14. 大丈夫、どうせ人生うまく行く~一生忘れない手のぬくもり~ | 雨の日も風の日もそして晴れの日も! In アメリカ

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1998年、国際結婚を機に渡米。 アメリカの企業で企業管理者として勤続25年。本業と並行して、英会話コーチしています。バリキャリアラフィフ女の笑える日常生活をアメリカからお届けします!私の詳細についてはプロフから!

私の人生、50年を振り返っています。

 

渡米して最初に住んだ州はイリノイ州の田舎町、私以外は白人だらけという町でした。

 

そんな中での2年間の生活、そして工場勤務。

 

私はここで、人種差別を経験します。

 

これについては過去記事がありますので、最後にリンク貼っときます。

 

こんな町には住めない。

 

私だけならまだしも、今後子供が出来た時、子供にこんな環境で育ってほしくない。

 

それが一番の大きな理由で、今の州に引っ越してきたのが2000年の事でした。

 

それ以来、ずっとこの州に住んでいます。

 

旦那の母親がこの州に住んでいたので、ここに落ち着いた、と言う感じです。

 

ここでの生活は、私の今の人生に大きな変化、そしてチャンスを与えてくれました。

 

2年間の工場勤務を経験し、アメリカで働いた経験を活かし、デスクワークに就く、それが次の目標でした。

 

でも職探しを始める前に、一度日本に里帰りをすることにしました。

 

それまでグリーンカードの申請で、2年間ほど日本に帰る事が出来なかったので。

 

帰れなかった2年間の中で、亡くなってしまった祖父のお墓参りに行ったり、母と一緒に毎日スーパーに夕食の買い物に行ったり。

 

ゆっくりとした時間を家族と過ごした。

 

その頃は、同居していたばあちゃんもまだ元気で、私の手を両手で握り、「ずーっとLeahちゃんの事を考えていたよ」と言ってくれた。

 

当時はインターネットもスマホもない時代。

 

きっとばあちゃんは、時々聞く父や母からの話でしか私の様子を知る事は出来なかったと思う。

 

私が出した人生の決断によって、寂しい思いをしている人がいる。

 

それを思うと心が痛かった。

 

日本滞在を終え、滞在最終日を迎えた日、母はお寿司をとってくれた。

 

みんなでお寿司を食べている途中で、母がいないことに気づいた私はキッチンを出て母を探しに行った。

 

そこには一人声を殺して泣いている母がいた。

 

父も来て、私の手を握り、「生きてさえいれば必ずまた会える」そう言ってくれた。

 

私はあの時の父の手のぬくもりを一生忘れない。

 

つづく

 

私が人種差別にあった時の過去記事です。