っていた。彼が創る音楽や、彼の服のスタイルが大好きだった。おれは、その憧れの人とすれ違ったのだ。今でも信じられない。ただ、ものすごくかっこよかった。まさに’You are God!'。奇跡的な瞬間であった。


おれは家に帰り、久しぶりに「CHAMBERS」が聴きたいと思った。大学時代の思い出と、今日の素敵な偶然を照らし合いながら。

今回のおれの仕事のシフトは、すべて月曜日が休みとなっている。他の曜日はすべて仕事、だから今のおれにとって月曜日は、ハッピーマンデーと言えることだろう。休日は確かに良いものであるけれど、同じくらい良いのは、前の日の夜、つまり今だ。久しぶりの休日、明日は何をしようかなと考えるだけで、わくわくした気持ちになる。さまざまな「WANT」の集合だ。あれもしたい、これもしたい、もっとしたい、もっともっとしたい、いまはそんな気分。


洗濯がしたい。洗濯物を外に干したい。布団を干したい。布団カバーを洗いたい。部屋を掃除したい。トイレ、流し、洗面所を掃除したい。ガス代を払いに行きたい。駐車場代を払いに行きたい。まぁ、これはやりたいというよりは、やらなければいけない一人暮らしの現実的なこと。あとは、朝食においしいコーヒーが飲みたい、久しぶりに服を買いたい、新しいインテリアがほしい、観葉植物もほしい、ドライブ用のMDを作りたい、もうホントやりたいことがたくさんある。これらすべてやるためには、外は晴れていなければいけないし、ある程度、朝は早く起きなければいけない。おれは、毎日早く起きなければいけない仕事で、それはそんなに苦痛ではないけど、おれだって、朝ベッドの中でぐずぐずしたり、うとうと微睡んだり、夢を反芻したりしたい時もある。とにかく明日は、普段できないことを、できるだけ多くやりたい。


最近、少し寒くなってきた。季節が流れているのを感じる。朝と夜の温度計にも元気がない。窓を開けても、もうせみの鳴き声は聞こえないし、陽が落ちるのも早くなった。時間が経つのは本当に早いものだとつくづく感じる。それでもいつもと変わらず明日はやってきて、おれたちに平等に一日という時間を与える。おれたちは、当たり前のように、その現実を受け入れる。何の疑問も持たないし、不思議にも思わない。それぞれみんな歳を取るし、やがて新しい世代とすれ違う機会も多くなる。時代は否応なく進み、世の中はそのようにして続いていく。最近は、そんなことも考えるようになった。


明日は休日、それもまた現実だ。連勤が続くと、休みの日、天気が良いだけで幸せな気持ちになる。自分は何てラッキーなんだろうと思う。晴れたらいいな、切実にそんなことを願ってしまう。カーテンを開けて、気持ちよく晴れた空の下、太陽に向かって両手を伸ばしたい。明日がそんなふうにして始まることを願って。



仲間達が開いてくれるバースディ・パーティー。おれはいつもと違う感情をどこに隠していいかわからない。「おめでとー」が待つその場所へ。はやる気持ちを押し殺すことは簡単なことではない。家から会場の本牧までは車で1時間ほど。直線距離にしたら、そんなに遠くないのに、どの道も信号のないところで止まらなければならない。いつもならそれほど気にならないけど、自分の誕生日会となれば話は別だ。みんなを待たせたくない、少しでも早く着いて、みんなとの楽しい時間を増やしたい。けれど、この日の道路状況は、おれに対してひどく冷たく接し、残念ながら渋滞の一部分になる。


夜のドライブは、特にこの季節は、本当に気持ちがよい。窓を開ければ、なんとも優しい風が入り込んでくる。いままで、焦っている時、イライラした時、この風にどれだけ救われたことか。おかげで、心がひどく波立っている時も、踏み込む右足が冷静でいられる。横浜に近づいてくると、汽笛の音が聞こえてきそうな気がする。それは、自分の街は横浜なんだと確認させてくれる。


