藤子・F・不二雄『カンビュセスの籤』 | たまゆら
2005年12月15日

藤子・F・不二雄『カンビュセスの籤』

テーマ:本の紹介

 カンビュセスの籤

 後年、藤子・F・不二雄の代表作として看做される作品は、恐らくこれではないだろうか。藤子・F・不二雄が持つ、豊富なアイディア、アレンジの巧さ、ストーリーテリングの手練さ、社会問題に関するリリシズム。そのほとんどが41ページの中に現れている。藤子・F・不二雄の持つこれらの魅力が、『ドラえもん』を主軸に論じられることで薄れてしまっていることは、一ファンとして、残念でならない。

 確かに、圧倒的代表作、『ドラえもん』にも、藤子・F・不二雄の魅力はあふれている。だが、主人公が商標として一人歩きしてしまうという児童漫画特有のジレンマゆえ、『ドラえもん』からは、作品としての力は悲しくも殺がれている。藤子・F・不二雄の力量を知る者としては、商業的に生産されざるをえなかった数々の作品を読むのは実に痛々しい。晩年を『ドラえもん』の執筆に注いだ藤子・F・不二雄にあって、『ドラえもん』を描き続けることは、決して望んでのことではなかったのである。

 藤子・F・不二雄は、娘である藤本匡美氏にこんなことを漏らしている。

 

――『ドラえもん』をやめさせてくれないんだ。

 

――SF短編の仕事が来ても断らないといけない。今度『魔美』も終わりになったんだ。

 

 様々な小説を紹介し、様々なことを語らい合った娘にそんな愚痴を漏らす藤子・F・不二雄の心中は、察するに余りある。『ドラえもん』は、まさしく一人歩きし始め、作者がドラえもんに引っ張りまわされるようになっていた。大昔の大ヒット曲を、今になっても歌わねばならない歌手の苦悩にも似ているのかも知れない。『ドラえもん』の連載が何よりも優先される中、上記の発言にもあるように、かの名作、『エスパー魔美』は、たった九巻で終わってしまった。小松左京をして、「作品全体にあふれる愛らしく、かつフランクな『インファント・エロティシズム』」といわしめたこの名作も、『ドラえもん』に踏み潰されたのである。

 毎年公開されていた『大長編ドラえもん』も、実は商業主義的に回転していた。藤子・F・不二雄自身、「もう来年は、冒険に出掛ける所がない」と漏らしているのだが、「ヒット→アニメ化→映画化→大衆のポップアイコン」という大量消費の矢印が、藤子・F・不二雄を児童向け漫画家の箱に押し込めたのである。

 小学館は最近、実にいい仕事をしているが、この責任は重い。私は今でも恨んでいるのである。『ドラえもん』に藤子・F・不二雄を縛り付けるなど、手塚治虫に『鉄腕アトム』だけを描かせ続けるようなものではないか。『アドルフに告ぐ』のない、『火の鳥』のない、『グリンゴ』(未完だが、素晴らしいの一言)のない手塚治虫にどれだけの魅力があるか。

 勿論、藤子・F・不二雄自らが、おのれの作品を商業的利用されることをあえて受け入れ、ポスターなどに使用されるドラえもんを見て、「光栄だ」などと述べていることは指摘しておかなければならない。「僕の漫画は風俗だ。読んだら読み捨てられていい」という言葉にもあるように、彼は漫画というものの性質をよく弁えていた。だが、手塚治虫のライフワークであった『火の鳥』に相当するものが、藤子・F・不二雄の場合、SF“短編”だったというのは、ファンからすれば少々寂しくもある。

 これだけの才能を、長編で結晶させて欲しい、心を揺さぶって欲しい。そう願いはしても、藤子・F・不二雄は私が小学六年生の時に亡くなってしまった。それゆえ、こちらを圧倒し、呆然とさせてしまうような長編は、結局生まれなかった。だが、珠玉の短編だけは残った。数にして全百十二編のSF短編は、どれも『ドラえもん』ではやれなかった鬱憤が現れているようで、実に力強い。

 

 その中でも、傑作として呼び声の高いのが、『カンビュセスの籤』である。『ミノタウロスの皿』も人気は高いが、そして、個人的には『倍速』、『ノスタル爺』が好きなのだが、やはり『カンビュセスの籤』が質において傑出している。

 タイムトラベル、価値の逆転、種の保存、終末戦争…。

 SF短編における藤子・F・不二雄のモティーフ、そのほとんどがここにはある。『別冊問題小説』に掲載された、この作品に見られる藤子・F・不二雄の力の入れようは、こちらを震えさせるに十分であった。

