今日は、前回紹介したドミニクの弟、
フランソワ・ペカットについて、書こうと思います![]()
その前に、ドミニクの記事で、一つ翻訳し間違えたところがあり、訂正しました![]()
最後にドミニクが引っ越しをしたのは、弟が亡くなる前でした。
ほかに違ったところ、ないといいな・・・![]()
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フランソワ・ペカットは、1821年3月10日、ミルクールに生まれます。
兄のドミニクとは、11歳違います。
ミルクールで弓職人の仕事を学び始めますが、1840年少し前から、
パリにいる兄の評判が、彼の下まで聞こえていたそうです。
フランソワもパリへ行くのですが、このことは、残されていた1844年付けの手紙に、
”パリからの15か月ぶりの帰還”とあることから、わかりました。
弓のスタイルが兄と似ていることから、おそらく兄の下で修業をしたのだと思われます。
ドミニクの記事でも書いたと思いますが、
この時期、いくつか兄とコラボした弓が作られています。
また、ヘッドのスタイルにJoseph René LAFLEURラフルールと似たものがあることから、
彼ともかかわりがあったと推測できます。
1843年、ミルクールへ戻り、結婚します![]()
彼は5人の子供をもちますが、最後の5人目のCharlesシャルルが、
のち弓職人となります。
1844年に彼の書いた手紙に、従業員の数などが記されており、
彼の仕事の繁盛ぶりがうかがえます。
この時期、フランソワは自身の弓を1F~50Fで売っており、
同時代のパリの職人より、だいぶ安いです。
例えば、CHANOTシャノは11F~100Fで販売しています。
1847年、兄ドミニクが、ミルクールへ戻ってきます。
前述したとおり、ドミニクの弓の生産量は、ここから減ります。
この時期、どちらの印があってもおかしくないほど、
作風の似た弓が生産されますが、
書類の上では、2人は共同経営ではなく、
独立した工房をそれぞれ持っていることになっています。
1851年、フランソワは家を3,500Fで売り、再びパリへ行きます。
が、店の籍はミルクールへ残したままです。
パリでは、ヴィヨームの下で働きつつ、
ミルクールの籍を使って、自分の弓作りもしています。
はじめはパリでも質の高い弓を作っていましたが、運悪く病気になってしまい、
そこからはクオリティが落ち始めます。
1855年10月30日、パリの住居で亡くなりました。
34歳でした。
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という感じです。
こんなに才能があったのに、34歳でなくなってしまうなんて、
とても惜しいですね![]()
本当は、写真の一つも載せたかったのですが、
パンフレット掲載の写真の著作権うんぬんと、最後のページに書いてあり、
怖くなって、載せるのやめました![]()
このブログに載せたところで、見る人なんて、そんなにいませんが、一応・・・(笑)