気持ちが疲れている時は

バナー広告にも惑わされやすくなる。

 

仕事をするときはPCをひらく。

たいてい何らかの調べ物が必要になるし

そうでなくても辞書や類語ツールが必要なので

いつもブラウザを開いて

何らかのサイトにアクセスしている。

 

サイト上には何かしらの広告が

いつもどこかに表示されている。

 

集中しているときは目に入らないものが

もう仕事が嫌になっていて

散漫になった気持ちに飛び込んでくる。

 

ついつい

商品の見定めを始めてしまう。

 

類似商品を検索したり

同じようなものがオークションやユーズドにないかどうか

調べ始めたりしてしまう。

 

そこまでくればもう

衝動買いまっしぐら。

 

カードの明細を見て

背筋が凍るのはわかっているのだけれど。

 

 

たまたまTVをつけたら

「かっとびなわとび王選手権」とやらの

再放送をやっていた。

 

こんなのがあるんだ。

知らなかった。

 

出場者するのは全国から勝ち上がってきた小学生チーム。

4~5人が横一列で肩を組み、

それが8~10列ぐらい連なって

大縄を8の字を描きながら、飛び抜けていく。

 

1分間続けて延べ何人が跳べたか。
これで勝敗を競うらしい。

小学生たちの一糸乱れぬ動き。
いや、すごかった。驚いた。

途中引っかかっても
すぐまたやり直せばいいのだが
その間のタイムロスは痛い。

速く跳ぶことも大切だけれど
ミスをしないことはもっと大切。
自分一人が足をひっかけたら
チーム全体の記録がだいなしになる。

そんなことを思いながら見ていたら
めちゃ緊張してしまった。
ハラハラしすぎて
しまいに涙が出てきてしまった。

あの大縄を回す2人の小学生もすごい。
私ならとてもじゃないけど
プレッシャーが重すぎてできないだろう。
てかそれ以前に
運動能力がなさすぎて
参加することが不可能だ。

TV放映されるのは勝ち残った4チームのみ。
彼らがひたむきに練習を重ねてきた様子が
競技の間に放映されるのだけれど
たぶんここまで残れなかったチームも
同じぐらい頑張ってきただろう。

努力はもちろん必須だし
とてもとても大切だけれど
努力だけでは優勝はできない。

努力が実らないことは
これから先にもたくさんある。

それでもやっぱり
力を尽くすことは
とてもとても意味があるとも思うのだ。

先日、オラファー・エリアソンの

ドキュメンタリー映画を見た。

 

オラファー・エリアソンは、

世界中を飛び回る現代美術家。

デンマークに家族と暮らしながら

ベルリンにスタジオを持ち

仲間たちと一緒に作品をつくっている。

 

ロンドンで不思議な人工太陽を作ってみたり

NYのハドソン川に巨大な滝を出現させたり

金沢21世紀美術館でも

訪れた人のステップが波模様に変わる

素敵な作品を展示していた。

 

そんな彼の映画だから構成もユニークで

突然、画面の中のエリアソンがこちらを向いて

話しかけてくる。

 

たとえば

「いま画面は真っ白だ。

 さてあなたは

 どんな作用があれば

 この画面を空間だと

 認識するようになるだろう」

で、本人が登場。

確かに、その瞬間

ただの白い画面が空間に変わる。

 

また「これは赤いボードだけど

 これが照明だと思ってみて」とか。

 

彼が訴えてくるのは

アートは送り手と受け手の相互作用から

対話から生まれるものだということ。

 

それをわかりやすく伝えてくるのがこの映画。

 

一番印象に残ったのは

彼がアイスランドの氷穴を撮影しているシーンに

かぶさっていたモノローグ。

 

「なぜこんなことをするのかって?

 自分の感度を上げていくのが

 僕の仕事だから」

 

生み出すよりも

それ以前の受け取る力を上げること。

それが自分のタスクだと言う。

なるほど。

妙に納得してしまった。

 

映画の内容やセリフは全部うろ覚えなので

不正確だけれど

たぶん全体的な印象としては間違っていないと思う。

 

 

 

 

 

 

実家の母がじわじわと断捨離をしているそうな。

いま整理しているのは写真。

自分の思い出がある旅行写真は捨てられないけれど

酔っ払ったおっさんばかり写っている

父の宴会写真は大量に捨てたそうだ。

 

まあそりゃそうだろう。

父自身が写真を見返すような人ではないし

誰も顧みない思い出はただのゴミになる。

もっとも1000年以上たてば

それなりに価値がでてくるかもしれない。

 

いやいまの時代

生活情報も山ほど後世に残るだろうから

1000年じゃ無理かも。

10000年ぐらい残れば

それなりに価値が出るだろうけれど

そのときに人間の社会が

残っているかどうかが問題だ。

 

ともあれ

写真の整理をしていて

古い布地がでてきたそうな。

 

布団カバーとか服とか

さまざまなものをつくったあとの残りで

きれいないい布だからと

きちんとアイロンをかけて畳んでしまってあった。

何十年も、そのまましまってあった。

 

「いまさらねえ、使うこともないもんねえ」と母が言う。

さみしい気持ちがするけれど

同意するしかない。

 

このさみしい気持ちはどこからやってくるんだろうか。

 

何十年と使われなかったものを

捨ててもなんら影響はない。

第一、母も私も

ずっと忘れ果てていたものなのだけれど

なぜ悲しくなるんだろうか。

 

 

 

 

 

中世のヨーロッパでは

とにもかくにもキリスト教のことを知るのが第一で

聖書のフレーズを覚えていなければ

たぶん何も始まらなかっただろうな。

 

農業技術と知識が基本だった世界、

操船技術と気象の読み方が重要だった世界、

いろいろあろうけれど

いまはとりあえず情報機器を扱えること

なんだろうか。

 

人と話をすることや

その内容から状況を推測すること

先読みして立ち回ることなんかは

たぶん時代が変化しても

変わらず必要なものだろうな。

 

いま一生懸命に覚えている知識や技術が

近い将来必要なくなるということも

十分にありうる。

 

昔消えたはずの知識や技術が

再び必要になることも

十分にありうる。

 

いま盛んに言われているように

AIが本当に進化を遂げたとしたら、

これまでのルールがガラリと変わるかもしれない。

まったく違う構造の社会が

もしかしたら私が生きているうちに

やってくるかもしれない。

 

楽しみでもあり

不安でもある。