 物語は、古代ペルシアの身なりをした男が、砂漠をさ迷うシーンに始まる。

――太陽というものはあんなにも赤かったか? あんなにも大きく……暗かったか。

 冒頭から男は、おのれの運命を暗示する科白をあっさりと、何気なく吐いている(このあたりが、短編の魅力でもあり、悲しさでもある)。古代ペルシアにおける、ゾロアスター教の最高神、アフラマズダは光の神であるにも拘らず、太陽は異様に赤く、大きく、そして暗い。ニーチェではないが、この物語において、神はすでに死んでいるのである。

 神なき砂漠に夜がきて、男は一条の光を見る。その光に「光明神(アフラマズダ)よ!」と叫ぶ男だが、男は体力の回復を図るため、一度眠る。読者を焦らす遅延の手法がここで用いられていると同時に、神なき後の世界に、未だ神を見ようとする男の時代錯誤ぶりを、対比の手法によって藤子・F・不二雄は実に鮮やかに描ききっている。

 その後も、物語になくてはならない、魅力的な手法が続く。一夜明け、昨夜の光を探す男は、「籤を逃れるべきではなかった。どうせ死ぬのなら……」と、すでに物語内では起こってはいるが、まだ読者には提示されてはいない事柄を提示することによって、後に語られるであろう、「籤」にまつわる挿話への期待を惹起させ、その伏線を敷くと同時に、物語内において時間のズレが起こっていることも同時に示してしまっている。その前にある、「風と砂塵…お前たちだけか…この世に生きながらえているものは…」という一言が、時間を飛び越えてしまった者の苦悩を暗示しているからだ。

 つまり、まだ一切は書かれていないが、「死を逃れて、死に接近するというアイロニー」というテーゼがここで既に提起されているのである。

 そして男は、光のもとへ辿り着く。男にとっては神であった筈の光だが、その光の源であったその場所は、神とは真逆の性質を備えている。あるいは、神とはそうしたものであるのか。

 そこにいたのは、若い女である。彼女は巨大コンピュータを操り、男の身なりだけで「バビロニアかアッシリアかペルシアか。古代オリエントの物らしいけど」と見抜いてしまうが、まだ翻訳機の修理が済んでいないため、二人は会話を交わせない。そのため、エステルという名のその女は、独り言のようにして語りかける。

――ここで人を待ってるの 誰かはわからないけど。あなたじゃないことは確かよ。

 神が死に、人も死に耐えたこの場所で、女は待ちぼうけを食っている。では、一体誰を待っているのか?

――お客様は外宇宙からくるのよ。このシェルターからは絶えず信号が送り続けられているの。地球外文明に向けて。何万か……何千万光年か先からの応答を期待して、救いを求め続けているわけ。23万年待ったわ。あなたにわかる? 23万年の年月の重みが。こんども梨のつぶてに終わりそう……

 そう語り終えた女は、男の胸で泣く。まだ言葉の通じ合わぬ両者だが、二人は星を見上げて抱き合うのである。地球には、もう二人しか残されていない。その寂しさも、その待ち侘びた年月も、何もかもが遠すぎる。

 そして、翻訳機の修理が完成し、ようやく男は古代ペルシア時代のことを語り始める。ここまで完成を遅らせた藤子・F・不二雄の感覚は、ただただ素晴らしい。読者が、冒頭での伏線を忘れたころを見計らい、ここぞといわんばかりに提示する技術はさすがだ。

 行軍の最中、飢餓が彼らの軍勢を襲い、男は「カンビュセスの籤」を引いた。十人単位で籤を引き、当たった一人を、残る九人が食べるというものである。

――人間があそこまで野獣になりきれるものか。

 その籤に当たってしまった男は、生きたい一心で逃げ、霧の谷を抜けると男は、未来へと運ばれていた。地獄から逃れることのできたことを神に感謝する男だが、辿り着いた未来でも、男は再び籤を引かねばならない。終末戦争が、全ての生物を焼き殺してしまったがゆえ。そして、地球外からの助けを待つ一万年の冷凍睡眠には、食料が必要であるがゆえ。