横浜を出て2年が経った。いまはもう、車のナンバープレートも「横浜」ではない。ここ最近は休みも少なく、家と仕事場の往復が続いている。そういうのが何日も続くと、毎日同じ動きをするロボットではないかと不安になる。けれど、おれはロボットのようにいつも上手くやることなんかできないし、疲れたりすることもあれば、眠くなる時もある。そのことでおれは、自分がロボットではないと確認する。


汽笛の音は、港町・横浜の象徴的な音で、新年になる瞬間は実家からも聞こえた。おれにとっては、お寺の鐘の音よりも、汽笛の音のほうが、新年という気がする。横浜を出て思うことは、横浜は本当に良い街だと言うこと。横浜以外のところで、自分は横浜出身だと言うと、たいていの人は羨ましがる。横浜にいるときはそのことに気付きもしなかった。いまは、その時羨ましいと言ってくれた人と同じ気持ちだ。外から見ると、なんて素晴らしい街なのだと思う。自分が当たり前だと思っていることが、当たり前にある。それぞれの街にも、その当たり前はあるけれども、それはおれにとっては当たり前ではない。街ごとには小さなルールがあって、地元の人はそのルールに安心感を覚えるが、外から来た人間にはある種の疎外感を与える。東京にいたころもそうであったし、いまだってそうだ。誰にでもある心の拠り所、それがおれにとっては横浜なんだと思う。


えーっと、そうだ、これはおれの誕生日会の話だ。プレゼントをもらうということは、言葉に言い表せぬほどの感謝である。そういう仲間と出会えたことは、何にも変え難い貴重な財産だ。お店の雰囲気もよく、料理もおいしくて、最高の気分であった。みんなと久しぶりに落ち着いて話ができたことも、もう一つのプレゼントだ。長い人生の中でもそうあることではない、過去を悔やむことも、未来に悲観することも必要としない、いまが楽しければいいや~、と思えるような特別な一日。人間に与えられるのは、結局のところ、’いま’だけ。だから、(現在=present)って言うんだよ、ってむかし誰かが言ってた。おれは、この夜、その話に少しも疑いを持たず、あっという間に過ぎた楽しい時間の中にいた。


仲間との時間、それはおれにとって、仕事へのエネルギー補給とも言えるかもしれない。何度も書いてるが、仲間との時間が充実していれば、自然と仕事も気持ちよくできるし、仕事が気持ちよくできていれば、仲間との時間も自然と楽しいものとなる。両者はイコールで結ばれるべきもの。大切なのはバランス。どちらかに片寄っている状況は、健全とはいえない。だから、今回の誕生日会は、絶対に仕事に良い影響を与えてくれる。たくさんのおいしいパンをお店に並べられそうな気がする。最近、仕事に傾きすぎていたから、自分の誕生日会ということを差し置いても、本当に良いみんなとの時間であった。


話は変わるが、最近読んだ本で、ちょっと嬉しい文章に出会えたので、以下に記載。


「幸せな人は、周りを幸せにするパワーを持つ。表面上は、単なる普通のパン屋に過ぎない男も、魂を込めたパンで多くの人を幸せにできる。それは、もしかしたら、平和のデモをやって道端にゴミを撒き散らす連中より、よっぽど平和に貢献していると言えるだろう。」


忘れかけていることを、少しだけ思い出したような、そんな気持ちになった。

大学の時、毎週のように行っていたあの場所へ。何かの巡りあわせで、また行く機会を持てた。まだ、2年しか経っていないのか、それとも、もう2年も経ってしまったのか、おれは自分の気持ちをどのように表現すべきか、迷ってしまう。ただ、一つ言えることは、そこはおれにとって深く意味を持つ場所で、喜びと笑い声がたくさん詰まった、想い出の場所ということだ。


過去のこととなると、おれたち人間は皆一様に、嫌な想い出を忘れてしまい、楽しい想い出だけを膨らませる傾向がある。おれは、この場所に行くことを大学を卒業してから、ずっと躊躇っていた。ひょっとしたら、そういう楽しい想い出のある場所は、本当にあった素敵なおとぎ話として、そっとしておいたほうが良いのではないかと。けれど、扉を開け、あの時の懐かしい’音’が、耳に伝った瞬間、それは間違いであったことに気付く。あの時と少しも変わらない自分の感情、それを無視することなんて、とてもじゃないけどできなかった。


