みなさま、こんにちは。Lynnです。

今日は「⑥三木清「語られざる哲学」抜粋ノート」と題してお届けします。


三木清著「語られざる哲学」の概要は

こちら。



角川ソフィア文庫では「人生論ノート 他二篇」の p173~p266に収録されています。


1から12に割り振られたもののうち

今日は11を。


わたしが付箋をはった箇所を

みなさまと分かち合いたいです。


なお、(…) の中略、改行ならび

「・」での箇条書きは

わたくしリンによるものです。



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**11**



p250

【いわゆる近代人は(…)
偉大なるものよりも平凡なるもの、健康なるものよりも病的なるもの、古典的なるものよりも特性的なるもの、深きものよりも鋭きものに
より多くの興味と関心とを見出す。

彼等は無邪気な心をもってものをそのまま受け容れて味わうことができないで、猜疑(さいぎ)の眼を見張って一切のものを分析し批評する。

彼等は一冊の本を読むとき
何がその中で永遠なるものであり、また
何が自己の魂を高めることに利益し得るかを顧みないで、

その内容についていかなる点が
自己の能力をもって指摘し批難し得る欠点であるかを見出すことに興味と努力とを向けておるのである。

彼等は深く体得することよりも
鋭く批評することを喜ぶ。(…)

すなわち彼等は
深き心よりも鋭き頭を欲する。】


* * *


p250~251
【また彼等は一人の人に接するとき、
ことに偉大なる人に対するときにそうであるが、

その人において
何が長所であり何が自己の魂の高揚に貢献し得るかを正しく感じ出すことを措(お)いて、まず何がその人にあって批難さるべき短所であるかに注意しようとする。

彼等は博大な心をもって人を抱擁しようとはせず猜疑の心をもって人を排斥しようとする。


しかし根本的によくないことは、

彼等がかくのごとく振る舞うことが、
彼等自身絶えず不安と焦燥とを経験せずにはいられないのであるのに、

それだけで非常に新しい
従って彼等の評価に従えば
非常に豪(えら)いことのように考えて
思い上がっていると云うことである。

一言にして云えば
彼等の心は拗(す)ねている。

けれど
私達が伸びやかな心を回復すべき
時は来た。】


* * *


p253~254
【利口な人、世故に長(た)けた人と普通称讃されておる人達を見るに、彼等は自ら少しの反省をなすこともなしに、
人間はこんなもの、社会はこんなもの、女はこんなものなどと勝手に決めてしまい、
そしてそれに協(かな)った幾つかの規矩準縄(きくじゅんじょう)を作って
ひたすらにそれを実行しようとしておる。

彼等の生活は
要領のいいものであるが生命力がない、
整っているが魂が欠けている、
滑らかだが深みがない。

しかも彼等は
彼等の生活が当たり前の生活だと無造作に考えて、もし彼等以外の生活を生きようとする人があれば
不思議に感じながら嘲笑する。

彼等が
・本当に自分自身に生きようとする人、
・生命の源に立ち返って人生を味わおうとする人、
・真実の要求に従って生活しようとする人が
悩み、悲しみ、夢みつつあるのを
見るとき、

彼等は合点ができない
と云わぬばかりの顔をして
大人振った口の利(き)き方をしながら
云う、

「君達はまだ人生を知らないのだ。
現実がどんなものだか分かっていないのだ。」】


p256~257
【いかなる苦しみにも堪え忍びつつ自己の精神を向上せしめる偉大な人々においてはもちろんあり得ないことであるが、

矮小(わいしょう)な私達の魂にあっては、
多くの事実が示しておるように、

あまりに多くの悲しみや苦しみは
私達の心を曲げさせ、拗(す)ねさせ、卑屈にし、猜疑的にする。

要するにそれは
素直な心を伸びさせない。】


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あとは「12」を残すのみとなりました。
おつきあいくださってありがとう。