・・・・・・でもない。

サボろうとしてサボっていて、数日間が空いた。

一度放ったらかそうと思った。

 

この数日、パンへの欲求が燃え上がってしまい

1キロ弱増えている。

炭水化物系、糖質系、一度食べるととまらない。

わかっているんだけど手が伸びる。

自分コントロールは難しい。

 

さて、本日は月曜日。

外はくもり。

冬の気温だけれど、まだ真冬にまで至っておらず

空気の冷たさがゆるい。

 

先程一件、ネットで入稿。

昼前にお客さんと待ち合わせ。

帰ったら次の仕事のラフをつくる予定。

 

同じような屁理屈をごねごねと書いてきたので

ちょっと転換して

事実を淡々と書く方向はどうだろう。


方向はいくつかある方がいい。
でも最初からいくつも用意しないほうがいい。
自分の場合、不器用なので
何か思い込むとしばらくはそればかりになる。
それをやめて違うことをやろうとすると
とっちらかって、何もできない。

だからとりあえず1方向。
飽きたら次の方向。
前の方向を捨てる必要はない。
そういう感じでいくつもり。

 

 

 

 

冬にはダウンを着るのが普通になってしまったけれど

自分の場合、そんなに昔からのことではないはずだ。

 

初めて買ったダウンは覚えている。

たしかどっかのブランドの福袋に入っていたやつだ。

意外とよくて長く着たんだけれど、それ以前には

どんなコートを着ていたっけ。

考えてみるとなかなか思い出せない。

 

社会人になった頃に買ったのは赤と黒のコート。

いま考えると大して防寒性はなかったと思うけれど

冬の上海旅行にも着ていった。

思い出せるのは旅行写真のおかげかもしれない。
でもそのあとは?

バブル期に

大枚はたいて買った黒の革ジャンは

かなりかなり長く着倒した。

革の質がよくてやわらかくて

いまも捨てる気にならない。

まあ、肩幅やら何やらが大げさすぎて

ちょっと着て歩く勇気はないんだけれど。

 

でもその前は? そのあとは?

母にもらった海外ブランドの緑のコートがあったっけ。
でもそれだけじゃないはず。
白と黒の大きな千鳥格子のチェスターコートを持っていたな。

でもそれだけじゃないはず。

黒の中綿の大きなぶっかりしたのもあった。

でもそれだけじゃないはず。

 

記憶のどこかに

たくさん着たのに忘れてしまったコートが落ちているはず。

 

不安から解放されたくて

心を安心させたくて

いろいろと方法を探してみたり

試してみたりするのだけれど

最近は

どうも安心することはよくないらしい

と思い始めている。

 

「変化は常態である」といったのはドラッカーだったか。

 

安定してしまうのは、むしろとても稀な状況で、

自分がもし安定したとしても

必ず周囲が変化していく。

 

自分の安定に安心して

周囲の変化に気がつかない。

これはとてもよくあること。

 

一所懸命頑張って働いて、

管理職になり部下と責任を持った後、

自分でも気がつかないうちに守りに入っていて

いつのまにか古い世代になっているのは

そういうことだろうなと思う。

 

安心しないこと。安定しないこと。
いつも不安とドキドキを抱えながらも、幸福でいること。
不安とドキドキを味方につけること。

私がこれまで否定してきた感情は
肯定すべきエネルギー源だったのかもしれない。

父親が転勤族だったので

小学校は3つ行った。

 

幼稚園から小学1年まで住んでいた家、

間取りもろくに覚えていないのだけれど

小さい庭にバラの木が数本あったことは

しっかり覚えている。

 

台所側の裏庭には

紫と白のシランが咲いていた。

 

学校へ行く途中

団地のなかを突っ切るのだけれど

夏にはゼニアオイ、トロロアオイが咲いた。

 

裏山を登ったところにお宮さんがあって

その近くに水道局の浄水場があった。

広いきれいな芝生の上に

巨大な土管がゴロゴロしていて

なかなかいい遊び場だった。

 

芝生の中には

小さい小さい紫色のニワゼキショウが咲いていた。

 

どうして草花だけ

あんなにしっかりと覚えているんだろう。

そしてその名前を

私はいつどうやって知ったのだろう。

親に聞いた覚えはないし

当時の自分が知っていたはずもない。

 

不思議だけれど

何十年経っても草花の記憶は鮮明だ。

小学生の内にいい先生に出会えれば

一番いいんだけれど、

私の場合は優等生であることを褒められて

ちょっと間違った道に

入ってしまったと思っている。

 

教室に並んで教科書を読んだり

先生の質問に応えたり

宿題の答え合わせをすることは

やりたくないことも、我慢して耐える訓練になる。
やりたくないことにも、一度はかみついてみる訓練でもある。

うまくすれば理論立てて考える訓練もできる。

 

いい学校は、卒業校名ではなく、

そこにいる

級友や先生に意味がある。

 

日常的に努力することができる人や、

本当に地頭がいい人など
そういう人と出会えるのが

いわゆる偏差値の高い「いい学校」のメリット。

 

テストの点を上げることだけに長けた先生と

テストの点だけがいい人ばかりの

均質な学校に入ってしまったら

それはかなりの不幸。

 

逆に「すごい人がいる!」のなら

やっぱりそこへ行ってみたい。

 

よく知りもせず、考えもせず、努力もせず

聞きかじりの知識で妙な批判ばかりしていないで

もっとちゃんと考えて

いい学校をめざすべきだったかなと

いまさらにして思っている。