この場所では、おれの周りには常に仲間がいた、仲間の笑顔がいつもすぐ近くにあった。おれたちは、数え切れないくらい馬鹿話もしたし、たくさん笑い合ったりもした。時には、何で笑っているか分からなくなって、それが面白くてまた笑い合った。幸せな時間だったと思う。くつろいだ爽快な気分が続き、エネルギーが充満していたあの時、この場所で。いくつもの季節を越え、また再び、おれはこの場所へ。日向の水溜りみたいに、時間が経てばそっと消えるような簡単なことなんかでは、決してない。自分の心にそういう場所を持っていること、目を細めて懐古できる場所があるということ、それは、ひとつの「幸福」なんだと思う。


残念なことだけど、最近、学生の頃は良かったなぁと思うことが多くなった。それは、たとえば老人が「昔は良かったなぁ」と呟くことと、同じ類のものであろうか。だとしたら、それはおれの中で、’老い’が進んでいるということなのであろうか。毎日、ページの片隅に折り返しでもつけておかなければ間違えてしまいそうな一日が続き、気付けばそれが毎日となり、くたびれたスニーカーを履くことが嫌になりつつも、自分に何ができるというわけでもなく、抵抗といえば、紐を締め直すことくらい。深みも奥行きもない安っぽい空は、おれはどうしたらいいのか、ヒントさえもくれない。労働とは単に、苦痛とお金を交換するものなんかではないはず。けれど、いまはそれを言い切れるほど、おれは強くない。そんな生活の中で、ひとつ希望が見えるのは、仲間との時間だ。日々の中に充満している汚いものや、醜いもの、心を悩ますものを、見事に忘れさせてくれる、なんとも美しい時間。それは、人生のバランスを取り戻すための貴重な視点であり、そのおかげで、おれはまだ何とか、楽しいことを楽しいと思えるのかもしれない。


大学の時、毎週のように通ったあの場所。屋上から眺める街の景色が好きだった。気持ちの良い、優しい風が、おれを一層懐かしませる。おれは、あの時見ていた場所よりも、もっと遠くを見ていた。楽しいことも辛いことも、どんなふうに感じるかは結局のところ、自分次第。何の脈絡もなく、おれはそんなふうに思った。













新しい友達がやってきた。


人見知りのおれは、最初の言葉を何にすべきか迷う。


これから先、長い付き合いになっていくことだろう彼に、


おれは何がしてあげられるのだろう。


それでも彼は、おれが想像していた以上に、かっこよく登場した。


彼の全身は、ピカピカに光っている。


ラフな格好でいたおれには、何だか不釣合いに見えた。


けれど、これから先はおれが面倒を見なければいけない。


彼のエネルギーとなるものは、最近ずっと、値上がりを続ける。


しかも、前の友達よりも体が大きいから、その分、


より多くのエネルギーを必要とする。


結果おれは、より多くのお金を支払わなければならない。


けれど、おれは初めて彼を見たときから、決めたんだ。


彼がおれに与えてくれるものに比べれば、


そんなの全然小さなものなんだって。


これから彼とどこへ行こう。


季節的に紅葉を見たり、温泉もいいな。


遠くへ行く時は、彼はすぐにおなかが空いてしまうから、


早めに満たしてあげないとな。


彼はきっと、おれのほかの友人達にも好かれるだろう。


2~3回一緒にドライブしたけど、すごくいい奴だって、すぐに分かった。


しかもすごく他人思いで、優しい。


彼はおれに対して、一つ心配事があるだろう。


おれがお酒を飲んだ状態で、彼と会わないかどうか。


けれど、それは全く問題ない。


おれはアルコールと彼がひどく仲が悪いことを知っているから。


だから、前の友達と同じように、おれに


楽しい想い出を与えてほしい。


おれが汽笛の音が聴きたくなったら、


すぐに連れて行ってほしい。


そのために、おれはできるだけのことはするつもりだから。