みなさま、こんにちは。Lynnです。
今日は「④三木清「語られざる哲学」抜粋ノート」と題してお届けします。

三木清著「語られざる哲学」の概要は
こちら。

角川ソフィア文庫では「人生論ノート 他二篇」の p173~p266に収録されています。

1から12に割り振られたもののうち
今日は8~9を。

わたしが付箋をはった箇所を
みなさまと分かち合いたいです。

なお、改行や (…) の中略は
わたくしリンによるものです。


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**8**


p226~227
【私は傲慢な態度をもって他の人々を蔑(さげす)みつつ云った、
「君達は虚栄心に支配されている。金銭や名誉が何になるのだ。本当に自分自身に還って生きない生活は虚偽の生活に過ぎない。」
なるほど、私の云うことは言葉通りには正当である。けれども私の言葉にはそれを生かす魂の純粋が欠けていた。(…)

それがいかに正しく、よく、美しき言葉であり忠告であったにしても、もしそれが謙虚な心と愛とから出たのでなかったならば、結局無意味なことであるに相違ない。

しかしながらさらに悪いことは、
そう云う私自身が一層強く虚栄心に燃えていたことである。

他人の眼にある塵を見て
自己の眼にある梁(うつばり)を見ないのか、

私はこう自分自身に向かって叫びたい。】


p228
【愛するものによって自己の魂を高め
もしくは愛するものの魂を純粋に成長させてゆこうとする心よりも、

愛する者によって醜い心に媚び
もしくは愛するものを誘惑して自己のところまで引き卸そうとする心が
私の心の中に勝ってはいなかったか。】


p233~234
【一個の個性は
パラドキシカルな言葉を用いるならば

一人の人間であって同時に
数人の人間として互いに相対立し矛盾し
衝突する心をもっておるものであること、

個性は
これを分析したり抽象したり記述したり定義したりするときはそれの個性としての特質を失ってしまうこと、

それゆえに
個性の説明は終局は「AはAである」と云う同一命題以上に出でることができず、
個性の評価はそれの全体に向かい得る直観においてのみ正当になされると云うことである。

かようにして個性と個性との理解は、
語られる点においてではなく
語られざる点において
深き根柢を見出すがごとき理解である。】


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「9」は付箋をはった箇所がなく。
次回は「10」からお届けします。

おつきあいくださってありがとう。