 歴史は繰り返す。いや、歴史を重ねるごとに、物事は過剰になっていくのだ。

 男は籤を逃れ、再び籤を引かなければならない境遇にあるわけだが、その確率は十分の一から二分の一になっており、「生きる」という意味もまた、同様にして過剰になっている。以前の「生きる」は、軍勢の維持くらいの意味しかなかったのに、今の「生きる」は人類の存続そのものであるのであるのだから。さらに、男が抱く「望郷」という概念もまた過剰に引き伸ばされており、地球からは祖国などとうに失われ、「望郷」の地は、地球とイコールになっている。数の縮小は、時に拡大を引き起こすのである。

――全ての生命あるものの行動の目的は一点に集約されるのよ。生命を永久に存続させようという盲目的な衝動……ただそれだけ。この世にありたいということ。あり続けたいということ。ただそれだけ。そしていまやあたしたちは有史以前から地球上に発生したあらゆる生命体の代表なのよ。一人でいいの 一人生きのびれば充分なの。クローン培養でコピーは無数につくれるわ。更に遺伝情報の制御で進化の跡を逆にたどり地球の生物の全種属を再生させることも可能なの。だから一日でも永く生きる責任が…

 女の科白は重い。この作品がただのSFではないのは、この科白があるからである。

「クローン培養でコピーは無数につくれるわ」

 籤に当たったのは、女だった。女がミートキューブの作り方を教えるシーンでこの物語は終わるのだが、これが実に新鮮なのである。

 手塚治虫『火の鳥』の黎明編において、洞穴に落ちた者が近親相姦をするシーンがある。周囲と断絶された中で種の存続を図るには、それが近親相姦であろうと、交配して種を増やさなければならない。絶滅寸前にあり、残り三十頭ほどしか存在しないアムール豹なども、今はすさまじい近親相姦を行って種の存続を図っている。しかし、『カンビュセスの籤』では、性交という手段は全く持ち出されない。二十三万年もの時を待った女だが、性交をではなく、食料を求める。クローン技術や種属の再生は、地球外生命の技術を待つ他ないがゆえ、二人は交わることなく、ただ、籤を引く。

 そうした性欲と食欲の逆転を、藤子・F・不二雄は『気楽に殺ろうよ』においても描いている。食事が実に密やかに行われ、「性の解放」ならぬ「食の解放」が進歩的だというような世界であり、「立食パーティ」が「乱交パーティ」のように扱われ、その写真がポルノグラフィとして存在している。

 そうした、『気楽に殺ろうよ』においてコメディタッチで描かれたいた逆転の構図だが、『カンビュセスの籤』では、実に重く、実に効果的に、そして、実に密やかに描かれている。

――あたしを食べるのがあなたでよかったわ。いくら覚悟していたって。嫌いな人の血や肉になるのはうれしくないもの。

 性交は食に姿を変えたばかりでなく、誕生=転生の役目も果たす。そして、「食べてしまいたいくらいの愛しさ」は、「食べるがゆえの愛」へと昇華する。死という重大事を前にして、女の表情が晴れやかなのは、恋するがゆえである。性は食へと姿を変えているのだから、女がミートキューブになる儀式は、まさしく初夜のそれである。

 女が肉になってしまう前、二人はひしと抱き合う。性による交配なき世には、恋さえももはや成就しない。ラストシーンで裸になる女の明るい表情に宿る、悲しみ、切なさ、絶望感。それらはまさしく、滅びゆくもののみが持ちえる華やぎである。

 

----------------------------------------------------------------

藤子・F・不二雄

藤子・F・不二雄

 1933年、12月、富山県高岡市生まれ。

 本名、藤本弘。

 1948年、小学校の同級生である安孫子素雄(後の、藤子不二雄A)と同人誌を発行し、「毎日小学生新聞」に投稿された『天使の玉ちゃん』でデビュー。

 1964年、「有限会社スタジオ ゼロ」を、石森章太郎(後、石ノ森章太郎)、つのだじろう、安孫子素雄、鈴木伸一らとともに設立。当時、「おとぎプロ」の動画部長であった鈴木伸一は、「小池さん」のモデル。鈴木は、あみだくじで社長に就任する。

 「スタジオ ゼロ」では、『鉄腕アトム』のアニメ製作を手伝ったりもしている。

 1987年、安孫子とのコンビを解消し、ペンネームを藤子・F・不二雄とする。

 1996年、9月、63歳で逝去。

 『ドラえもん』『オバケのQ太郎』『パーマン』『エスパー魔美』など、児童向けに描かれた代表作の他、一般向けの短編も数多く残す。

 

 平成17年 12月16日

 藤子・F・不二雄先生の、安らかな眠りを祈って。